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1. 「科学」の意味についての準備的考察
1.1 科学は哲学から派生/分離したのではない
1.2 「科学哲学」の「線引き問題」は問題設定自体が不適切
2. 「科学」への理解度による経済学者の分類
2.1 マックス・ヴェーバー: 心に棚を作っている
2.2 主流(新古典派)経済学者: 「科学」について、よく考えたことがない
2.3 カール・マルクス: 「科学」について何か誤解していたように思われる
2.4 グスタフ・シュモラー: 「科学」を十分理解していた例外的経済学者
おわりに
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1. 「科学」の意味についての準備的考察^
本稿においては「思考対象としての属性」以外にも属性を持つ対象(世界、自然、事象など)
についての研究、学問、理論体系は科学でありうるが、「思考対象としての属性」しかない
対象についての研究、学問、理論体系自体は科学ではあり得ないと定める。∴論理学と数学は
科学とは呼ばない。ただし、論理学や数学による推論を理論体系内で利用することは可能で、
かつ、それらの推論の十分大きい部分が論理学や数学の観点から正当なものだけが科学であり
得るとする。
さらに、理論体系における考察対象としての属性の「値」を、客観的に(=理論的考察だけに
依存せず、原理的には他者にも実行可能な手段により)観測、測定して、理論体系内での値と
比較可能であるという条件が、理論の主要な考察対象の十分に多くの属性について成立する事を
「理論体系」についての前提とする。この比較を実行することを「定量的検証」と呼ぶ(真偽の
いずれかが直接観測ないし測定できる場合も、0 か 1 どちらの値かについての「比較」として
「定量的検証」に含める)。上記の条件を「(ある「理論体系」の)定量的検証可能性」と呼ぶ。
最後に「研究、学問のありよう」が、「理論体系」の前提をも含む主要部を上記の広い意味での
「定量的検証」の対象とすることを容認し、かつ積極的に行う研究や学問だけが「科学的」で
あると規定する。
以上を言い換えると、数理論理学の(例えば、タルスキという論理学者の著作中の)用法での
「意味論」に「定量的検証」で客観性を付与できる学問だけが「科学的」であり得ると規定した
ことになる。
「主要」、「十分」、「積極的」などの語に主観性が残ることは承知の上だが、以上の前提は
物理学や化学は「科学的」で、占い、神学、哲学は「科学的ではない」、 標準的な生物学は
「科学的」で、「インテリジェントデザイン説」は「科学的ではない」との判断に「常識的な
了解」を成立させるには十分と想定する。
1.1 科学は哲学から派生/分離したのではない^
「数学や科学は哲学の一部だった」なんてことを言いたがる人は、「西洋哲学史」的な発想に
毒され過ぎている。:-) 歴史を振りかえる際の空間的、時間的視野を多少とも広げて考えれば、
「数学や科学は「技術」から派生/分離した」という見方に気付くはず。e.g.
- 古代エジプトの測量技術と幾何学の関係
- 数多の古代文明における天文観測と農業実務や政治的祭祀との関係
- 車輪、火薬、羅針盤 ... etc. の「発明」と「科学的知識」の関係
...
古代ギリシャでの「数学/科学」史上の偉人は、アリストテレスではなくアルキメデスであり、
アルキメデスは「哲学者」というより「技術者」だったという、*よく知られた事実*を無視
した議論も多過ぎる。
また、「西洋哲学史用語」により数学や科学の学問的内容が規定されることはない。「哲学、
数学、科学についての同一人物の著作がある」事が「哲学から数学や科学が派生した」事の
論拠になりうるかのような事を述べる人もいるが、著作者当人の意識は逆かも知れない。
実際、かなり以前の「数学セミナー」の記事で、ある数学者が以下のような文を書いていた。
「数学は哲学を持つ。しかし、哲学から数学は生まれない。」
つまり、「西洋哲学史用語」の「自然哲学」や「自然哲学者」は実際の学問のありようや関係の
唯一無二の記述ではない。シェイクスピア曰く (in Romeo and Juliet) :
"What's in a name? That which we call a rose
By any other name would smell as sweet;"
数学者ヒルベルト曰く (「公理主義」を説明して):
"Man könne statt Punkte, Geraden und Ebenen jederzeit auch
Tische, Stühle und Bierseidel sagen."
