説教でたどるパウロの生涯

 「使徒行伝」などの説教を通して、パウロの生涯を学び、信仰生活の道しるべとします。

会議を導く神

2025-01-30 12:19:00 | パウロの生涯に学ぶ
 
パウロの生涯(13)

会議を導く神


聖書は特記のない限り、新改訳2017(新日本聖書刊行会)を用いています。


エルサレム会議

エルサレムからユダヤ主義クリスチャンがアンティオキアにやってきて、
割礼を受けなければ救われないと教え始めました。

これを聞いた信徒たちに動揺が広がりました。

そしてバルナバやパウロと激しい論争になり、この問題を解決するために、
エルサレムで会議を行うことになりました。
A.D.49年ごろの出来事であったと言われています。

参加者は使徒たちと各教会の長老たちです。


会議では、まずエルサレム教会の使徒ペテロが発言します。

ペテロはローマ人の百人隊長コルネリウスを救いに導いた経験(使徒10章)から、
神様は異邦人にも聖霊を与え、信仰によって清めてくださった。
それなのに私たちも負いきれなかった律法のくびきを異邦人にも負わせようとするのか。(7〜10節)」
と主張しました。


次にバルナバパウロが発言します。
「そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。」(12節)


最後にヤコブ(エルサレム教会の代表でイエス様の弟)が発言します。
ヤコブは(旧約)聖書――主にアモス書9:11以下――を引用しながら、
異邦人を救うことは、昔から神様の御計画であり、神様が預言しておられたことなんだと言いました。

そしてヤコブは最後に、
「"ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。(19〜20節)」
こう言って締めくくりました。

結局、これが結論となりました。


そしてエルサレム会議の決議は、パウロたちの異邦人伝道の働きを、更に推進していくことになりました。


エルサレム会議の成功には、

1.ペテロやヤコブなどのエルサレム教会の指導者たちが賛成に回ったこと。

2.パウロたちが伝道旅行で異邦人の救いを体験しただけでなく、
ペテロもコルネリウスの回心と救いの体験から、神様の御心であると確信した。

3.エルサレム教会の指導者で、イエス様の弟であるヤコブが、(旧約)聖書を引用して、聖書に書いてある(預言されていた)ことであると証言しました。

以上のことが、成功に至った要因になったと思います。

しかし、大切なことは、織田昭氏が言っているように、
聖霊ご自身が働かれて,パウロが宣べ伝えていたの福音を疑問視する人たちを黙らせた」ということです。

聖霊なる神様が、異邦人たちを救うという御自身の御計画を実現させるために、御心のままに、会議をも導かれたのです。



会議を導く神

古代以降の公会議はもちろんのこと、
現代でも、教団の会議や、各個教会内の会議などに聖霊なる神様が生きて働いておられ、導いておられます。

現代でも、特に教会堂の建築や改築などの時に教会が分裂しそうなぐらい反対意見が出ることもあります。

しかし、会議の決議が自分の思い通りの結果でなかったとしても、それも神様の御心である。神様には神様の御計画があると信じて、従順に従っていくことも大切なのではないでしょうか。



事後処理

「そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアに送ることに決めた。選ばれたのはバルサバと呼ばれるユダとシラスで、兄弟たちの間で指導的な人であった。」(使徒15:22)

アンティオキア教会から来たパウロとバルナバだけでなく、
真実性を証明するために、
エルサレム教会の中からユダとシラスを選出して、アンティオキア教会に派遣しました。


「彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。『兄弟である使徒たちと長老たちは、アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつを送ります。・・・』」
 (使徒の働き 15章 23節)

パウロ・バルナバ・ユダ・シラスの4人の証人に、さらに手紙を持たせて、小アジアの各教会に回覧できるようにしました。


「人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。
ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、力づけた。」
 (使徒の働き 15章 31〜32節)

ユダヤ主義者たちの教えによって大混乱したアンティオキア教会でしたが、
エルサレム会議の決議と、それを伝えた人たちのことばと手紙で、異邦人クリスチャンたちは大いに励まされ、力づけられ、そして喜びに満たされました。

