パウロの生涯(11)
パウロの伝道説教(2)
〜異邦人への不完全な説教
パウロとバルナバは、ピシディアのアンティオキアを離れ、イコニオンに移動しました。140kmぐらいは離れています。
(新改訳2017の巻末地図より)
赤い破線が第1回伝道旅行の道のりです。
ここでもピシディアのアンティオキアと同じことが起こります。
信じる人と信じない人が起こり、
イコニオンの町は、信じた人と信じなかった人とで2分されてしまいます。
そしてユダヤ人たちによる迫害が起こります。
パウロたちは迫害を避けて南行し、
イコニオンから40kmのところにあるリステラに移りました。ここは、ほぼ異邦人の町でした。
いやしの後で
ここでは、生まれつき足の不自由な人と出会います。
その男はパウロが語る恵みの言葉に聴き入っていました。
彼の心には次第に信仰と希望が湧いて来ました。
彼がパウロを見るまなざしから、パウロは彼が癒される信仰を持っているのを見て取れました。
そして、彼に立ち上がるように命じると、彼はたちまち癒されたのです。
しかし、問題はその後です。
ここで今まで経験したことがない、思いがけない出来事が起こりました。
「群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった』と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。」
(使徒の働き 14章 11〜13節)
リステラは、ユダヤ人は ほとんどいないようで、ギリシア神話の町でした。
パウロたちが癒しの奇跡を行ったところ、
群衆たちは声を張り上げて「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と叫び、
パウロたちのことをギリシアの神々の名前で呼び始めました。
(ゼウスは最高神、ヘルメスは雄弁の神)
さらにそこにゼウス神殿の祭司まで現れ、いけにえを献げようとしたのです。
これを見たパウロは説教を始めます。
異邦人への説教
「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。」 (14章15節a)
まずパウロは自分が神だと思われているようなので、自分も皆さんと同じ人間であるということを告げます。
神は神、人は人と厳正に区別しなければならないことを告げます。
神が人になったり(イエス様だけ特別!に人になった)、また菅原道真のように人が神になったりすることはないのです。
「そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」(15節b)
パウロが宣べ伝えている神様は、
まず今も生きて働いておられる神様です。
そして人間が手で作った偶像の神々とは違って、天と地と海と、その中にあるすべてのものを創った神様(創造主)であるということです。
パウロたちは、その神様に立ち帰ることようにと伝えていたのです。
「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
(16〜17節)
神様は、異邦人たちがそれぞれ自分勝手に生きているときでも、
雨を降らせて、必要な食べ物を収穫できるようにし、食べ物で私たちの心を満たして、私たちを喜ばせてくださっておられたのです。
これとよく似た言葉は、
山上の説教に誰でも知っているイエス様のみことばにもあります。
「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)
このように誰にでも無条件に与えられる神様の恵みのことを《一般恩寵》と言います。
それに対して、キリストの十字架の救いのように信じる者だけしか与えられない恵みを《特殊恩寵》または《特別恩寵》と言います。
ここでパウロは、天と地を創造し、彼らの必要を満たしてくださる生ける神を受け入れるよう、人々に勧めでいます。
こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。(使徒14章 15〜18節》
説教の導入
パウロは、ユダヤ人に伝道する時は、「パウロの伝道説教(1)」で前述しましたように、
ユダヤ人なら誰でも知っているユダヤ人の歴史から入りました。
つまり、絶えず神様に背き続けるイスラエルの民を決して見捨てないで、導き続けた神様の愛から始めます。
しかし、異邦人に対しては、
まことの生ける神様のことを知らなくても、食べ物を与え続けてくださった神様の恵みにまず聴衆の心を向けさせています。
つまり、誰でも感じ取ることができる神様の愛と恵みに聴衆の心を向けさせて、そこから本題に入っています。
説教者として学ぶところ大です。
未完成な説教
このリステラでのパウロの伝道説教は、一般恩寵を提示する序論(導入)だけで終わり、本論(イエス様の十字架による救い)がありません。
このことから、ある学者は、パウロはまだ異邦人向けの伝道説教がうまくできなかったのではないかと言っています。
おそらくパウロにとって、ユダヤ教(旧約聖書)の知識が全くない、全くの異邦人に向けて説教するのは初めてであったのでしょう。
それでまだ模索中であったのかもしれません。
しかし、私はこの説教が未完成に終わったのは、それだけではなかったと思います。
使徒の働きの聖書箇所の前後関係(文脈)を正しく読むことが大切です。
このすぐ後の19節です。
「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」
(使徒の働き 14章 19節》
ここにはピシディアのアンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を扇動して、パウロを石打にしたということが書かれています。
つまり、このために、パウロは説教を続けたくても、続けることができなくなってしまったのです。
聖書を読むときは聖書本文の前後関係(文脈)をきちんと読んで、そこから判断することも大切です。
パウロは半殺しにされ、意識不明の状態になってしまいましたが、
意識を回復し、翌日、デルベに向かっていきます。