HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

天津旧イタリア租界 梁啓超旧居

2024-02-24 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界を歩いていると、こんな立派な建物に多くの観光客が出入りしている様子が見えてきました。



なにかの博物館でしょうか。

玄関に掲げられている表示をみると、ここは梁啓超の旧居で、梁の博物館にもなっているようです。



梁啓超(1873-1929)は清代末期と民国時代に活躍した活動家です。
浅田次郎の「蒼穹の昴」シリーズに登場する梁文秀のモデルになったとされる人物です。

本当にこの人物をモデルにしたのかどうかは浅田先生本人に聞かなければ分かりませんが、小説のあらすじや年代、生い立ちから考えると重なる部分が多いので、たぶんそうなのだろうと思います。名前も同じ梁ですし、同じ変法運動の主導者だった康有為や譚嗣同が小説に実名で登場するのに対して梁啓超は出てきません。楊喜楨の語りの中で少し触れられるだけです。

梁啓超が天津に移り住んだのは1914年という記録がありますが、それがここだったのでしょうか。
その後はよくわかりませんが、1927年に王国維が北京で死去した際、天津から駆けつけたという記録がありますので、晩年は天津で暮らしたようです。



今回は時間がなかったので入場しなかったのですが、次に天津を訪問する際には博物館を見学してみようと思います。

梁は清代末期から民国にかけての激動の中国を生き、日本で暮らし、その間目まぐるしく主張を変えた思想家です。和製漢語をたくさん中国伝えた人物としても知られます。
きっと内外の情勢の変化を敏感に感じ取る能力が高かったのだと思います。

いつかゆっくりと著作を読んでみようと思います。

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天津旧イタリア租界 湯玉麟旧居

2024-02-21 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界で湯玉麟の旧居を見かけました。

湯玉麟(1871-1937)といえば張作霖の盟友で、奉天派の軍人です。





浅田次郎の傑作「中原の虹」に登場します。

役どころは張作霖馬賊の四当家でした。新民府と奉天城の清国正規軍との連絡役です。
小説では「麒麟当家」、「麒麟攬把」ともよばれていました。

総攬把の張作霖が湯玉麟の先導を受けて奉天に赴き、徐世昌東三省総督に仕事の報酬を直談判するシーンがありました。交渉が難航するとみるや、湯は徐世昌の眉間に銃口の狙い定め、その状態で紅鬼子の首を取った代償として10万元を脅迫するという緊迫の場面です。浅田次郎のこういう緊迫のシーンの描き方は特に印象に残ります。

このやりとりは創作だと思いますが、この頃の湯は36歳ぐらいです。

また、終盤で王永江が張作霖が山海関を越えて北京に攻め入ろうと画策していると疑ったのに対して、思い過ごしだぜ、と諫めます。これは駆け引きなのだと。
これまたカッコいいシーンです。

史実によると、湯玉麟はその後も基本的には張作霖とともに行動し、1926年からは熱河省の行政を司りました。その後日本軍が熱河を奪うと、1933年にこの天津に逃亡してきました。





湯玉麟がここで暮らしたのは1933年から没する1937年までだったようです。ときに湯はすでに60代になっていました。

このルネサンスとバロックが融合したような洋館は1922年の竣工です。いかにもイタリア租界の建物です。当時は北洋政府交通局長の邸宅として建設されたのだとか。イタリア人建築士の設計でしょうか。

今は何の用途に使われているのか分かりませんが、保存状態はとても良好そうに見えます。

個人宅としてはずいぶん立派で広い家です。激動の時代を生きた湯にとって、天津での暮らしはどのようなものだったでしょうか。

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武漢長江大橋を自転車で渡ってみる

2024-02-18 | 武漢を歩く
武漢に行ったからには長江の大きさ自分の足で実感してみたいと思い、武漢長江大橋を自転車で渡ってみることにしました。



武漢長江大橋は1955年から2年がかりで建設されました。開通は1957年です。長江に架けられた最初の橋です。





当初はソ連の技術協力を得て設計や建築を進めたものの、二国間関係が悪化してソ連の専門家が引き揚げてしまったため、その後自力で完成させたと。
この話は中国国内の古いプラントなどでよく聞きますが、この橋もそうなのですね。

