一反百姓「じねん道」【百姓の100章】『農的ワークライフバランス』実践と研究日記@斎藤博嗣&裕子*4人家族(夫婦子供2)

2005年、東京から茨城県阿見町の農村へ夫婦で移住し新規就農。
こども百姓「じねん童」2人と家庭自給生活を自学自習中

1歩、3歩、3m、3km・・・。。自分の周りを一歩ずつ。

2008年05月05日 | こども百姓「じねん童」

今日は、彩葉の初めての子供の日。

あるジャーナリストに
「半径(直径だったかも)3kmを知らなければ、世界を知ることは出来ない」
と言われたことを強く覚えている。
(ガンジーも同じ内容のこと・・・。ガンジーのパクリかな?)

1歩、3歩、3m、3km・・・。。
自分の周りを一歩ずつ。

今日は、我が家から近くの牛久沼周辺を、彩葉と歩きました。


あやめ園
時期が早すぎてまだ咲いていなかった・・・。

小川芋銭記念館雲魚亭

奮発して「うな丼発祥」の地(牛久沼)でうな丼を食べた。
今度は釣りにこよう。(うなぎは釣れるのか?)



小川芋銭(おがわ うせん)

最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。生涯のほとんどを茨城県の牛久沼のほとりで農業を営みながら暮らした。
画号の『芋銭』は、『自分の絵が芋を買う銭(金)になれば』という思いによるという。
身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから『河童の芋銭』として知られている。
芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、『牛里』の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。

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世界の偉人はすぐそばにいる・・・。
(好きな偉人は皆、傍らに農業をしたり、農民を描いたり、詠んだりした人)
いつか童謡「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ♪」の野口雨情の史跡も訪れたい。


 


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