一反百姓「じねん道」【百姓の100章】『農的ワークライフバランス』実践と研究日記@斎藤博嗣&裕子*4人家族(夫婦子供2)

2005年、東京から茨城県阿見町の農村へ夫婦で移住し新規就農。
こども百姓「じねん童」2人と家庭自給生活を自学自習中

福岡正信氏没後1年+ムイ(無為)キペディア②

2009年08月16日 | 【グリーンピック・緑の道】地球を『緑の生命連鎖』でつなごう!!

没後1年
福岡 正信(1913年2月2日 - 2008年8月16日)








『地湧きの思想(1)
- 未来を啓く人間観 -』
柏樹社編
執筆者:竹熊宣孝、橋本敬三、野口三千三、福岡正信、和田重正
1980年

「米国の自然破壊にみる日本の自然界」
福岡正信



あらゆる人為を捨てるしかない
119~123ページより抜粋

 うちに去年、鯨の保護活動している会長さんが嫁さんと一緒に自転車でやってきました。
私はなんにもそういう保護運動はしておりません。
が、やってることは同じことをやってるんだろうと。
田んぼの鯉やどじょうを殺さないつくり方をすることが内海の魚を増し、鯨を繁殖さすことにもつながることを話しました。
 今度もむこうで原発のスリーマイル島から逃げだした青年たちがカルフォルニア州の山の中に入って農業を始めている所へ行きました。七面鳥二十羽連れて入っておりました。そのうち、三羽は被爆で奇病になり死んだと、スリーマイル島の事故がこわくなり、それで逃げてきてここへ入っている。
山へ入って原始生活をしているわけです。
私はスリーマイル島から逃げ出して原発反対運動をするよりも、皆さんが電気のないここで井戸を掘り、原発がなくても、発電所がなくても生きて幸せな生活をしていることがむしろいちばんいい反対運動になる。
手取り早い原発反対のデータが出ているんじゃないかと言ったんです。
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 どこへ行ってみても、自然を守ろうとする空気は日本人に比べて、格段の相違があるように思います。
しかし残念ながらアメリカ人の自然は日本人の感じている自然とは違います。
なぜ違うのか。
 アメリカの西洋の哲学と、東洋の哲学の違いです。
アメリカ人はまず人間がある。
万物霊長の人間があって自然がある、という考えです。
神の契約のもとに自然がある。
その自然を利用し、改良することも、人間の意のままであるという考え方を持っております。
 東洋人は自然の中の一員である。
百姓は自然に仕える仕事といいます。
労働という言葉を使っておりませんでした。
自然に仕える、神に仕えることが百姓の仕事であった。
西洋人は人間がまず在って、人間に快適な自然をつくっているにすぎません。
だから、あの芝生がなんでもないんです。あの街路樹が立派であっても私には立派に見えませんでした。
これはイミテーションの緑である。
本来の、自然のための自然を育てているのでも、守っているのでもないんだと。
 むこうにはいろんな人種がおります。
いろんな宗教の問題も出てきました。
哲学の論争もしました。
私は哲学の本を一冊も読んだことはございません。
しかし、哲学とか宗教とか科学とかいうものが、これがバラバラであっては何の意味もないということと、知識の増大がすべてのこの世の混迷の原因になっていることを痛感しています。
 どこまでいっても真理は永遠に一つしかないと思います。
神も一つしかありはしない。
自然も一つしかない。
加州の空も日本の空も欧州の空も一つです。
と同じようにすべてのものは一つしかない。
ところが、山頂に降った雨も西に行けば西洋哲学の流れになり、東に行けば東洋哲学になる。
分水嶺のちょっとの差が二つに分けてしまう。
しかも発達してふもとに下り、大河になるほど東西の違いは大きくなり、対立します。
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 しかしやってごらんなさい。
登って行ったら、例えば原発反対運動をして気が付いてみたらあとには誰もついてきてない、上へ上がれば上がるほど、一人になってしまう。
下を向いて行く方が賑やかでいい。つれが多くなる。
山の中へ入っていくよりは山すその下へ行った方がいい。
都会の方がすばらしい。東京の街の方が賑やかで生活しやすい文化があると思う。
だからみんな下の方へ向かってぞろぞろ行く。