いずれにせよ、中国にとっては民族魂の結晶みたいな大事業で、超一級の歴史的土木建築物と言えるでしょう。

1962年に発行された紙幣(2角)のデザインにも採用されました。

武漢長江大橋は2階建てになっています。上が車両と歩行者、下が鉄道用です。
この1階と2階部分をトラス構造の鉄骨が支えています。

橋の長さは1670メートルもあるそうです。
レインボーブリッジは800メートルだそうですから、2倍です。

しかし、この橋を渡るためには、その1.4キロほど手前の交差点まで回り込む必要があります(左岸から渡る場合)。

えっちらおっちら、自転車を漕いで橋までの坂道になったアプローチ部分を上ります。



ようやく橋台に着きました。
いやはや、高いです。

武漢三鎮が一望できます。欄干から下をのぞくと足がすくみます。
高さは35メートルあるのだとか。12階建てビルぐらいでしょうか。



走っても走ってもなかなかゴールが見えてきません。

長いです。
地図をみるとこの辺りが一番川幅が狭そうなので、橋を架けるにはここが都合がよかったのだと思いますが、それでも長いです。



この下を鉄道の線路が走っています。
頑丈そうです。70歳の大きな老橋、なかなか立派です。

この橋を歩いて渡っている人たちの姿がありますが、相当時間がかかると思います。

この高さを自転車で通過する経験はこれまでないので、ハンドルを持つ手に自然と力が入ります。
なかなか浮遊感とスリルのある時間が続きます。



10分ほどペダルを漕ぐと、ようやく右岸に到着しました。

真正面に黄鶴楼が見えてきました。



辛亥革命の一端となった武昌蜂起が起きたのもこの辺りです。

ふう、なんとか渡り切りました。

2007年頃だったか、南京長江大橋を歩いて渡ったことがありましたが、それ以来の長江の自力渡河となりました。
よい思い出になりました。

橋は全国重点文物保護単位だそうです。それはそうでしょう。
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紫禁城 武英殿浴徳堂

2024-02-15 | 北京を歩く
故宮の武英殿の一角に、浴徳堂という小さなお堂があります。



ここは乾隆帝が香妃のために作ったドーム状になったイスラム様式の浴室でした。

香妃は兆恵将軍がウイグルでとらえて捕虜にしたジュンガルの英雄・ホージャ・ジハーンの妻でした。

紫禁城に連れてこられた香妃を見た乾隆帝は一目惚れします。当時香妃は27歳、乾隆帝は50歳でした。乾隆帝は香妃を側室に指名しますが、香妃は乾隆帝の求愛に答えません。

なにしろ乾隆帝は自分の国だったジュンガルを滅ぼし、夫の命を奪った人物を殺した人物です。怨嗟にたぎっていました。

そこで乾隆帝はお気に入りの香妃の気を引くために故郷を思い出してくれるだろうとこの浴室を作らせました。

しかし、香妃は一度もこの浴室を使うこともなく、8年におよぶ乾隆帝の求愛に最後まで答えることなく自分の意志を貫き、死を望み、短い一生を終えます。
あれだけ絶大な権力を誇った乾隆帝ですが、決して人の心までは奪い取ることができなかったと。



このエピソードは小説「蒼穹の昴」で描かれています。

それにしても、乾隆帝はなんでこんな外朝のはずれの方に浴室を作ったのでしょうか。生活空間だった内廷からはだいぶ離れています。歩けば10分以上かかりそうです。

ひょっとしたら香妃が浴室を使わなかった理由は遠すぎたからでしょうか。せっかく温まっても湯冷めしてしまうじゃないかと。
いや、まさかそんな理由ではありませんね。香妃を住まわせていたのはこの辺りだったのかもしれません。

