■8月19日産経新聞・産経抄
自然農法の提唱者として知られる福岡正信さんは、70年前、横浜税関の植物検査課で、病気害虫の研究に没頭していた。といっても研究室に閉じこもっていたわけではない。カメラに凝って、桟橋で見つけた美人に頼み込み、写真を撮らせてもらったことがある。
▲現像して友達に見せたら、女優の高峰三枝子だと教えられた。南京街のダンスホールで、歌手の淡谷のり子と踊ったこともある。そんなある日、急性肺炎を引き起こし、入院中に突然死の恐怖にとりつかれた。退院して、一晩さまよい、街を見下ろす丘の上で、夜明けを迎えた
▲「人間は何もしなくていい」。こんな考えが突然ひらめいたという。故郷の愛媛県伊予市に帰り、ミカン作りや米作りで、考えが正しいことを証明しようとした。16日、95歳の天寿を全うした福岡さんは、著書の『わら一本の革命』のなかで、自然農法を始めたきっかけをこのように語っている ▲耕さない。一切の農薬、化学肥料を使わない。田植え、草取りもしない。だから、田んぼは草ぼうぼう、果樹園はジャングルのようだった。それでいて、収穫量は普通の水田の倍近くあった。果樹園からは、夏ミカン、ウメ、サトイモ、ダイコンなど100種類近くの作物がとれた ▲といっても、福岡さんの自然農法は、放任とは違う。人間が何の手を加える必要がない状態を作りあげるまで、試行錯誤が続いた。晩年にはアジア、アフリカ各国で、砂漠緑化にも取り組んだ ▲『わら一本の革命』には、「国民皆農」の提案もある。「自然農法で日曜日のレジャーとして農作して」、生活の基盤を作っておきなさい、と。30年以上も前から、農政の行き詰まりと食糧危機の到来を見通していたに違いない。