"The point, line, plane, could be anytime substituted,
by tables, chairs, and beer mugs".
「西洋哲学史」には、西欧主要言語の文法に囚われ過ぎた事が原因の混乱も、かなりある。
例えば、主語に「形容矛盾」がある文の意味についての議論は、「数理論理学」の「述語論理」
による記述により、無意味になった。つまり、「丸い四角形」という「意味不明瞭な名詞句」が
主語の文に対応する「事実」について、あれこれ考えるのと似た状況が「数理論理学」以前の
哲学では発生しがちだが、「数理論理学」の「述語論理」を使う記述は、この「意味不明瞭な
主語の文」を許さない。「形容詞が名詞を修飾して名詞句になり、その名詞句が動詞の主語に
なる」という「文法構造」が「事実」に対応するとの考えが、解釈の混乱の原因だった。一方、
P() という「述語」を「P(a) が命題「a は丸い」を表す」、 Q() という「述語」を「Q(a) が
命題「a は四角形である」を表す」と各々定義して、これらの述語で事実関係を命題として記述
する立場を採用すると、「どのような a に対しても、「P(a) かつ Q(a)」という部分は「真で
ない命題」として解釈する」だけで済み、文意が曖昧になることはない。
とは言え、本当に述語論理の形式で書き換えて議論を記述すると、簡単な事でも読みにくくは
なってしまうので、「用語の定義箇所ないし初出箇所では「述語論理による書き換えで問題が
起こりそうか」に注意する」くらいが実際的。「意味不明瞭な用語」を使用している議論は、
少し注意すれば、述語論理による書き換えが不可能か、書き換え結果が間違いないし無内容と
分かる。∵「述語 P() に対し項 x を決めれば、P(x) は命題(=真か偽のどちらかに確定する
文)になる」という条件は、P() の意味の曖昧さや () 内に代入可能な x の範囲(すなわち、
そうした x の「集合」を定義する条件)の曖昧さを許さないからだ。
1.2 「科学哲学」の「線引き問題」は問題設定自体が不適切^
いわゆる「線引き問題」で、「特定の「命題/命題群」が*確実*に「検証可能/反証可能」」
であることをもって、その「命題/命題群」が「科学的」である事を定義しようとする試みに
多くの言葉や努力が費やされたようだ。しかし、そもそも論理的に閉じた体系内の命題でない
限り、論理的に決着させようとすること自体が無謀。
細かい議論としては「観測可能な事実の理論負荷性(何が「観測可能な事実」かは理論(概念の
枠組み)に依存する)」とか「変更可能な補助仮説の範囲」に検証/反証の成否が影響される」
といったことが問題になる。
# 2023-06-11:↓「科学哲学」業界での「線引き問題」の現状についてネット検索結果から抜粋。
https://tidbits.jp/occam/
実は線引問題は、激論の末「きっちり分ける境界などない」ことが分かったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/線引き問題_(科学哲学)#線引き問題の逝去