残念ながら浴室は非公開になっていました。改修中でしょうか。



紫禁城の中でも非常にミステリアスな宮殿のひとつです。
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紫禁城 武英殿

2024-02-12 | 北京を歩く
武英殿は紫禁城外朝の南西側にあります。





明代の15世紀前半に建てられました。
ここは明代末期の1644年、農民反乱を起こして紫禁城を乗っ取った李自成が大順政権の即位式を行った場所として知られます。

その後清代になると、康熙帝の時代に武英殿書局として文書を編纂する場所として活用されるようになります。



乾隆帝の時代にはかの四庫全書の一部の編纂作業が行われました。
ちなみに、四庫全書は2021年のテレビ東京「開運なんでも鑑定団」に千葉県在住の応募者が出品し、4冊で1,500万円という価値が付けられました。
1940年に北京で働いていた祖父が骨董品市場で見つけて買い求めたのだとか。



民国時代の1913年には大総統になった袁世凱がここに数百人の外交人の賓客を招いて茶会を開いたという記録もあります。

その翌年の1914年には火災で焼失し、その年に再建されました。



今は陶磁器や書画の展示施設として利用されています。

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紫禁城 太和門

2024-02-09 | 北京を歩く
故宮の太和門です。

午門を抜けると正面に大きく見えてきます。



紫禁城の門としては最大です。





外朝の入口に当たります。明代の1420年の造営だそうです。威厳と迫力たっぷりです。



この門は1888年12月に光緒帝と隆裕が結婚式を挙げる数日前、門を警備していた2人の門番がかがり火をつけたままうっかり居眠りしてしまい、門に引火して焼失してしまったというエピソードがあります。

これは大変なことです。
これでは花嫁の隆裕はしきたりにしたがって太和門から紫禁城に入ってくることができません。

そこで西太后は熟練した職人を集め、結婚式では紙や竹竿などを使って張り子の太和門を作り、代用したのだとか。

結婚後の光緒帝は隆裕と良好な関係を築くことができず、時代の激流に飲まれるように短く不運な人生を歩みました。

隆裕は光緒帝の関心を得られず、清代最後の皇太后として不遇な時を過ごし、失意のうちに45歳でこの世を去ります。
二人の不幸はこの瞬間から始まっていたのでしょうか。

今の門はその翌年に再建されたそうです。

小説「蒼穹の昴」では、梁文秀が殿試を受験するために紫禁城を訪れた際、太和門の西側の門である貞度門を通過するシーンが描かれていました。これは1886年頃の設定です。

ところで、紫禁城の内外を歩くと、いたるところでこれでもかという数の門に出くわします。

往時のこの用心ぶりには驚くばかりですが、これだけの門をこさえてどういう通行管理体制をしたのでしょうか。今のようにセキュリティカードやパスワードや生体認証とか便利なものがなかったわけですから、すべて人力でのオペレーションだったはずです。

相当な労力を要したことは想像に難くありません。





これは東側の門である昭徳門です。
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漢口旧ロシア租界 旧ロシアンクラブ

2024-02-02 | 武漢を歩く
旧ロシアンクラブは漢口の旧ロシア租界、蘭陵路にあります。



1916年に建てられました。左右対称のデザインです。ビル正面の2階部分にはロシア建築らしいベランダが設えられています。

壁面は壁柱によって縦方向に分割されていて、おり、壁柱には縦方向の優美な装飾ラインが施されています。
こういう装飾は旅順や大連に残るロシア建築ではあまり見かけませんが、これもロシア風なのでしょうか。



ロシアンクラブは当時の漢口で暮したロシア居留民の集会や娯楽の場所だったそうです。漢口のロシア租界は1896年に始まりました。ロシアが旅順を租借したのとだいたい同じ時代です。