不安に思っている信徒のために、労を惜しまないで、色んな方法(電話・手紙・訪問など相手に合った方法)で相手を励ます。
そのために労を惜しまないことも大切なことです。



第2回伝道旅行の発案 

「それから数日後、パウロはバルナバに言った。『さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。』」
 (使徒の働き 15章 36節)

パウロは、第1回伝道旅行で開拓した小アジアの諸教会の信徒たちがどうしているか心配でなりませんでした。

ユダヤ教の強いところもあれば、
ギリシアの神々を祀っている町もありました。
地域の中で迫害を受けて、信仰から脱落しそうになってはいまいか、心配でした。

そこで彼らを励ますために、
パウロは第2回目の伝道旅行というより牧会旅行?を発案しました。

結果的には、この第2回伝道旅行は、聖霊なる神様の、人の思いを越えた大きな御計画によって、思いもかけず、ヨーロッパまで足を伸ばすことになります。

しかし、当初は第1回伝道旅行で行った小アジアの各教会を巡回するつもりだったようです。



 ──主のことば──
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
  (イザヤ書 55章 8〜9節)


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パウロの牧会的配慮

2025-01-29 09:03:00 | パウロの生涯に学ぶ
 
パウロの生涯(12)


パウロの牧会的配慮


(新改訳2017の巻末地図より)
赤い破線が第1回伝道旅行の道のりです。



"二人はこの町(デルベ)で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、
弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。
また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。"
 (使徒の働き 14章 21〜23節)



デルベに向かう

リステラで激しい迫害に遭い、半殺しにされたパウロは、満身創痍でしたが、
それでも神様の憐れみに支えられて、リステラの南東約50kmのところにあるデルベに向かい、ここで伝道します。

詳細は全く記されていないので、分かりませんが、それなりの収穫はあったようです。 

パウロは、第2回伝道旅行でも、ここに立ち寄っています。

新聖書辞典によれば、ガイオやテモテは、この町の出身であったようです。



再び試練の地に
 
ここから東南の方向に進むと、パウロの生まれ故郷タルソにたどり着きます。
パウロは満身創痍でしたから、そこでしばらく休養しても良かったのですが、
そこには行かず、その後、パウロはリストラ、イコニウム、ピシディアのアンティオキアと今まで来た道を折り返します。かつて激しい迫害を受け、半殺しにされかかった町に再度、立ち寄っています。


パウロは伝道したらそれで終わり、後はほったらかしではなく、
再度(場合によっては何度も)訪問しています。

これは、誕生したばかりの教会(信徒たち)を励まし、弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めるためでした。

そしてここでパウロは「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語っています。


私たち現代日本に住むクリスチャンも、信仰を最後まで貫き徹すのは容易ではありません。

悪魔(サタン)は信仰者を駄目にしてやろうと、手を変え品を変え、攻撃を仕掛けてくるからです。

そのために、教会から離れ、信仰から離れてしまう人も多いです。

私たちが神様の御国に入るまでは、色々と試練に出会います。
だからこそ、そのためにも、教会が必要なのです。牧師による牧会も、聖徒の交わりも必要なのです。

そしてそのために、パウロは、教会ごとに長老たちを選びました。  
牧会書簡(テモテやテトスに送った手紙)に見られるように、
パウロは牧会をものすごく大切にしました。 

そして後には、信徒の執事を設けたり、パウロの弟子であるテモテや、さらにマルコをパウロの代理として派遣して牧会しています。

パウロはただの巡回伝道者ではなく、優れた牧会者でもあったのです。

しかし、最も大切なことは、
断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。(23節)」
ということです。

主イエス様(そしてご聖霊様)に御支配していただき、導いていただく。それがメインであって、
牧師・長老(役員)・執事などの制度は、そのための道具であり、手段(恵みの手段)なのです。