ラリー・ラウダンは「線引き問題の逝去」という論文の中で、科学の必要十分条件(必要条件
かつ十分条件)を与えることは不可能であり、科学と疑似科学の間の線引きなどできない
と論じている。これは1983年の論文であり、反証可能性の概念はあまり機能していないことが
わかり、以降は科学哲学では線引き問題はあまり論じられなくなった。
https://www.y-shinno.com/falsifiability/
現在では,単純にそれらをスッパリと区分するのではなく,確率論的な考えを導入し,その
科学的な度合いでもって判断しようとするのが一般的です。
http://tiseda.jp/works/demarcation3.pdf
60年代以降は線引き問題という問題設定そのものの妥当性が問われてきている。
60年代から70年代にかけてポパーの反証主義は批判の嵐にさらされた。
ポパー以外の哲学者が提案した線引きの基準も軒並み批判されてきた。
それと同時に線引き問題という問題設定そのものが時代遅れなものとみなされるように
なっていった。
# ↑以上、「科学哲学」業界でポパーの「反証可能性」概念が「オワコン」である所以。
また、そもそも「検証可能/反証可能」を「二値的な「真/偽」についての判断」とする場合、
「真」の定義不可能性定理の存在に注意が必要。つまり、「命題が証明可能」という概念は、
数理論理学を適用可能な理論体系内での「述語」として定義できるが、「真である」という
概念は、体系内の用語で「述語」として定義することはできない(体系外の用語で「天下り」に
決めるか、命題の定義を変更して「真偽が決まらない命題」の存在を認めるしかない)。なお、
「理論体系内の命題は真か偽かのいずれか」として、「「証明可能」なら「真」だが、逆は成立
しない」事実は「不完全性定理」として、よく知られている。
一つの理論体系内に閉じて二値的な「真/偽」を定義できない以上、「検証可能/反証可能」
という概念は、「二値的な「真/偽」についての判断」という意味では「定義できない」と
考えるべき。(哲学的議論は、「 理論体系としての対象の範囲」を明確にしない(=何でも
「議論の対象」にする)ことで、上述「真の定義不可能性」から逃げられない状況に陥りがち)。
二値論理的な「疑う余地がない」という意味の確実性を求めるのはやめて、ファジィ論理的な
確信度の大きさで満足し、検証や反証も「定量的」にすれば、「検証可能」と「反証可能」の
違いはなくなる。補助仮説を含む「理論」からの「論理的な帰結/計算結果」である数値が
観測や測定で得られる数値と「*満足できる精度*で一致する」/「*十分に*近い」事を、
「検証できた」と解釈し、「検証可能」であることも、「検証」を「数値の近さ」で判断する
という前提を置けば、現実的な意味が定まる。複数の観測や測定がある場合も、そうして得た
「数値の集合」の「期待された分布を持つ数値の集合との近さ」を考えれば、話は同じ。なお、
前記「確信度」は工学での「信頼性/安全性」に近い概念(例えば、エレベータや建造物設計
での各要素の「安全率」。二値的 go/nogo に変換する際は、G.M.ワインバーグがソフトウェア
信頼性についての説明に使用した、次の基準が参考になる。
「そのソフトウェアが航法システムに組込まれた飛行機に乗ってもよいと思えるか」
# とは言え、多くの人は、高層ビルでエレベータに乗ることをためらわない。:-)
少なくとも、現場の科学者は二値論理的「疑う余地がない」という意味の確実性を求めてなど
いない。「出来の良い理論が望ましいし、自分の研究する理論の「出来の良さ」は高めたい。」
事が前提で、分野、文脈、状況により「満足」の基準は変わる。ロジャー・ペンローズの著書
(の和訳)「皇帝の新しい心」p.176 から物理理論の「出来の良さ」を[最高、有用、暫定] の
3段階に分けて、あれこれ品定めする記述がある。また物理学では「ある適用範囲においては
十分正確な理論」といった意味合いの「有効理論」という言葉がある。(速度、大きさ、質量
などが)日常的に目にする範囲の物体について、ニュートン力学やマクスウェルの電磁気学は、
「最高」レベルの「有効理論」。下記は、こうした「科学者の認識」の「端的な表現」の例。
