説教でたどるパウロの生涯

 「使徒行伝」などの説教を通して、パウロの生涯を学び、信仰生活の道しるべとします。

苦難と結実〜テサロニケ伝道

2025-02-03 16:01:00 | パウロの生涯に学ぶ
パウロの生涯(18)

苦難と結実
〜テサロニケ伝道〜


ピリピで伝道していたパウロとシラスは、牢屋に入れられてしまいましたが、地震に遭ってしまいました。 

その翌朝、地方長官から警吏、そして看守へと、「パウロたちを釈放する」という決定が伝えられました。

しかし、パウロは警吏に
「自分たちはローマの市民権を持っている。
ローマの市民権を持っている私たちを正式な裁判を経ないで、公衆の面前でムチを打ち、牢屋に入れた。
長官たちがやって来て、(謝罪した上で)釈放するべきではないですか」と異議を申し立てました。

それを聞いた長官は、びっくりしてやって来て、2人をなだめてから釈放し、ピリピの町から出ていくように言いました。

ここから使徒の働きの17章に入ります。


テサロニケにて

パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを経由して、テサロニケに行って、そこで伝道することにしました。

ピリピからテサロニケまでは約150kmの道のりです。




ここにはユダヤ教の会堂があったので、パウロたちは3週間にわたって、福音を宣べ伝えました。

パウロは(旧約)聖書に基づいて、
「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」
 (使徒の働き 17章 3節)
と語りました。

パウロはここで、
メシア(救い主キリスト)が苦難を受けて死んで復活するというのは、
(旧約)聖書に預言されていたことなんだと説明し、
20年ぐらい前に十字架に架けられて死んで復活したイエス様こそが、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシア(救い主キリスト)であると語りました。


それを聞いた大勢のギリシア人と一部のユダヤ人たちは、納得して、イエス・キリストを信じました。その中には有力なユダヤ人女性もいたようです。

しかし、今までにもあったように、ユダヤ人たちの迫害が始まりました。
大勢の人たちがパウロのほうに行ってしまったので、それを妬んだのです。

そしてその迫害はひどいものでした。



テサロニケでの迫害

「ところが、ユダヤ人の指導者たちはねたみに駆られ、町のならず者をけしかけて暴動を起こしました。ヤソンの家を襲い、処罰するために、パウロとシラスとを町の議会に引き出そうとしました。
しかし、当の二人が見つかりません。しかたなく、代わりにヤソンと数人の信者を役人のところに引っぱって行き、いかにも大げさに訴えました。 『ご存じでしょうか。世界中をひっかき回してきたパウロとシラスが、今この町でも騒ぎを起こしているのを。
そんなぶっそうな連中を、ヤソンは家にかくまったのです。やつらは反逆罪を犯しています。カイザル(ローマ皇帝)でなく、イエスという別の王がいる、とふれ回っているのです。』
これを聞くと、町民と役人たちはひどく不安になり、保釈金を取った上で、ヤソンたちを釈放しました。」
  (使徒の働き 17:5-9 JCB)

ユダヤ人たちは、仕事にあぶれた ならず者たちを集めて、新たにキリスト教徒になったヤソンの家を襲いました。
ヤソンがパウロたちをかくまっていると思ったのです。

しかし、パウロたちは見つけ出せませんでした。
その代わりに、ヤソンと数名の信者を役人のところに連れて行って、大げさに訴えました。

それによると、
1.パウロたちは世界中を引っかき回しているテロリストである。

これは全くの言いがかりです。
騒乱を起こしているのは、ユダヤ教徒のほうであって、パウロたちではない。


2.パウロたちは、カイザル(=ローマ皇帝)以外に、別の《王》がいると言いふらしている。

反乱を起こして、国家転覆を狙っているというのが、ユダヤ教徒たちの主張ですが、
パウロたちが伝えているのは「神の国」の王キリストであって、「地の国(地上の国家)」のことではありませんでした。