ですから牧師も役員も教師や執事も、
自分が教会を支配するのではなく、
主イエス様(そしてご聖霊様)に御支配していただくように、
謙遜になってよく祈って、仕えていくのです。



宣教報告会

パウロは今まで伝道してきたところに立ち寄って、信徒たちを励ましながら、デルベまで戻ります。

そして船便の都合であったのかどうか分かりませんが、アタリア港からキプロスには寄らないで、アンティオキア教会に戻ります。

アンティオキア教会に戻ったパウロは、宣教報告会をします。

「そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」
 (使徒の働き 14章 27節)
 
ここで大切なことは「神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこと」というように、
神が主語になっていることです。

宣教の業は、人間の業ではなく、あくまでも神様の御業です。
異邦人に信仰の門を開いてくださったのも神様です。

もちろん燃えるような信仰や情熱、熱心さも必要ですが、それも聖霊から来るものです。

かつてイザヤは
「今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」"
 (イザヤ書 9章 7節)
と言いましたが、
消えやすい人間の情熱や熱心さではなく、万軍の主の熱心なのです。

異邦人を愛して導かれるのも、主の熱心です。

そしてそのために――異邦人を救うために――聖霊なる神様は、バルナバとパウロの2人を選び、送り出し、異邦人を信仰へと導いて、救われたのです。

神様が自分たちを通して、どのようなことをしてくださったのか、そのことを証しすること、そしてその主を賛美することが大切なのです。



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パウロの伝道説教(2)〜未完成な説教〜

2025-01-29 08:03:00 | パウロの生涯に学ぶ
 
パウロの生涯(11)


パウロの伝道説教(2)
〜異邦人への不完全な説教


パウロとバルナバは、ピシディアのアンティオキアを離れ、イコニオンに移動しました。140kmぐらいは離れています。


(新改訳2017の巻末地図より)
赤い破線が第1回伝道旅行の道のりです。


ここでもピシディアのアンティオキアと同じことが起こります。

信じる人と信じない人が起こり、
イコニオンの町は、信じた人と信じなかった人とで2分されてしまいます。
そしてユダヤ人たちによる迫害が起こります。


パウロたちは迫害を避けて南行し、
イコニオンから40kmのところにあるリステラに移りました。ここは、ほぼ異邦人の町でした。



いやしの後で

ここでは、生まれつき足の不自由な人と出会います。

その男はパウロが語る恵みの言葉に聴き入っていました。
彼の心には次第に信仰と希望が湧いて来ました。
彼がパウロを見るまなざしから、パウロは彼が癒される信仰を持っているのを見て取れました。
そして、彼に立ち上がるように命じると、彼はたちまち癒されたのです。


しかし、問題はその後です。
ここで今まで経験したことがない、思いがけない出来事が起こりました。


「群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった』と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。」
 (使徒の働き 14章 11〜13節)

リステラは、ユダヤ人は ほとんどいないようで、ギリシア神話の町でした。

パウロたちが癒しの奇跡を行ったところ、
群衆たちは声を張り上げて「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と叫び、
パウロたちのことをギリシアの神々の名前で呼び始めました。
(ゼウスは最高神、ヘルメスは雄弁の神)

さらにそこにゼウス神殿の祭司まで現れ、いけにえを献げようとしたのです。

これを見たパウロは説教を始めます。



異邦人への説教

「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。」    (14章15節a)

まずパウロは自分が神だと思われているようなので、自分も皆さんと同じ人間であるということを告げます。
神は神、人は人と厳正に区別しなければならないことを告げます。

神が人になったり(イエス様だけ特別!に人になった)、また菅原道真のように人が神になったりすることはないのです。


「そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」(15節b)

パウロが宣べ伝えている神様は、
まず今も生きて働いておられる神様です。

そして人間が手で作った偶像の神々とは違って、天と地と海と、その中にあるすべてのものを創った神様(創造主)であるということです。

パウロたちは、その神様に立ち帰ることようにと伝えていたのです。

「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
 (16〜17節)