真理という概念はファシズムです。-- 長澤正男「シュレーディンガーのジレンマと夢」p.124-
「真理を掴んだ(と信じた、あるいは信じた振りをした)者がファシストになる。そして、
おまえの(していること)は真理に反する、と言う。そう言って、やっつける。下手をすると
殺される。
... 真理というものが存在して、人間の認識がそれに段々と近づいて行く」という考え方も
あります。しかし私はそうではないと思います。存在しているのは自然や世界、そこで起こって
いる現象です。それをよく理解したい、そのための理屈が理論です。
... 自然や世界や現象と理論の間に真理という中間項を入れる必要はない。....」
一方、「反証可能性による科学の特徴付け」の議論の前提は、まさに「真理という中間項」の
存在に他ならない。「反証主義」の元祖ことカール・ポパーの行動や態度には「ファシスト」を
思わせる部分がある(クーンへの攻撃が典型的。「傍証」として、マルクス経済学を批判する
にも関わらず、主流経済学の同じか、より酷い問題は批判しない態度/行動=「反共主義」は、
しばしばファシズムに通じる事も指摘しておこう)。
# 「下手をすると殺される」: 最近の例としてはウクライナの下記サイトが有名。
# https://myrotvorets.center/
# ドラマ「相棒」に出てきた「死刑対象者リスト web site」が現実に .....
# https://duckduckgo.com/?q=ミロトウォレッツ+OR+ミロトボレッツ+OR+ミロトヴォレッツ
特定の「命題/命題群」自体について、科学と非科学を単純な属性で明確に分離しようとする
試みは、不毛としか思えない。結局「命題/命題群」の主張者の行動や態度(特に反対者との
議論や検証に関連する場合)と主張内容を組にして「ファジィ論理的な確信度を高める」事が、
実際的に達成し得る判定方法での限界。
(a) 主張内容として「確信度」を高める特性の例
- 主張の根拠となり得る「検証済の事実」が豊富に用意されている。(逆に根拠が乏しい主張、
例えば「宇宙のティーポット」や「空飛ぶスパゲッティモンスター」が想定する揶揄の対象に
含まれそうな主張内容は、確信度を下げる)。
-「因果関係」についての主張を含み、「定量的検証」が可能な主張が論理的帰結に含まれる。
言い換えれば、「定量的検証」が可能な「予測」が、論理的帰結に含まれる。「因果関係」は
時系列に沿う事象群の間に、論理的に整合性を保って、十分な確度の「原因」と「結果」の対
の列を指摘可能であることが必要。「風が吹けば桶屋が儲かる」の因果関係を認めるか否かは
途中の隣接事象の因果性の確度に依存。なお、この例の場合は「定量的検証」にも難がある。
- その主張の論理的帰結である予測が的中した実績がある。定量的検証精度が高いほどよい。
(b) 主張者の行動や態度として「確信度」を高める特性の例
- 検証手段の精度を高める工夫や努力が十分(逆に挙証責任の転嫁や検証への消極的態度は、
確信度を下げる)。
- 反対者からの「反証」提示行動に対し「反証」の精度に応じて適切に対応。(検証の工夫や
努力の大きさに見合わない精度の「反証」提示に素気なく対応しても確信度は下がらない。
例えば、物理学の素人が「相対論は間違っている」と主張して提示するような「反証」への
対応の場合など)。→ 参考: 比較的丁寧な対応例
さらに、大前提として「主張の内容が述語論理で記述できる(当然、述語に代入可能な項の
取り得る範囲が明確である)」必要がある。言い換えれば、定量的検証が可能な命題を生成
できない言説は、科学理論としては問題外。
命題の定量的検証手段の強力さ、定量的検証「成功例」の存在と成功度の大きさ、「反例」と
呼び得る「はなはだしい失敗例」の非存在は、科学理論として確信度を高める要因。
これらの条件は、哲学的思弁ではなく、社会学や心理学での手法による調査の対象として扱う
方が良さそう。 調査手法の細部は科学分野に依存し得る。
2. 「科学」への理解度による経済学者の分類^
「科学」は狭義には「自然科学」を指すが、広義には「社会科学」と「人文科学」を含む。
そして、経済学者は「経済学」を「社会科学」の一分科と認識しているように思われるので、