ヤソンは役人たちに保釈金を払って、
釈放されました。
パウロたちは役人たちやユダヤ教徒たちに見つからないように、テサロニケを後にしました。



ヤソンと私たち

ヤソンは信仰に入って間もなかったでしょう。彼はひどい目に遭いましたが、それでも信仰を捨てませんでした。

ローマ人への手紙の中で、パウロは
「私の同労者テモテ、また私の同胞、ルキオとヤソンとソシパテロが、あなたがたによろしくと言っています。」         (ローマ 16章 21節)

ローマ人への手紙は、この数年後にコリントで書かれたものなので、
ヤソンはコリントに来ていたと考えられます。

ヤソンは、パウロたちと苦しみを共にできたことを喜びとしていたのかもしれません。

「私と共に苦しむ覚悟ができるはずです。神は苦しみのただ中にあっても、力を与えてくださるのですから。」
 (テモテへの手紙Ⅱ 1:8 JCB)


私たちも、信仰ゆえに苦しいことや辛いことに遭うようなことがあります。
そのただ中で、神様は力を与えてくださいます。
聖霊によって平安と喜びを与えてくださいます

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
 (Ⅰコリント人 10章 13節)



その後のテサロニケ教会

この数ヶ月後、パウロは、コリントからテサロニケ教会の人々に宛てて手紙を書いています。

「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしている。」
 (Ⅰテサロニケ1章3節)

テサロニケの信徒たちは、
聖霊が与えてくださる信仰と希望と愛にあふれていました。
そしてそこから、労苦や忍耐をものともしない力が出てきたのでしょう。


6節にも以下のように書いてあります。

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」
 (Ⅰテサロニケ1章6節)

テサロニケの信徒たちは、ユダヤ教徒たちによる度重なる迫害(苦難)に遭いました。
しかし、そんな中でも、彼らは決してくじけないで、聖霊が与えてくださる喜びにあふれて、みことばを受け入れました。
そして彼らはキリストにならう者になりました


それだけではありません。
「あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。
主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。」
(Ⅰテサロニケ人へ 1章 7〜8節)

テサロニケの信徒たちの評判は、
テサロニケやピリピのあるマケドニア地方のみならず、
コリントやアテネがあるアカイア地方まで響きわたり、
信者の模範になったというのです。

前述したように、
ヤソンはアカイア地方にあるコリントに来ていました。
ヤソンや彼の仲間が良き証し人となって、各地でみことばを証しし、 
行いにおいても、キリスト者の模範になっていたことが分かります。

私たち人間の力には限界があります。
しかし、すでに申しましたように、
聖霊に満たしていただき、
聖霊が与えてくださる信仰と希望と愛、そして喜びと感謝、
それらが、困難をも物ともしない忍耐力を与え、私たちを良き証し人としていくのです。


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揺れ動かない人生の土台

2025-02-03 07:56:00 | パウロの生涯に学ぶ
 
パウロの生涯(17)

揺れ動かない人生の土台


占いをする女

パウロたちは伝道するために河原にある祈り場に行きました。
そこに行く途中、占い師の女と出会いました。

「"さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。彼女はパウロや私たちの後について来て、『この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています』と叫び続けた。」(使徒 16章 16〜17節)


この女奴隷には占いの霊が取り憑いていたので、主人たちはこの女に占いをやらせて、金儲けに利用していました。

ところが、この女はパウロたちを見ると、叫びながらパウロたちの後にしつこく付いて来ていました。

彼女が叫びながらパウロたちの後にしつこく付いて来たのは、
彼女の心の奥深いところに「悪霊を追い出してほしい。私を助けてほしい」という願いがあって、
パウロなら癒してくれる、助けてくれると、そう思って、パウロにつきまとっていたのではないでしょうか?

