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1. 表題書籍後半の概要
-第6章「陰陽原理」で読む経営 (p.141-175)
-第7章「対称性」で読む経済格差 (p.177-205)
-第8章「ミツバチ」で読む経済成長 (p.207-233)
-第9章「比較の心理」で読む豊かさと幸福 (p.235-254)
-第10章「ファジイな倫理」抜きでは読めない経済 (p.255-p.280)
2. 経済学者による経済学批判
更新履歴とシリーズ記事
一つの章の説明に丸々一つの記事を使うのがまだろっこしくなったので、残った後半の章は、
この記事で一通り説明してしまう。
1. 表題書籍後半の概要^
表題書籍前半(第1章-第5章)では、主流派(=新古典派)経済学の理論/主張する命題が
内包する問題の指摘に軸足が置かれているのに対し、後半(第6章-第10章)では、現時点での
資本主義社会のありかたの問題を、主流派経済学が前提としている価値観と関係付けて批判的に
見ていくことに軸足が移る。表題書籍「はじめに」p.12 では、次の対応付けが示唆されている。
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主流経済学の価値観 vs 表題書籍後半の各章の表題 (ページ範囲:空白のページを除く)
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経済は性別とは無関係 vs 第6章「陰陽原理」で読む経営 (p.141-175)
経済は公平 vs 第7章「対称性」で読む経済格差 (p.177-205)
経済成長は永遠 vs 第8章「ミツバチ」で読む経済成長 (p.207-233)
経済成長は人を幸福に vs 第9章「比較の心理」で読む豊かさと幸福 (p.235-254)
経済成長は常に善 vs 第10章「ファジイな倫理」抜きでは読めない経済 (p.255-p.280)
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ただ、実際の各章の内容は、必ずしも章の表題との関係が分かりやすいとは言えないと感じた。
「第6章 「陰陽原理」で読む経営----男女不均衡が与える悪影響」では、「合理的経済人」
仮説に基づく主流経済学の教義に基づく行動が不合理の極み=破滅的な「向こう見ず」および
厚顔無恥な「無神経」でしかない事例が列挙され、その原因の一つを「陰陽原理」の「陰」を
無視/軽視していること----例えば、女性が重要な経済的意思決定に関与する度合いが少ない
こと----に求めている。本ブログ筆者は、陰陽という言葉で言い換えても、「性差についての
「ステレオタイプ」に基づく(文化人類学の性差に関する知見と必ずしも整合しない)議論」
という感触は拭いきれない部分があると感じた(主に「個人」の行動について言及した部分。
統計的事実について言及している箇所は、特に違和感はない)。あと、最後近くに挙げられて
いる「グラミン銀行」について、「文化」の観点で議論する際、(表題書籍での言及はないが)
「イスラム金融」との関連にも言及しておく事が望ましいと、本ブログ筆者は考える。
第7章表題中の「対称性」と内容である「公平性」の関連は、あまり直観的ではない。物理学の
「「自発的対称性の破れ」による、高い対称性のある状態から対称性の低い状態への遷移」が、
「富が等しく分配された状態から極端に分配が偏った状態への遷移が、値動きの激しい市場への
長期間の参加者に対しては、必然的に発生する」というシミュレーション結果が似ているという
(「対称性の破れ」という節 (p.187-190) で言及される話)あたりからの発想だと思われる。
なお、第7章の用語での「対称性」は、「ある操作を系の変数に施しても変化しない量や特性が
あること」なので、日常的な言葉では、むしろ「(空間や時間の)一様性」と呼ばれる場合も
含まれる。つまり、「平行移動で様子が変わらない」/「時間が経っても/過去に遡って見ても、
様子が変わらない」ことも、「対称性」と呼ばれる。ちなみに、こういった意味で「対称性」と
いう言葉が物理学や数学で使われる場合、「施すことを想定する操作の全体」は、「群」という
数学用語で呼ばれ、「対称性の高さ」は「「群」の集合としての大きさ/要素数」で測られる。
主流経済学は、経済が「均衡」という「時間について「対称」な状態」にあると想定するため、
「未来の変化」を適切に扱えず、エネルギーや資源の*急激な価格変動*により「南」側の国で
食料不足=飢餓が発生するなどの重大な問題状況への処方を持たない事も、指摘される。
# 以下 2022-09-30 追記。
特記しておきたい事として「アダム・スミスは悪名高い「トリクルダウン理論」の早期唱導者
である」との指摘が、「対称性の破れ」という見出しの一節 (p.187-190) の冒頭にある。
「対称性の破れ
アダム・スミスの見えざる手という概念は、たいてい、価格機構のことを言っているのだと
とられる。しかし、アダム・スミスが1759年の著書『道徳感情論』で最初にこの表現を用いた