漢口のロシア租界は1924年前まで続きました。

ビルは最近修復が行われたようですが、必要以上に手を入れず、比較的オリジナルの姿に忠実に工事を行ったように見受けられます。



左側が旧ロシアンクラブです。今はレストランとして使われているようでした。




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浩海火焼雲傣家菜 - 話題の行列店で名物の中華シチューを味わう

2024-01-30 | たべる
近所のモールに、いつも店の前で行列しているレストランがあります。春夏秋冬、いつ通りかかっても店の前には人だかりができています。

ここは20店ほどのレストランが集まる一角です。
周囲の店はがらんとしていても、この店だけは賑わっています。1時間、2時間待ちは当たり前のようです。並んでいるのは若者ばかりです。

提供しているのは創作雲南料理のようです。

外観上はごく普通のレストランですから、相当に客を惹き付ける看板メニューがあるに違いありません。
とはいえ、この行列に並んでまで試してみる気にはなれず、いつも横目で眺めていました。

仕事が休みになったある平日の午後4時ごろ、たまたま店の前を通りかかったら空席がありました。
これはチャンスかもしれません。

入店してみました。



スマホでこの店の人気メニューを検索して、支持1位と2位のメニューを注文してみました。

人気1位は油燜鶏という鍋料理のようです。

辛さが5段階で選べるというので、真ん中の3にします。
ちなみに「燜」という漢字は鍋にふたをしてとろ火で煮るという意味を指します。

ややスパイシーな香りとともに、中央に穴の開いた鍋が運ばれてきました。



この穴あき鍋は刷羊肉(北京火鍋)で使うやつです。



見たところ、じゃがいもを溶かしたとろみのあるスープに鶏肉がぎっしりと入っています。
いや、これはもはやスープではありません。シチューみたいなものです。

さっそく食べてみます。



熱々のシチューをはふはふ、ふうふうと口に含むと、なんとも旨味にあふれた味わい深いが広がります。

これは美味しいです。初めて食べる味です。

どんな味付けをしているのかわかりませんが、たくさんの香草や調味料が入っているのか、複雑な味です。しかし刺激は少なく、どちらかといえばマイルドです。じゃがいもがその働きをしれいるのかもしれません。
これは人気になるのも頷けるというものです。

人気2位の黒三剁はどうでしょうか。

豚肉や赤トウガラシ、青トウガラシ、カラシナなどを細かく刻んで炒めた料理のようです。



これまた美味しいです。

1位も2位も、味付けが濃い目でいかにもごはんに合いそうなメニューです。
現に周囲のテーブルを見回すと、大盛のごはんを左手に持ってかき込んでいる客の姿が目立ちしました。

おそらく、両方とも伝統的な雲南料理ではないと思います。
中華料理の業界も顧客獲得のために工夫し、日々進化していることを実感しました。

よい店を見つけました。
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紫禁城内廷 乾清宮

2024-01-27 | 北京を歩く
乾清宮は内廷後三宮のひとつで、内廷の中心的な宮殿です。北京中軸線上に位置します。





1420年に造られ、その後何度か火災による焼失と再建を繰り返し、今の建物は嘉慶帝邸時代の1798年に建てられたものです。

皇帝の日頃の執務や謁見受け、生活の空間であったほか、清代には元旦や万寿節などの祝祭日にここで盛大が宴席が催されたそうです。





有名な「正大光明」の扁額は三代皇帝の順治帝の揮毫です。長城を越えて明を滅ぼし、中原の覇者となった愛新覚羅の若き皇帝が書いたものです。



雍正帝以降の皇帝が次期皇帝の者の名前を書いたメモをこの扁額の裏に隠し置いたというのも有名な話ですが、そのことは側近のどこまでが知っていたのでしょうか。

浅田次郎先生は小説「中原の虹」でこの4文字について、登場人物である鎮国公載沢の見解として、お世辞にも上手な字であるとは言えない、幼い順治帝は異国語だった漢字を懸命に学び、この簡単な4文字をおそるおそる書いたのだろう、という見方を示していました。