神様は、異邦人たちがそれぞれ自分勝手に生きているときでも、
雨を降らせて、必要な食べ物を収穫できるようにし、食べ物で私たちの心を満たして、私たちを喜ばせてくださっておられたのです。

これとよく似た言葉は、
山上の説教に誰でも知っているイエス様のみことばにもあります。
「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

このように誰にでも無条件に与えられる神様の恵みのことを《一般恩寵》と言います。

それに対して、キリストの十字架の救いのように信じる者だけしか与えられない恵みを《特殊恩寵》または《特別恩寵》と言います。

ここでパウロは、天と地を創造し、彼らの必要を満たしてくださる生ける神を受け入れるよう、人々に勧めでいます。


こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。(使徒14章 15〜18節》

 

説教の導入

パウロは、ユダヤ人に伝道する時は、「パウロの伝道説教(1)」で前述しましたように、
ユダヤ人なら誰でも知っているユダヤ人の歴史から入りました。

つまり、絶えず神様に背き続けるイスラエルの民を決して見捨てないで、導き続けた神様の愛から始めます。

しかし、異邦人に対しては、
まことの生ける神様のことを知らなくても、食べ物を与え続けてくださった神様の恵みにまず聴衆の心を向けさせています。

つまり、誰でも感じ取ることができる神様の愛と恵みに聴衆の心を向けさせて、そこから本題に入っています

説教者として学ぶところ大です。



未完成な説教

このリステラでのパウロの伝道説教は、一般恩寵を提示する序論(導入)だけで終わり、本論(イエス様の十字架による救い)がありません。

このことから、ある学者は、パウロはまだ異邦人向けの伝道説教がうまくできなかったのではないかと言っています。

おそらくパウロにとって、ユダヤ教(旧約聖書)の知識が全くない、全くの異邦人に向けて説教するのは初めてであったのでしょう。

それでまだ模索中であったのかもしれません。

しかし、私はこの説教が未完成に終わったのは、それだけではなかったと思います。

使徒の働きの聖書箇所の前後関係(文脈)を正しく読むことが大切です。

このすぐ後の19節です。

「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」
 (使徒の働き 14章 19節》

ここにはピシディアのアンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を扇動して、パウロを石打にしたということが書かれています。

つまり、このために、パウロは説教を続けたくても、続けることができなくなってしまったのです。

聖書を読むときは聖書本文の前後関係(文脈)をきちんと読んで、そこから判断することも大切です。

パウロは半殺しにされ、意識不明の状態になってしまいましたが、
意識を回復し、翌日、デルベに向かっていきます。

 

福音は異邦人へ

2025-01-28 08:37:00 | パウロの生涯に学ぶ
 
パウロの生涯(10)

福音は異邦人へ


ユダヤ人たちの拒絶

「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。
しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。」
 (使徒の働き 13章 44〜45節)

ピシディアのアンティオキアでのパウロの活動の続きです。


翌週の安息日には、街中の人たちが会堂に集まって来ました。
しかし、それを見たユダヤ人たちは、パウロたちの人気を妬んで、パウロの言葉に反対して、パウロを口汚くののしったというのです。

ユダヤ人たちが「パウロの言葉に反対し」たと言うのは、単なる妬みだけではなかったと思います。
おそらく、パウロが
「律法では救われない」
「イエスが復活した」
「イエスが神のメシヤである」
と言ったことに反発したのでしょう。

また、せっかくユダヤ教に改宗しかけている異邦人たちが惑わされて、ユダヤ教から離れてしまうことも危惧したのかもしれません。



伝道方針の転換

「そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。』」"
 (使徒の働き 13章 46節)

イエス様は、ユダヤ人たちが長年の間(何百年の間)、待ち望んでいた救い主メシアだったのです。
たから、パウロは、まずユダヤ人たちに救い主メシアが誕生したということを真っ先に伝えました。
ユダヤ人が一番最初に知る権利があると思ったからでしょう。