のは、富の分布について述べる中でのことだった。
「豊かな人々は、貧しい人とともに、あらゆる施設・設備の生産を分ける。それは見えざる手に
導かれて、この世がすべての住民の間で等しい比率に分けられたとしたらそうなっていたはずの
生活の必要とほとんど同じ分布になり、そうして、意図しなくても、またそうと知らなくても、
社会の利益を増進し、人類が増える手段を提供する」。
見えざる手とは、市場の魔法のことを言うのではなく、通貨浸透説(政府が大企業を支援すれば
それが末端に浸透して経済が刺激されると考える)を早くに唱えてということなのだ。
....」
注)表題書籍は「トリクルダウン理論」ではなく「通貨浸透説」という訳語を使っている。少し
調べた限り、「ランダムハウス英和辞典」で "the trickle-down theory" に「通貨浸透説」という
訳語が当てられたことが起源で、事実上「公式の訳語はこれ」という状況になっているようだ。
ネットの辞書だと例えば https://eow.alc.co.jp/search?q=trickle-down+theory&ref=wl 参照。
なお、アダム・スミスはバーナード・デ・マンデヴィルの(著書「蜂の寓話」で示された)思想
から影響を受けたされる。しかし、思想の表現形態や知名度の差を考えると、アダム・スミスが
「通貨浸透説」=「トリクルダウン理論」の実質的元祖と考えてよさそうだ。
現実には、まったく成り立っていない話で、「理論」の体を成していない。例えば下記参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/トリクルダウン理論#議論
ところで、アダム・スミスもマンデヴィルも、"trickle-down" という言葉は使っていない。
では "trickle-down" という言葉を、最初に現在のような意味で使用したのは誰かについて、
下記 (1),(2) に「人の冗談を真に受けるな!」と評するほかない漫画のようなエピソードが、
恐るべきことに、現実であることが述べられている。「特権的富裕層の利益になる話は何であれ
「評価」される」という法則の実例の中でも、議論としての質が最低の部類である。
(1) https://en.wikipedia.org/wiki/Trickle-down_economics
"...
The term "trickle-down" originated as a joke by humorist Will Rogers and
today is often used to criticize economic policies that favor the wealthy or
privileged while being framed as good for the average citizen".
(2) https://psmag.com/economics/trickle-down-economics-is-indeed-a-joke#.wnzp1agw7
"Trickle-down" economics began as a joke. Seriously.
If there’s one person most often associated with the origins of of trickle-down
economics, it’s President Ronald Reagan. Few people know, however, that the phrase
was actually coined by American humorist Will Rogers, who mocked President Herbert
Hoover’s Depression-era recovery efforts, saying that "money was all appropriated
for the top in the hopes it would trickle down to the needy."
Rogers’ joke became economic dogma within two generations, thanks in large part
to Reagan. ...
...
Now, nearly 80 years later, Rogers’ quip is getting the punchline it deserves:
A devastating new report from the International Monetary Fund has declared the idea
of "trickle-down" economics to be as much a joke as he'd imagined.
Increasing the income share to the bottom 20 percent of citizens by a mere one
percent results in a 0.38 percentage point jump in GDP growth.