この節での議論に先立って「自然科学」にはない「社会科学」の特性の1つを注意しておく。
それは、「主張内容に*必ず*論者の政治的立場が反映される」ということだ。「自然」の
理解や記述に関する概念は、原理上は論者の政治的立場とは無関係になるように構成可能と
考えて問題があるようには思えない。しかし、「社会」の理解や記述の際には「論者自身の
社会の構成員としての立ち位置」に、使用する概念、用語、(明示的か暗黙かは問わない)
前提が規定されることは避けられない。∵論者が所属する「社会」についての議論であれば、
必然的に論者と社会との関係を前提とした議論になるし、論者が所属していない「社会」に
ついて議論する場合も、その「社会」と論者が所属する「社会」との関係の認識に主張内容が
影響される事は避けようがない。
以上から、「事実の理論負荷性」の度合いが、自然科学の場合以上に大きくならざるを得ない
事も指摘しておく。例えば、「何が社会政策上の課題であり得るか」という問への解答となる
「事実」を考えればよい。何しろ、この問への解答は「事実」ではないという見解まである。
「価値判断論争」におけるマックス・ヴェーバーの主張=「価値自由」論がそうだ。
2.1 マックス・ヴェーバー: 心に棚を作っている^
まず、マックス・ヴェーバー本人に「価値自由」な「事実の理論」とやらが展開出来ているかを
問題にしよう。社会科学において「価値自由」な理論は有り得ないという上記の論点とは別に、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という*事実に基づく議論とすら言えない*
著作が主著扱いの人物に「科学」を論ずる資格があるとは思えないのだが、山ほど「科学論」を
含む著作があるようだ。:-O
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」での、「資本主義」や「資本主義の精神」の
定義を明示しないことの欺瞞性や、引用している「エピソード」が事実に反するという基本的な
問題を「西欧キリスト教世界の悪業と資本主義の宣伝(プロパガンダ)」で論じた。下記記事に
同趣旨の、より具体的な議論が含まれていることに、このたび気がついた。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=83633&id=68415910
「マックス・ウェーバー批判。
大塚久雄はウェーバーが書いた事を鵜呑みにしていたウェーバー教条主義者である。....」
↑
特に問題と思われる↓「教条」の一つを具体的に挙げておく。
大塚久雄 「社会科学における人間」
第3章「ヴェーバーの社会学における人間」
第14~15節「資本主義の精神とは何か」
「...「資本主義の精神」をうちに抱いて、それによって押し動かされつつ行動している人々、
これからはそういう人々に「担い手」という語を使うことにしますが、そういう「資本主義の
精神」の担い手たちのうちには、明らかに資本家と労働者、あるいは、企業家と賃銀労働者、
その双方がともに含まれている」
↑
「資本主義の精神」を「企業家と賃銀労働者の共通事項」として規定すること自体、 企業家と
賃銀労働者の利害対立が深刻な社会問題の原因になっていた現実を誤魔化すプロパガンダ
という視点が抜け落ちている。同時代のルヨ・ブレンターノは、現在では、ごく一般的な見解と
なっている「「資本主義」とは「資本家」=「利潤追求を目的とする経済主体」が主要な役割を
担う経済体制」という認識に基づいて説得力に富む議論を展開している。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10159401370
「ルヨ・ブレンターノは、資本主義経済は利潤追求経済であり、資本主義精神とは利潤追求に
対する貪欲であると考え、その貪欲さはキリスト教と関係がない(宗教改革によって利子の
禁止がゆるやかにはなったが)としました。
また、利潤追求経済(ブレンターノのいう資本主義経済)はすでに中世後期から存在したので、
後の宗教改革から資本主義の精神が誕生したというウェーバーの説は、順序が逆ではないか、
そうブレンターノは批判したそうです。」
