黒猫チャペルのつぶやき

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父殿と母殿について その3

2010年12月10日 | みのりのつぶやき-成長の足跡
 病室で父殿を迎えた祖父殿は、母殿に口述してご自身の確定申告書をまとめておられた。この頃祖父殿は本業の他に、依頼された社史や創業者自伝のゴーストライターなどをしてかなりの雑収入を得ていて、死後それらが不明瞭になるのを懸念してのことであった。そればかりか、勤め先の新聞社に掲載する予定稿として、既にご自身の死亡記事を書きあげておられたという。死亡日だけが空白になっていて、喪主名、葬儀の場所などまで予め想定して書き込まれたものだった。そして父殿の顔を見るなり、「礼服、持ってきたか?」とお尋ねになった。持ってきてはいない旨答えると、これから行って作ってこい、と祖母殿に店名をあげて指示をした。祖母殿はその日のうちに確定申告を終えるとともに、指示通り父殿をともなって洋服店に行き、既製服の礼服を買い整えた。自身の死期が迫っていることは確実なものとして既に受け入れておられた。無論禁じられてはいたが、入院の直前まで飲酒も煙草もやめることは無く、祖母殿を含めた周囲もあえて止めはしなかった。

 翌日には当時四国の高松に勤めを持たれていた伯父君も帰ってこられ、久しぶりにご家族4人、顔を合わされる。祖父殿、朝から比較的元気で、見舞客にも平素と変わらずお話をされていた。入院後食欲が無く、病院で出される食事にほとんど手をつけない日が続いていたが、この日は午後になって、マンゴーかパパイヤなら食べたい、ということをおっしゃったので、父殿が買い求めに出られる。が、間に合わぬうちに意識を失われ、そのまま危篤状態となり、いったん高松行きの電車に乗りかけていた伯父君もただちに呼び返される。父殿、伯父君が戻った時にはもう息をしているばかりだった。幸い苦しそうな様子はほとんど無し。心電図、呼吸のモニター画面をただ見守る時間が続き、翌早朝、静かに息を引き取られた。もともと延命処置は望んでいなかったことから、医師もただ臨終を確認されたのみ。父殿にしてみれば、骨折という思わぬ出来事は、まさに祖父殿が休みの取りづらい勤めの父殿を呼びよせたようなものであった。葬儀には群馬の祖父母殿、母殿も車を飛ばして馳せ参じて列席。

 時をおかず、3月の初旬、父殿と母殿は正式に結婚をされた。結婚式も何もなく、ただ高崎市役所に赴いて婚姻届を出したのみである。ただし後日、貸衣装のウェディングドレスとタキシードで写真だけは撮った。年度末には母殿の臨時教員としての採用期間も終了し、そのまま母殿は父殿のアパートにほとんど身一つでやって来られ、同居をスタートさせる。6畳1間きり、家具といってはテレビとちゃぶ台と小さな冷蔵庫があるだけ、風呂もユニットバスで情緒の無いのはまだ良いが、そもそも単身者の居住に限ると契約に明記されていた物件であるので、早々に移転が必要になる。休みの日を使って父殿が家賃の安い地域の不動産業者を回って歩き、一方母殿は、東京藝大の目標を現実のものとするため都心の名の通った予備校に入学手続きを取り、通学を始める。5月、北区王子に格安の部屋を見つけ、転居。

 この王子の家は甚だ奇抜な物件であり、大晦日の狐の行列という行事で知られる王子稲荷神社の境内にあった。と言うより、神社が経営母体である幼稚園の2階部分が2戸だけの賃貸住宅となっていて、更に3階部分は(傾斜地にあるため)神社そのものの建つ平面の庭に続く休憩所という構造、その1室に入居したのである。ベランダの下は幼稚園の運動場である。当然朝から相当にかまびすしい。そういう特殊なアパートではあったが、陽あたりは良く、住んでみれば閑雅な趣もあり、6畳と4畳半の間取りであったがいずれも板の間が付属していて畳数よりずっと広い上に、台所、風呂場、押し入れなども広々としていて、何とも心地よい住みかであったという。もっともトイレがしばしばつまるのと、祭礼があるときには業者が提灯のコードを張りめぐらせるために勝手にベランダに侵入してくるのには閉口したとの由。この家で父殿と母殿は2年と半年余りを過ごされる。狐の行列にも、初午の凧市にも幼稚園の運動会にも、親しくなじまれた。