The IMF report, authored by five economists, presents a scathing rejection of
the trickle-down approach, arguing that the monetary philosophy has been used
as a justification for growing income inequality over the past several decades.
"Income distribution matters for growth," they write. "Specifically, if the income
share of the top 20 percent increases, then GDP growth actually declined over
the medium term, suggesting that the benefits do not trickle down. ...."
なお、 (2) の文中にある "A devastating New report" / "The IMF Report" は下記を指す。
https://www.imf.org/external/pubs/ft/sdn/2015/sdn1513.pdf
# 以上 2022-09-30 追記。
第8章表題中の「ミツバチ」は、「蜂群崩壊症候群」から「環境容量の原則」につなげる意図で
選ばれた話題だが、「蜂群崩壊症候群」の原因は未判明なので論理的には少々苦しい。次に出て
くる(魚の)タラ漁獲量制限の失敗による漁場崩壊の方が、話としては分かりやすい。つまり、
天然資源は主流経済学の理論では「無限」と仮定され、汚染や環境破壊は対策費用が支出される
場合にのみ「外部不経済/外部性」として考慮される事に過ぎないので、天然資源や環境破壊の
未来における状況を、価格機構=需要と供給の枠組みで適切に制御することは、不可能だと指摘
される。そして、経済成長、つまりGDPの継続的増加のみを経済政策の指標/目標とすることへの
疑義(第9章への伏線)が提示される。
第9章は「ヴィクトリア時代の経済学理論の創始者によれば、経済を成長させる主な目標は人を
幸せにすることだという」という文で始まる。そして「米国で「幸福度指数」が1960年代以降、
わずかに下がっている」、「物質的には生活水準が低い国々の方が幸福度が高い」との調査結果
への言及をマクラに、「新古典派経済学が前提とする価値観の由来」を、創始者たちの著作から
調べ、「(当時、「保存則」がホットな話題だった)エネルギー」に、「(「平均的人間」に
対する)効用」を、多くの違い(例えば、「エネルギー」の場合と違い「効用」を客観的に測定
する手段がないことや商品や労働の「効用」は状況により異なる事)を気にも留めず対応させた
だけの、「実体のないアイデア」に過ぎないことを暴露する。
「市場の仕組みは効用を最適にし ... 効用は市場価格から推測される」という「効率的市場仮説」
での説明と共通する「新古典派経済学の特徴となっている循環論法」も指摘される。こうして、
主流経済学の「数理科学的な外見」は基礎概念があやふやで、「見映えを良くするためのもの」
でしかないことが、第9章の前半 (p.235-241) で示される。
第9章の後半 (p.241 の「喜びを分かちあう」から p.252 の9行目から始まる段落/パラグラフ
(同じページの最後から3行目まで)で、「個人が幸福を求めて競争しているという考え方こそが
... 人々を不幸にしている (p.248)」側面や、「お金と幸福はまったく別の概念 (p.250)」で、
幸福は社会的なやりとりを含む、さまざまな要因に関係することが、心理学や社会学の知見などを
時に引用しつつ述べられる。「金融破綻や望まない失業に起因する過度の経済的ストレスをなくす