パウロはどこに行っても、まずユダヤ人に伝道しようとしたのには、こういう訳があったのです。


しかし、ユダヤ人はそれを受け入れようとしませんでした。
パウロは、これに対して、ユダヤ人が自ら「永遠のいのちにふさわしくない者にしています」と言っています。



神のことばに対する応答

私たちも気をつけなければなりません。
聖書のみことばは、今の私たちのために書かれたみことばでもあるのです。

私たちも当時のユダヤ人のように、
神様が牧師を通してせっかく語ってくださっておられるのに、
反発したり、
受け入れようとしなかったりすると、
私たちも「自ら永遠のいのちにふさわしくない者に」なってしまいかねません。



ユダヤ人から異邦人へ

パウロたちは、ピシディアのアンティオキアでは、もうこれ以上、ユダヤ人に伝道しようとはせず、
これからは異邦人に伝道することにしました。


「主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
 (使徒 13章47節)

パウロがここで引用している御言葉は。イザヤ書49:6, 42:6, 45:22 の3つのイザヤ書の御言葉をミックスして使っています。

そしてパウロたちによる異邦人伝道の結果、異邦人たちは喜んで、こぞって、キリスト教に入信しました。



喜びと聖霊に満たされて


「ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。・・・弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒13:50, 52)

パウロとバルナバは、激しい迫害を受けて、ピシディア地方から追い出されますが、
しかし「弟子たちは喜びと聖霊に満たされて」いました。


これは伝道する現代の私たちクリスチャンにとっても、励みになります。

伝道していても、なかなかうまくいかなかったり、失敗したと思って、落ち込んだり、諦めかけたりすることもあります。

しかし、伝道がうまくいかなくても、
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
これが大切だと思います。

伝道活動において、聖霊に満たされ、聖霊による愛と喜びに満たしていただくことは、とても大切ですし、
聖霊に満たされていると伝道が楽しくなります。
たとえ拒絶されても感謝なのです。喜びがあるのです。

しかし聖霊に満たされていないと楽しくありません。
私たちは、聖霊に満たしていただけるように、よく祈って伝道をしていきましょう。


「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
 (ルカの福音書 11章 13節)

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パウロの伝道説教(1)

2025-01-27 10:33:00 | パウロの生涯に学ぶ
パウロの生涯(09)

パウロの伝道説教(1)
ピシディアのアンティオキアにて

パウロたち一行は、ペルゲから小アジア内陸にあるピシディアのアンティオキアに着きました。


(新改訳2017の巻末地図より)


ここで安息日になったので、ユダヤ教の会堂に入りました。
すると会堂司に頼まれて、パウロが説教することになりました。



説教の構成

説教は3つに分けられます。
16節から25節までは、出エジプトからダビデまでの歴史。
26節から37節までは、ダビデからイエスにつないで、イエスの生涯をたどる。
38節から41節までは、結論と勧告です。

しかし、第1部ではモーセからダビデまでの歴史。そしてダビデから第2部のダビデの子(子孫)であるイエスにつなぎ、イエスの十字架と復活までを語り、最後に第3部で説教の結論を語るというように、
自然に、とてもうまくつなげています。
まさにパウロの面目躍如とも言うべき、非常に整った説教です。


説教はユダヤ人なら誰でも知っているユダヤ人の歴史から始めます。
これによって聴衆は安心して説教に耳を傾けるようになります。
良い説教の実例でもあります。

しかし、それだけではありません。
神様の救済(救い)の歴史として語っています。


神による救済史

まず神様はイスラエルの民を選び、エジプトでの奴隷状態から解放してくださり、荒野で訓練し、約束の地に入れてくださいました。

そして約束の地において、
ヨシュアの時代、士師の時代、最初の王サウルの時代を経てダビデ王に至ります。 

この歴史から、
ユダヤ人の祖先は、頑なで、神様の御心や御計画を理解しようとせず、不平不満を言ったり、さらに偶像に頼ったりして、神様に背き、罪を犯してばかりいました。