下記論文の著者も「ウェーバー教条主義」に囚われている。「ウェーバー教条主義」に由来する
記述を無視して、引用されているブレンターノのヴェーバー説批判とヴェーバーの「反論」なる
部分を比較する限り、*ヴェーバーの議論は反論の体をなしていない。*
ルーヨ・ブレンターノにおける「ピューリタニズム=資本主義問題」 :
商業の発展・宗教改革と経済倫理・イギリス産業革命 (p.20 l.13 - p.24)
「ブレンターノのヴェーバー批判の論旨は,多岐にわたり,あちこちで重なり合うため,整理が
容易ではないが,もっとも重要な論点として,次の四つが挙げられる。....」
「第一は,ヴェーバーの「資本主義の『精神』」(Der 》Geist《 des Kapitakismus)の概念
規定への異論 ... ヴェーバー .... は,「倫理的色彩を有する生活原理という性格を帯び」
ない場合には,これを資本主義精神から除外し,カルヴィニズムによってはじめてそれが登場
したといっているが,それは,... 「論点の先取り」....」p.20 左側 l.17 -
# この第一の論点にヴェーバーが反論できていない時点で、本来なら話は終りのはず。これは
# 「資本主義」あるいは「近代資本主義」の定義を述べずに「資本主義の精神」を(やはり、
# 明示的には定義せず)議論し始めるというヴェーバーの詐術を暴く基本的な論点。さらに、
# 下記の*ヴェーバーが資料を歪曲して引用している問題*についての指摘への反論はない。
「ヴェーバーが用いる,リチャード・バックスターの所説も,職業労働を勧告し,怠惰や享楽に
対して熱心に警告をなしているが,これがただちになにか資本主義的であるというわけでは
ない。彼が,職業選択の基準として,第一にその職業の道徳性,第二にその生産する財の全体に
対する重要性,第三に,「私経済的収益性」を挙げているのに,ヴェーバーは,この順序を無視
して,この「私経済的収益性」を,「実践的にはもちろんいちばん重要なもの」として挙げて
いるが,それは恣意的変更である。」p.21 右側 l.4-
ヴェーバーは、論説の主題である概念/用語を明に定義しない(∴「ご飯論法」を疑うべき)
議論の常習犯でもあるようだ。e.g. 「価値自由」という概念の定義も示していない。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/65/2/65_270/_pdf
「価値自由の定義を端的に示す箇所は存在しなかった」
ところが、「ヴェーバー擁護派」は「指摘した側がヴェーバー用語を理解しないのが悪い」と
言いたがる。つまり、ヴェーバーは論争中にも定義を明示しようとしないのは、*明示的定義
により薄っぺらいプロパガンダ用の用語/概念であることを隠せなくなるため*という観点に
思い至らないようだ。そもそも「価値判断論争」なるものは、「新自由主義的立場の論客」と
しての売名行為のために仕掛けた「ためにする議論」でしかないことは「発端になった事件」の
内容から明白。*社会政策学会*での事件だという点にも注意するとバカバカしさが際立つ。
↓
Wertfrei は「価値自由」か
「ヴェーバー対シュモラー間の確執は、1909年9月29日に社会政策学会ヴィーン大会で「価値
判断論争」を惹き起した。分科会「経済的生産性の本質」で、ゾンバルト、F・ゴットル、
ヴェーバーが、「生産性」概念が価値判断を含んでいるので学問的に使用不能だと批判 ....」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^:-O
「経済問題の研究で「生産性」という概念が使用できない」なんて主張を、まともに相手にする
ことに意味があると思えるのは、「ウェーバー教条主義者」でしかあり得ない ... 上記論文に
おいて、マックス・ヴェーバー自身が、「価値自由」な「事実の理論」とやらを展開出来てなど
いないことは、丁寧に示されている。
2.2 主流(新古典派)経済学者: 「科学」について、よく考えたことがない^
主流(新古典派)経済学が「非科学的」なことは、経済カテゴリーの記事で述べてきた。
https://blog.goo.ne.jp/hobby4oldboy/c/c8c8a7ae414046733174722b2b96ba67