のも、幸福の支えとなる (p.251)」という論点から、第6章までで議論された経済の安定性問題と
幸福との関係にも言及される。
第9章の p.252 最後から2行目以降で「新古典派経済学のイデオロギーこそが、経済政策の指標や
目標を、よりバランスのとれた(真の意味で「最大多数の最大幸福」に役立つ)ものに切り替える
上での最大の障害だ」との論点=最終章(第10章)の予告が提示される。
アロウ=ドブルーモデルに銀行が出て来ないなど、金融業界の役割を小さく見る理論が横行する
一方、金融業界が価格変動に投機する機会の最大化/規制最小化を支持する政策が、新古典派の
シンクタンクにより提唱される現状も、厳しく↓批判される。
曰く、経済が効率的で自己安定性的なら、そして市場が効率的なら、中央銀行に利率を上げ下げ
させる意味はなく、各銀行が勝手に利率をつければいいはずでは?曰く、市場が上り調子のとき
自由市場と小さな政府がよいとするなら、危機になったとき税金で銀行が支援するのではなく、
破綻してもいいとすべきでは?とどめに、「このイデオロギーはまったく意味をなしていない」。
第10章では、まず「バーナード・マドフ事件(史上最大のネズミ講詐欺)」の顛末が紹介され、
続いて第8章の論点を引いて、「主流経済学の前提である経済観は、持続不可能という点では、
マドフの詐欺同然」とする。さらに「市場は正しい∴価格は正しい∴市場は正しい...」という
循環論法は、「真の意味での「最大多数の最大幸福」」に関連する倫理的価値を損っている事、
例えば、経済の安定性確保や環境保護に必要な制度を、「市場の論理」のみを全面的に肯定する
ことで妨害していると指摘する。第10章表題中の「ファジィな倫理」という言葉は、この文脈で
「(1(真)と0(偽)の中間の値も取り得る)「ファジィ論理」で「市場の論理」を置き換える
ことによって実現/擁護されるべき倫理」という意味合いであろう。
最後に、全ての章の内容を振り返って、新たな経済学の必要性が結論として述べられる。なお、
第8章の冒頭で述べられる「ミツバチ」の話は、表題書籍の著者にとっては、思い入れのある例
ということのようで、書籍の表紙には、多くのドル札の上に、一匹のミツバチが描かれている。
# もしかすると、マンデヴィルの「蜂の寓話」へのアンチテーゼという含みがあるのかも。
2. 経済学者による経済学批判^
表題書籍は「応用数学者の立場からの経済学批判」を展開しているが、「異端派経済学からの
主流経済学批判」の文献も参照していることは、既に何度も述べてきた。本ブログ筆者が既に
読んだ一般向け経済書で、下記両論点に言及しているのは、表題書籍だけだった。
- 現在の主流経済学(の「ミクロ経済学」)の基礎概念になっている「需要曲線、供給曲線、
効用」に対する「論理的基盤があやふや」との指摘
- 経済の不安定性についての、制御理論の観点を明示した上での指摘
本ブログの経済カテゴリの記事では、異端派経済学者の主流(=新古典派)経済学批判の
論点を、表題書籍では言及されていないものも含めて議論している。
なお、マイケル・ハドソンという異端派経済学者は、特に注目に値する。本ブログでは
独立の記事カテゴリ↑を立てている。ハドソンの議論の特徴は、マルクスの資本論のうち、
一般的な「マルクス経済学者」の注意を引く事が少ない、2巻と3巻(i.e. マルクスの死後
エンゲルスが遺稿をまとめた部分)で展開されている金融論を重視している事と、経済史の
研究に裏付けられた*負債に関連する社会問題*への独自の視点にある。
効用理論の批判は、今回の記事のための検索中、いくつかヒットした。他の論点については、
けっこうあちこちで見かける。例えば、下記。
https://toyokeizai.net/articles/-/243257
ガキっぽい情熱を克服できない経済学の実態
中野 剛志 2018/10/19 10:00
「...