 さて父殿、居酒屋勤めで得る給料は一人暮らしなら分相応のものであったが、二人になってみるとやり繰りはしても決して十分なものでない。再度の転職を考えるようになり、某日、たまたま新聞紙上の募集広告を見つけ、外資系のクレジットカード会社の債権担当に応募してみる。新聞が古いものだったため、申し込み締切日が翌日あたりに迫っており、電車に乗って当の会社の前まで行って投函した。幸い書類選考に通って面接が行われ、これまでの経歴も何となく面白がられた上に、後に上司となる面接官の方ともウマが合って、とんとん拍子に採用が決まる。居酒屋の会社の方に申し出て、9月1日より新しい会社に移ることとなる。その期日までは従来通りの勤務を続けるはずであったが、目前の8月半ば、熱された揚げ油の中に右手を突っ込んでしまって大やけどを負う。どうもよくよく不器用な人である。それでも毎月月末の夜間に行われる棚卸作業にも従事し、夜を徹して月間の営業報告を書き終えたその足で一睡もせぬまま、右手はぐるぐる巻きの包帯姿で新しい勤務先に出社したのであった。

 ようやく生活は安定を見、父殿と母殿は連れだって山に登ったりなどなされるようになる。母殿は登山靴が気に入って、一時は普段街を歩くにも登山靴ばかり履いて過ごしたりした。群馬の祖父母宅を拠点に谷川岳や妙義山にも登れば、丹沢にも出かけ、富士山にも高山症状に苦しみつつどうにか登った。北海道には2度の夏に渡って出かけ、利尻岳や羅臼岳に登った他、父殿のこよなく愛する礼文島の道も歩いた。山だけでなく、四国まで船旅をしたり、青春18きっぷを使っての鉄道の旅で会津、遠野、津軽、秋田など多くの地を二人で訪れた。結婚から2年目の平成13年にはパリに飛び、1週間滞在してルーブル美術館やベルサイユ宮殿などをはじめたっぷりと観光し、最後の夜は当時三ツ星の代名詞であったルカ・カルトンでディナーを食されるなど優雅な気分を味わう旅行ができた。母殿にとってはこれは初めての海外旅行であったが、父殿は地下鉄の中で名人芸的なスリに逢い財布を取られるなどして余り頼りにならなかった。

 その年の暮、思い出多い王子の地に別れを告げ、墨田区向島の現在の住まいに移る。この家を見つけるまでにはずいぶんな数の物件を時間をかけて見て回られたが、なかなか本当に気に入るものがなかったところ、余り期待を持たずに訪れたこちらでたまたまキャンセル物件があり、条件的にも適当であるのを知る。その日は雨が降っていたが見学を終えた頃合に丁度やんで、桜橋を浅草方面に歩いて帰ったら夕暮れの隅田川の風景が余りに美しかったので断然気に入ってしまって、翌日正式に申し込みを決めた、という経緯であったようだ。母殿は藝大への挑戦をずっと続けていたが、その翌々春ついに念願かなって合格、気分も新たに学生として研究活動に入る。はじめの2年は取手の校舎、以降は上野であったが、いずれに通うにもこの家は具合のいい立地であった。上野には専ら自転車で通われた。翌16年2月、お二人揃っては3度目の北海道旅行、網走のユースホステルに連泊してフェリーで流氷を見物し、帯広を経て、積丹半島のユースホステルではおかみさんに雪の中神威岬まで案内していただくなど大層温かいもてなしを受けた。

 その年の秋に私の誕生となり、現在に至っている。

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