彼女は占い師だったので、パウロたちが「いと高き神のしもべ」であることを霊能力で見破っていたのでしょう。

そこでパウロは占いの霊を叱りつけて、霊を追い出しました。



世の反対勢力

しかし、悪霊が出て行ってしまうと、彼女を利用して金儲けをしていた人たちは、金儲けができなくなってしまいました。

パウロたちの伝道活動は、
異教社会の習慣(占いなど)や金銭的利害(この世の利益)とぶつかったのです。

これは現代の日本でも起こりうることではないでしょうか。


「彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。・・・そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。"
 (使徒の働き 16章 19, 23〜24節)

彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったので、パウロたちを捕らえて、役人のところに連れて行き、「ローマ帝国では許されていない、非合法な風習を宣伝している。」と言って訴えたのです。
 そこで役人はパウロたちを鞭で打った上で、牢屋に入れて、足かせをはめました。

この足かせは、足を不自然な形で固定して、つないでおくもので、痛くて痛くてたまらなくて、夜も眠れないようにしておくものです。



獄中の賛美


"真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒の働き 16章 25節)


しかし、いかなる国家権力や拷問の力よりも強いのが、どんな時も神様を見上げ、神様を賛美し、祈ることです。

人間の力だけではできませんが、
聖霊に満たしていただくとき、
聖霊の力によって、どんな時でも神様を見上げ、神様を賛美し、神様に祈ることができます。

パウロは、のちにテサロニケの教会に宛てて書いた手紙の中で、

"いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ 5章 16〜18節)

と言っていますが、

これらも痩せ我慢のようにするのではなく、
聖霊に満たしていただくときに、
神様の愛と力に心が満たされるときに、
心の内側から自然に喜びと祈りと感謝が湧き上がってくるのです。
その時に試練に耐えることもできるのです。



揺れ動いた土台 

"すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。(使徒の働き 16章 26〜28節)

パウロたちが神様に賛美し、祈っていると、突然、地震が起こりました。
牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまったというのです。

目を覚ました看守は、囚人たちがみんな逃げてしまったものだと思って、
責任を感じて、自害しようとしました。

それを見たパウロは、看守に「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。



揺れ動かない土台

"そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」"
 (使徒の働き 16章 30〜31節)


驚いた看守はパウロたちの前にひれ伏して、「救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねました。

この看守は真面目に仕事を勤め上げていさえすれば、自分も家族も幸せに暮らせると思っていたかもしれません。
なれる。

しかし、そんな彼の職場の土台が地震で揺れ動いた。
これは単に地震で牢屋の土台が揺れ動いたというだけでなく、
これまで正しいと思っていた生き方、人生の土台そのものが揺れ動いたのです。

頼りになると思っていた人生の土台は、いざという時には頼りにならなかったのです。


そんな看守はどうして生きていけばいいのか分からなくなり、
パウロに「救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねました。

するとパウロたちは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言いました。

看守は「何をしなければなりませんか」と《行い》を尋ねましたが、
それに対して、パウロは「主イエスを信じなさい」と、イエス様を信じる《信仰》を求めたのです。



前置詞の違い

通常「〜を信じる」というとき、英語では ”in〜” という前置詞を使います。
 【例】believe in God
※無理に直訳すると「神の中にある(いる)ことを信じる」という意味になります。
 
それに対して、ギリシア語では、
“eis〜” という前置詞を使います。
これは英語の “into〜” に当たります。
つまり「神(キリスト)の中に飛び込む(駆け込む)」 あるいは「(問題や悩みを)神やキリストに投げ込む」という意味になります。
 
ところが、使徒16章31節の「主イエスを信じなさい」では、“epi〜” という前置詞を使っています。
これは英語では “on〜” という意味になります。


(Bible Hub より)
 
これは揺れ動いた牢屋の土台、あるいは揺れ動いた人生の土台に対して、
イエス様(という絶対に揺れ動くことのない土台)の上に」信仰を築き、人生を築くという意味になります。

少し分かりにくいかもしれませんが、
この世のものがどんなに揺れ動いても、
また私たちの心がどんなに揺れ動いても、
イエス様こそが、決して揺れ動くことのない人生の土台なのです。

この土台の上に人生を築いていくなら、自分も家族も幸福な人生を送ることができます。

***

パウロたちは、看守とその家の者たち全員に、主のことばを伝えました。
そして看守はパウロたちを引き取り、まず彼らの打ち傷をていねいに洗って手当てをし、それから家族そろってバプテスマ(洗礼)を受けました。
そして、パウロたちを自宅に案内し、食事を出してもてなし、全家族がクリスチャンになったことを心から喜び合いました。
(使徒の働き 16章 32〜34節)
リビングバイブルより



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