本物の女王に権威を失墜させられた「社会科学の女王」
経済学批判の歴史は長い。もっとも、これまでの経済学批判は、もっぱら政治学、社会学
あるいは歴史学など経済学以外の分野からか、マルクス主義、歴史学派、制度学派あるいは
ポスト・ケインジアンといった、主流派から外れた異端派経済学から発せられてきた。
しかし、過去10年、主流派経済学者たちの中からの「内部告発」が相次ぐようになったので
ある。その理由は、明らかに2008年の世界金融危機(リーマン・ショック)の勃発にある。
... リーマン・ショックの勃発から間もない2008年11月、イギリスのエリザベス女王は、
経済学の世界的権威たちに「なぜだれも危機が来ることをわからなかったのでしょうか」と
尋ね、彼らを絶句させたという。「社会科学の女王」を自認する経済学の権威が、本物の
女王によって失墜させられた瞬間であった。」
エリザベス女王のご下問に応えるなら、次のようになる。
そもそも、主流派経済学の理論は、「完全情報を有する合理的な個人が完全競争市場において
最適化行動を行う」という非現実的な仮定を置いた「一般均衡理論」をベースとしている。
1980年代以降、この一般均衡理論を基礎としたマクロ経済理論を構築する試み(「マクロ経済学
のミクロ的基礎づけ」)が流行し、いわゆるRBCモデル(実物的景気循環モデル)が構築された。
さらにRBCモデルは、DSGEモデル(動学的確率的一般均衡モデル)へと発展し、1990年代以降の
マクロ経済学界を席巻するに至った。
...
しかし、この「ミクロ的基礎づけ」とは、非現実的な仮定に基づく論理操作であったため、DSGE
モデルなる理論モデルは、結局のところ、実際の経済から著しくかけ離れたものとなった。この
「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」の問題点には枚挙にいとまがないが、特に重大な欠陥は、
その根底にある一般均衡理論が「貨幣」の存在を想定していないということであった。...
エリザベス女王は知らなかったであろうが、主流派経済学者たちは、貨幣の概念を欠いた経済
理論に依拠していたのだから、金融危機を想定できるはずもなかったのだ。もっと言えば、その
ような経済理論が経済政策に影響を及ぼしていたことこそが、金融危機を引き起こしたとすら
言える。....
...
ローマーによれば、経済学者たちには、次の7つの特徴が当てはまると述べている。
①途方もない自信
②異常に一枚岩の共同体
③宗教団体か政党のような、同じグループとの一体感
④他分野の専門家から隔絶された強烈な内輪意識
⑤他のグループの専門家の思想、意見、業績に対する無視と無関心
⑥証拠を楽観的に解釈し、結果に対する大仰あるいは不完全な言明を信じ、理論が間違っている
かもしれないという可能性を無視する傾向
⑦研究プログラムに伴うはずのリスクの程度に対する評価の欠如
ローマーが批判した経済学者の閉鎖的な内輪意識については、トマ・ピケティもまた、
ベストセラーとなった『21世紀の資本』の中で、こう指摘している。
「率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしば
きわめてイデオロギー偏向を伴った臆測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、
そのために歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。....」」
ちなみに、歴史を遡れば、ケインズは「経済学に対して「内部告発」を行なった最初の人」だと
考えられる。一方、フリードマンとかルーカスといった連中が、「反動勢力」である。下記書籍
でも槍玉に挙げられている。
https://toyokeizai.net/articles/-/84962
だから経済学は「科学」として扱われない 「世界を破綻させた経済学者たち」を読む
中岡 望 2015/09/26 2:30
比較的最近、下記のような書籍も出版されたようだ(本ブログ筆者は未読だが、目次を見る限り
表題書籍と共通する観点の他、制度学派、歴史学派的な観点や社会学の観点など、筆者としては
興味を引かれる内容に見える)。
https://www.ajup-net.com/bd/isbn978-4-8158-1088-7.html
経済学のどこが問題なのか What’s Wrong with Economics?
ロバート・スキデルスキー:著, 鍋島 直樹:訳
A5判 288ページ 上製 発行:名古屋大学出版会
価格:3,960円 (消費税:360円)
ISBN978-4-8158-1088-7 C3033
奥付の初版発行年月:2022年06月 / 発売日:2022年06月中旬
目次
....
第1章 なぜ方法論なのか
開放系と閉鎖系
経済学の方法
....」
上記の著者には、「なにがケインズを復活させたのか?」という著書もあるようだ。
この題名は、多分、「誰がケインズを殺したか?」という↓昔の本の題名を意識している。
# 言うまでもなく、これら両書籍表題の「ケインズ」は「ケインズ経済学」を指す。