しかし、そんなユダヤ人たちを神様は決して見捨てず、愛と忍耐をもって、彼らを守り、導き続けてくださいました。

会堂にいた人たちは、そのことはよく知っていました。


「神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。」(使徒の働き 13章 23節)

そして神様は、約束どおりに、神様はダビデの子孫から救い主イエス・キリストをお与えになりました。

イスラエルの民が神様に背き続けても、それでも神様は救い主メシアを送るという約束を守ってくださいました。


そしてそのような心にさせておいて、
自然にイエス・キリストによる救い(十字架と復活)に誘導しています。

このような神様の救済の歴史がとてもうまく語られています。
これがパウロの説教のすごいところです。


パウロは離散して異邦人の地、小アジアに住んでいるユダヤ人たちに、神様の愛と忍耐の歴史をもう一度思い出させようとしたのです。

不真実な人間に対して、あくまでも真実であろうとなさる神様の愛に、聴衆の心を向けさせようとしています。



私たちへの救済史

私たちも、時には、旧約時代の人たちと同じように、頑なで、神様の御心や御計画を理解しようとせず、不平不満を言って神様に罪を犯していたことはなかったでしょうか。

でも神様はそんな罪深い私たちをも愛してくださり、イエス様のもとに絶えず導こうとしておられるのです。

「アブラハムの子孫である兄弟たち、ならびに、あなたがたのうちの神を恐れる方々。この救いのことばは、私たちに送られたのです。」
 (使徒の働き 13章 26節)

パウロがここで言っているように、
救いのことばは、今説教を聴いている、聖書を読んでいる現代日本の私たちのためなのです。私たちに送られている神様からのメッセージなのです。



キリストの復活

説教の第2部で、パウロは、神様の救いの約束は、イエス様の十字架と復活で完全に実現した(成就した)ことを伝えていますが、
さらに復活が信じられないユダヤ人たちに、イエス様の復活も(旧約)聖書に預言されていたことなんだということを伝えています。


1つは33節。
「神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。
詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです。」(使徒の働き 13章 33節)

これは詩篇第2篇7節のみことばです。 

もう一つは、34〜35節です。
「そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方とされたことについては、こう言っておられました。
『わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。』」
 (使徒13章34節)

 この中の二重カギ括弧の部分は、
イザヤ書55:3の引用です。

また、
「ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。『あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません。』」   (使徒13章35節)
 
この中の二重カギ括弧の部分は、
詩篇16篇10節からの引用です。

前述しましたように、
パウロはイエス様の復活が信じられないユダヤ人のために、 
イエス様の復活は(旧約)聖書に預言されていたことなんだよと言って分かるようにしているのです。



信仰の決断

そして38節からは勧告に移ります。
「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(38節)


ここでパウロは、はっきりと、イエス・キリストによる福音を宣言し、キリスト教の根本教理を述べます。

それは、イエスによる罪の赦しと、モーセの律法によっては得られなかった義認(神様の御前で正しい者と認められ、受け入れられること)が得られるようになったということです。

39節では、さらに
この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」
と、パウロが広めた信仰義認の教理をはっきりと明言しています。

のちにガラテヤ書やローマ書に記されて、さらにマルティン・ルターによって再確認される信仰義認の教理が、もうすでにここではっきり示されています。

この時のパウロの説教――律法が守れなくても、イエスによって罪ゆるされ、神様の前に義と認められる――は、ユダヤ人のみならず、会堂にいた異邦人のユダヤ教徒の心に響いたようです。

そして聖霊によって信仰の決断を迫られたことでしょう。

よく準備された整った説教は、聖霊と共に働いて、多くの人の心に留まるのです。

ピシディアのアンティオキアのユダヤ教徒たちは、次の安息日にも説教してほしいと言って、その日の集会を終えました。

もしかしたら、次の安息日には、その日に来られなかった人たちを誘って来たいと思ったのかもしれません。

私たちの教会もこうでありたいと思います。


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