(A) 経済学とは何か、何であるべきか
(B) 読書ノート:「なぜ経済予測は間違えるのか? 科学で問い直す経済学(1)-(7)
(C) 読書日記:ジョン・K・ガルブレイスの「アメリカの資本主義」(新川健三郎 訳)
(D)「自由貿易」プロパガンダにおける「自由」の怪しさについて
理論の記述に数式を使いさえすれば「科学的」であると勘違いしてるとしか思えない。
「定量的検証」や「因果関係に基づく記述」の重要性が無視されている。アメリカでは
ケインズの主張を新古典派の理論に合せてゆがめたものが「ケインズ経済学」という名で
流布しているが、そうなってしまった原因は、「因果関係が示されていない数量関係」を
安易に理論の構成要素にしたこと。具体的には「失業率とインフレ率に負の相関がある」
という一時期には成立していた関係を、あたかも因果関係であるかのように扱ったので、
スタグフレーションの発生でボロを出したところをフリードマンに付け込まれ、さらに、
ルーカスの数式を多用した論文を*「合理的期待形成」という荒唐無稽な前提の議論を
しているにも関わらず*無批判に受容してしまったため。因みに、ルーカスの「権威」は、
ルーカスの論文の1つに数学的な誤りが発見されてからは、かなり低下したというから、
結局、数式の使用による「コケ脅し」の「ハロー効果」に影響されてしまっていたとしか
解釈できない。
# 下記の盛大な自爆後、ルーカスに「権威」など残っているかは大いに疑問。
https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/others/kanko_sbubble/analysis_02_00.pdf
吉川洋「序 デフレ経済と金融政策」
「2003 年アメリカ経済学会の会長講演でルーカスは「大不況を回避するという問題は
いまや完全に解決された」と宣言した」
# 自爆と言えば、フリードマンも派手にやらかしてくれている。下記の日本語での説明は
# ヘルマン・ウルリケ「スミス・マルクス・ケインズ」から
p. 365「フリードマンはノーベル経済学賞の受賞演説でこう宣言した。
たしかに経済学の予測は、時に間違うことがあります。しかし、それは
物理学、生物学、医学、あるいは気象学の予測違いの頻度以上のものではありません、と」
p.376「Friedman, Inflation and Unemployment, S.267f
「ミルトン・フリードマン『インフレーションと失業』」フリードマンは、経済学における
予測間違いを、ハイゼンベルクの不確定性原理と比較している。この比較はあまりにも噴飯
もので、こんなナンセンスをこともあろうにノーベル賞授賞式で得々と語ったフリードマンの
厚顔無恥には唖然とさせられる。」
# フリードマン本人の英語原文は、例えば下記など。
https://www.nobelprize.org/uploads/2018/06/friedman-lecture-1.pdf
https://larspeterhansen.org/wp-content/uploads/2019/02/Nobel-Lecture.pdf
# 不確定性原理への言及、予測違いへの言及、ともに p.1-p.2 にある。
# ジョン・ケネス・ガルブレイスがフリードマンを評して曰く、
# 「懐疑というものを知らない (entirely free of the doubt)」
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.120773
"A History Of Economics The Past As The Present" by Galbraith, John Kenneth
「ガルブレイス『経済学の歴史』」の原文↑ p.271
前掲「ルーヨ・ブレンターノにおける「ピューリタニズム=資本主義問題」の下記によれば、
ブレンターノは定量的検証と無縁の数式を振り回す元祖メンガーに誤魔化されていない。:-)
「1888年のことになるが,ウィーン大学教授に就任したブレンターノは,その就任講演
「古典派経済学」(Die klassische Nationalokonomie)で,自らの長い経済学研究の歩みを