なるほど、そう言われてみればそのようにも見えますし、想像力を掻き立てられます。





小説では、この乾清宮で宣統帝溥儀が袁世凱の謁見を受けるシーンがありました。

袁世凱は溥儀から湖広総督の勅命を受けたのち、皇族内閣を解散して自分を総理大臣にして全権を与えてほしいと切り出します。

袁世凱の突然の訴えに戸惑う親王らを尻目に、幼帝の溥儀は突如幽霊となって玉座の上に現れた西太后の声に操られて袁を内閣総理大臣に指名し、親王皇族の異議を認めぬ、と堂々と言い放って周囲を驚かせます。

なんとも愉快なシーンでした。

「蒼穹の昴」は、乾隆帝が78歳になった老絵師のカスチリョーネを呼んで2人きりで満洲語で話し合ったのもここでした。

これは創作であるとしても、乾清宮はさまざまな歴史の舞台になってきた紫禁城の重要な施設のひとつです。



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紫禁城 九龍壁

2024-01-24 | 北京を歩く
紫禁城の九龍壁は寧寿宮エリアの皇極門の前にあります。





乾隆帝時代の1772年に造られました。長さ29メートル、高さ3.5メートルの壁に9匹の龍のレリーフが描かれています。

生き生きとした龍はそれぞれ違う形や表情をしており、迫力満点です。



この九龍壁には有名な逸話があります。

左から3番目の龍の腹の部分は瑠璃瓦ではなく木材彫刻が嵌め込まれています。
これは製作中にうっかり瑠璃片を破損してしまった職人たちが、製作の締め切り日が迫る中どうしようどうしようとなり、制裁を恐れて2日2晩をかけて急ごしらえで製作し、隠蔽したものだとか。

完成した九龍壁をみた乾隆帝はたいそう感嘆し、喜び、瑠璃瓦の1枚1米を何度も観察したそうですが、バレずにごまかし切ったのだとか。

おもしろいですね。



ここです。



いかがでしょうか。

今であれば木材部分は経年で塗料が落ちてしまっているのでバレると思いますが、当時はそれだけ仕上がりがよかったのだと思います。

浅田次郎の小説「中原の虹」では、この九龍壁に関するもう一つの伝説が描かれています。

あらましはこうです。

●今の九龍壁は乾隆帝が再建したものだが、明代にあった九龍壁はもっと立派だった。
●李自成の農民一揆が紫禁城に押し寄せた際、明代最後の皇帝となった崇禎帝は天命のみしるしである龍玉をこの九龍壁に塗りこめ、景山に登って自ら命を絶った。
●その後満洲軍が長城を越えて紫禁城に入城を果たした。当時7歳の幼帝だった順治帝が九龍壁に小さな手を触れたとたん、黄龍の鱗が崩れて隠されていた龍玉が転げ落ちてきた。つまり、龍玉は順治帝が皇帝となることを認めた。