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 物理学者は何を目ざして、物理を研究しているか。
問題である。素粒子の研究をすればするほど、素粒子の学問が立ちはだかる。
これが立ちはだかると、この向こうの人生の目標を見失う。
 頂上の上に神があり、自然があるとしても、今自分たちが考えている
神は神ではない。目の前の自然は自然でもなんでもありはしない。
自分たちが頭で描いた虚構の神や緑があるにしかすぎない。
その向こうにある神や自然を知るためには、自分たちの観念とか理性とか感性は捨ててしまわなければならない。
あらゆるものを捨ててしまって、これを飛び超え身軽になって頂上まで行かなければいけないのに、途中の知識という荷物を集積することに重点が移る、より集った人の話が立派であればあるほど、かえって途中のむだ話に日が暮れてここでひっくり返してしまう結果になる。
 何人かが集まって会議を持ちます。その話が大きくなれば大きくなるほど、むしろ肝心の頂上に登るのに邪魔になるということです。
で、自分たちがここでおしゃべりすることは、ほんとうのことを言ったら役に立たないということを言いたいわけなんです。
荷物は捨てて小さくしていかなければいけない。
捨てて捨てて身軽くなっていくんだと。
自然に入るのに考えることはない。
やることもない。
ものを書く必要もない。
この大きな都会生活から山へ入り、捨てていくしかない。
どちらからいっても、頭も物も心も、物心共に捨て切ったところで初めて、頂上に登り、頂上を越えることができる。
時間と空間を超えることができる。
 時間と空間を越えるためには、自分たちの観念も思想も、あらゆるものを捨てていかなければならない。
ところが、捨てろ捨てろと捨てる話をする。
おしゃべりをすると、何も言うことはない、聞くことはない、と言いながら何かすることがあるように見えだす。おしゃべりに価値があるように見えだす。
それを私は恐ろしいと思う。
 現在、皆さんの前にいる福岡正信なんていうのは、どの人と比べてみても自分は優れた点は一つもないと思う。
自分ぐらい怠惰であって、いい加減な男はない。
自然食をやっているのでも、自然農法をやっているのでもない。
私は弟子の一人もいません。
 しいて私が役立つとすれば、何をやってみても、何の役にも立たなかったという
ことを、私は三十年四十年かかって実証してみたことが多少参考になるかもしれません。
人間の知恵が何も役立っていない。
やること、なすことなかった。
石油なんかなくなれば、それにこしたことはなかったんだと。
石油でもなくなったら、初めて自然農法でもみんなやってくれるかもしれないと思うぐらいのものです。
それまではこんなことを言ってみても、むしろ空しいだけです。
 うちの田んぼへ、大学の先生、農協の人たちも来て、「これだけ出来ると困るなあ」と言う。
「なんで困るんか」と聞くまでもないんです。
肥料も、農薬も、機会もいらない、なんてことを進めることはできない。
そんなことしたら日本中の経済が、根本的に破滅する。
破滅すると考えられているのです。
それこそやってみないとわからないんですよ。
やってみなきゃわからないのをやりもしないで、山小屋生活に入ったらつまらないと思うのと同じことです。
何もしなかったら詰まるのか、つまらないのか。
 うちの山小屋へ来て寝てみたら、朝起きて、お日さんもお月さんも、出た時から沈むまでまる見えです。
何も考えることがなくなってします。
電気やローソクの光でさえまぶしく煩わしくなります。
日が暮れたら寝たらいいんですよ。
朝日と共に起きる。
それだけで不足があるか、ということを体験してみませんかというだけです。
生きているだけで人間は幸せだということを体得するまでどうにもならない、ということを皆さんが山で体験されてみるしかないと思う。
 そこにはほんとに詩があるのか歌があるのか、真善美があるのかないのか。
私は真善美なんていうのは自然以外にない、みんな虚構の真善美を追っかけているにすぎないと思う。
自然の中に初めてそこに真善美がある。
自分たちはその真善美を追求するなんて心をまず捨てるしかない。
くだらない話をまず捨てて、やめて、自己主張の話はここらでうちきって、
裸になって、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。




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