語りながら,経済史の認識の必要性をも強調している。... ドイツ歴史学派と限界効用学派
との方法論争-とりわけ一方の当事者のカール・メンガー(Carl Menger)-を意識しつつ,
抽象的理論経済学をもって経済政策を律する誤謬と,現実の経済認識からする,現実的経済学
による逆演繹法(コント)の必要性を説いた ...」
2.3 カール・マルクス: 「科学」について何か誤解していたように思われる^
筆者はマルクスの特徴である「(唯物論的)弁証法」での説明は「科学理論の記述」としては
不適格と考えるので、マルクスが自身の理論を「科学的社会主義」と称することには違和感を
禁じ得ない。弁証法で説明される「科学理論」は、他の社会科学や人文科学を見渡しても例が
ないので、異常なのはマルクスの用語法であって、筆者の言語感覚ではないだろう。因みに、
「分析的マルクス主義」と呼ばれる、マルクスの議論を弁証法を使わずに再構成しようとする
理論および実証を重視する学派があるようだ。まだ詳細を調べていないが、より「科学理論」
らしく見える記述形式でマルクスの重要な論点を述べ直しているとすれば、大いに興味深い。
# もっとも、「文学としての資本論」という見方を提示している資本論の入門書がある事や、
# デヴィッド・ハーヴェイやマイケル・ハドソンの仕事への多大な影響といった観点からは、
# 記述形式の変更は、あまり重要ではないのかも知れない。マルクスは、資本主義に関する
# 重要かつ*彼以前には誰も言語化できなかった*事実の数々を指摘したのだから。
# しかし、マルクスが「共産主義や社会主義の実現に際し社会制度を具体的にどうすべきか」に
# ついては何も述べなかったのみならず、↑この問題を議論した人々を「空想的社会主義者」と
# 呼んで攻撃した事は極めて残念な事で、そうした態度の一因は「科学」への誤解だったと
# 筆者は考える。思うに、「考え方が「哲学」寄りの人は「「真理」という中間項」の存在を
# 考察の前提にする傾向」があり、マルクスも例外ではなかった」という事ではなかろうか。
追記: マルクスは「唯物論的弁証法は進化論から想を得たのだから、科学的方法だ」と考えて
いたようだ。∴少なくとも、新古典派経済学者ほどには、科学を誤解していない。
∵ダーウィンの時代における進化論の「定量的検証」の精度と経済学の「定量的検証」の精度には、
大きな差はないはず。∴ 1. で述べた基準で、*マルクスの研究姿勢は科学*と認めても良さそう。
2.4 グスタフ・シュモラー: 「科学」を十分理解していた例外的経済学者^
シュモラーは J. S. ミルやディルタイが定義した「精神科学」(社会科学+人文科学に相当)
という概念を十分に咀嚼した上で、同時代の主な経済学派の科学性について議論していた事が、
下記論文でのシュモラーの議論を引用している箇所から伺える。特に、主流派経済学の源流に
あたる限界効用学派(オーストリア学派を含む)の議論の問題点を、早くも的確に見て取って
いることは、特筆に値する(ヴェーバーやゾンバルトは気づいていなかったようだ)。
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/57101.pdf
「シュモラーとヴェーバーにおける社会科学・経済学の方法
ヘーゲルとマルクスからみた差異」
↑
「科学」について 1. で考察した観点からは、引用されているシュモラーの議論には違和感が
ないのに対し、ヴェーバーの議論は違和感しかない。^^; 上記論文の著者はシュモラーによる
マルクスの記述への「科学性」の観点からの批判にケチを付けているが、「科学的記述」という
前提を置いての議論であることを考慮すれば、シュモラーの批判は正当だと筆者は考える。
おわりに^
ブレンターノやシュモラーの所論は、本記事で言及された他の経済学者の所論と比べて、紹介
されることが、あまりにも少ない。しかし、引用や言及の数と正しさは無関係である。
「誤りは、何度も伝播されることによって真実になることはなく、真実は、誰もそれを見ない
から誤りになることもない。」マハトマ・ガンジー
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