摂政王だった醇親王と鎮国公載沢がこの壁の前でそれを語り合い、やっぱり伝説だよな、と確認しあうシーンでした。

その後、一人で現場に残った載沢は「落城」というタイトルのまぼろしのシネマを観ます。
スクリーンは皇極門で、その奥が九龍壁です。

載沢は、そのまぼろしのシネマを通じて伝説が本当であったことを知ります。

李自成がどんなに頑張って探しても見つけられなかった龍玉を、順治帝は夢に現れた祖宗に導かれてあっさりと手にしたのでした。

こういう傑作小説の印象的なシーンに我が身を置くことができるのは、駐在員ならではの特権です。






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日清カップヌードル日本風味を食べる

2024-01-21 | たべる
中国でも日清カップヌードルは広く浸透していて、合味道というブランド名でほとんどのコンビニやスーパーで見かけます。

ラインナップもたくさんあります。
しょう油味やシーフード、カレーといった定番商品のほかに中国ならではのオリジナル商品もあります。

忙しいときや時間がないときには重宝します。しかし、味は日本製のそれとは少し違います。
国も材料も違うのですからカスタマイズするのは当然です。

最近、このラインナップに日本とまったく同じ味の商品3類(しょう油、シーフード、カレー)が加わったということで話題になっているので、試してみました。

しょう油味です。



値段は中国仕様より少し高めです。1つ10元弱ですから、日本で買うのと同じぐらいでしょうか。

パッケージも日本のそれと同じです。一見輸入品かと見紛うようです。



合味道とは書かれていません。

熱湯を投入して3分待ちます。味はどうでしょうか。



驚きました。

これは完全に日本のカップヌードルと同じ味です。スープのだしが効いていて、とても深い味わいです。
完コピです。

数年ぶりに食べる味です。



日清さん、やりますね。これはありがたいです。

外国でも日本とまったく同じ味を再現することができるのですね。ちょっと本気出してみた、というところでしょうか。

この国にこういう商品に対する市場があるのでしょうか。実験的な商品だと思いますが、外国においてこういうチャレンジは興味深いものです。

今後中国で消費者がこの商品に対してどういう反応をするのか、注目してみようと思います。
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天津旧英国租界 張作相旧居

2024-01-18 | 天津を歩く
天津の旧英国租界である五大道を歩いていると、張作相旧居なる洋館を見かけました。



場所は重慶道です。



偶然です。ああ、あの張作相の家か、とつい独り言が出ました。

張作相といえば浅田次郎の小説「中原の虹」に出てくる新民府の張作霖馬賊の三当家です。
小説では白猫とか猫攬把とよばれていました。
牙のような鋭い八重歯があって、白虎張の弟分だから白猫、という説明でした。

ぶっきらぼうですが男気のある人情家として描かれていました。
銀花が包丁を握った亭主に追われて血まみれで天主堂に逃げ込んできたピンチを救った場面がありました。



実際はどういう人物だったのでしょうか。

張作相は1881年生まれで1949年に没しています。
張作霖のもとで兵団を率い、奉直戦争に従軍しました。吉林省の省政を指揮し、吉海鉄道や吉林大学をつくりました。張作霖爆殺事件の後は張学良を立てました。

天津のこの家には満州事変後の1933年から逝去するまでの16年ほどを過ごしたようです。
引退後に日本から満州国の要職への就任を打診されたこともあったようですが、断ったそうです。やっぱり実際にも男気のある人物だったようです。



この3階建ての洋館は1929年に建てられました。
張作相への篭絡を図った関東軍の幹部たちは何度もこの屋敷に手土産を持って足を運んだのではないでしょうか。


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漢口給水塔旧址

2024-01-15 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界の中山大道を歩いていると、こんな8階建てのレンガ造りの八角形の塔が目に入ってきました。





これはなんでしょうか。
遠方から見たら一瞬教会かと思いましたが、違うようです。給水塔です。



1909年に建てられたものだそうです。
こういう形の給水塔は初めて見ました。

水道技術が発達した現代ではとうに給水塔としての役割は終えているはずですが、こんな街の真ん中でよく今まで保存されてきたものです。

レンガ造りでこの高さの建造物は珍しいと思います。

建造から1世紀以上を経た今でも目立っていますから、当時は相当目立ったと思います。
武漢には70年代までそれほど高い建造物がなく、この頃までこの給水塔はランドマークだったそうです。

高さは41メートルあるそうです。英国人技術者ミューアの設計によるそうです。



ほとんど劣化のない明るい目の色のレンガが目を引きますが、これは近年改修が施されたためのようです。

この給水塔は1日当たり2.7万トンの水を供給する能力を持ち、租界地区すべてと旧漢口の中心エリアの約10万人用の水を賄い、1980年代初頭まで活躍したのだとか。
いやはやなんとも重要な近代歴史遺産です。

最上階にある監視塔は火の見櫓の役割も果たし、地元の民間消防組織と保安協会が派遣した監視団が巡回に当たったそうです。

つまり、棟は給水塔と消防とという2つの役目を持っていたわけです。

最上階にある監視塔には警鐘があったそうです。
今もあるのでしょうか。また、どんな音を出したのでしょうか。

願わくば一度監視塔に登ってみたいものです。



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ジャーディン・マセソン商会社員住宅旧址

2024-01-12 | 武漢を歩く
武漢の旧ロシア租界の黄陂路を歩いていると、こんな存在感のあるレンガ造りの洋館を見かけました。





交差点に面した外壁がカーブしながらギザギザの階段状になっていて3階のエントランスに繋がっています。

この建物は写真スポットになっているらしく、若者が入れ代わり立ち代わり、この建物の前でポーズを決めて写真に納まっています。



この建物はなんだったのでしょうか。

エントランス付近に掲げられている優秀歴史建築のプレートを見ると、怡和洋行住宅とあります。

怡和洋行とは英国資本のコングロマリットであるジャーディン・マセソン商会のことです。

1832年設立の東インド会社の後継となった企業で、アヘンと茶を貿易を担いました。

かの幕末の長崎で坂本龍馬らと交流して活躍した武器商人のグラバーが所属していた会社でもあります。

この建物はこの会社の漢口支店の役員クラスの住宅だったそうです。

エントランスを入って右に曲がると、階段が半円を描いて建物を取り囲んでいます。
非対称の3階部分と4階部分には開放的なベランダとバルコニーが設えられています。



なんだか子どもが積み木かレゴで作ったような遊び心満載のつくりです。子どもが見たら喜んでぴょんぴょんと階段を駆け上っていきそうです。

設計者などの詳しい情報がわかりませんが、優秀歴史建築のプレートに-1919-とあるので、これが建築年次なのでしょう。



当時の漢口租界の覇者だった英国を代表する会社の社員住宅ですから、ここで暮らした社員は肩で風を切って租界を歩いていたのではないでしょうか。
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旧ヘミングス&バークレー社ビル

2024-01-09 | 武漢を歩く
漢口旧英国租界の鄱陽街と青島路の交差点にこんなモダニズム様式の立派な6階建てビルが建っています。



これは英国の建築会社であったヘミングス&バークレー社の社屋でした。中国語では景明大楼です。

ヘミングス&バークレー社(Hemmings & Berkeley Co、中国語では景明公司)は、何度かこの日記漢口編でご紹介していますが、武漢の歴史上最も大きな功績を残した外資系建築設計企業です。
漢口にはこの会社が設計した建築物が実にたくさん存在し、今もその姿をとどめています。

これだけ多くの歴史的文化財を生み出したわけですから、戦後の武漢における街づくりや建築活動にも少なからず影響を与えたはずです。

近代史に名を残しそうなものですが、英語のサイトを調べてみると、思いのほかヒットしません。
地元の英国ではそれほど知られた存在ではないようです。これはなぜでしょうか。

この6階建ての社屋もヘミングス&バークレー社が設計・建設したものです。1920年に建築が始まり、翌21年に竣工しました。

1階はオフィスとして使用され、2階と3階がアパート、4階と5階は持ち家だったそうです。

1921年の漢口で6階建ビルはかなり珍しかったはずです。英国租界の中でも注目を集めるビルだったと思います。

最上階のベランダが設えてありますが、今も利用できるのでしょうか。足がすくみそうな高さです。

ビルは1938年の日本軍による武漢陥落後には日本軍が接収しましたが、当時何に使われたのかはわかりません。



なお、このビルの5階は1948年8月7日に起きたとされる集団強姦事件の現場です。その日ここで開催されたダンスパーティーで20人以上の米軍将校が30人以上の中国人女性に恥辱を尽くしたと。通報を受けた漢口警察局も取り合わず、武漢国民政府も事件を隠ぺいした事件とされています。

ネットでこのビルの情報を検索すると、この事件の情報ばかりが出てきます。



ビルは現在、武漢戦略発展研究所という組織が利用しています。
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