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今回の水俣は、水俣病公式確認60年ということで、行ってきました。それで、資料館を回ったり、語り部の話を聞いたりしてきました。
正直なところ、余りにも問題が深くて重すぎます。2日間のツアーで学んだことだけでは、とても知ったことにはなりませんし、その本質にも実態にも触れることができません。
ただ、それでも伝えたいという思いがあるので、要点だけをまとめておきます。
水俣病は、すでに過去の事件であり、解決済みのように思っていましたが、現在も病気に苦しんでいる人が日々の暮らしを続けているし、また12もの裁判が行われているのです。
水俣病は、チッソ(当時は新日窒)水俣工場の排水に含まれていたメチル水銀が、そのまま海に流れ出し、それが魚介類に蓄積し濃縮されてしまい、それを食べた人々の身体が破壊されて発生した病気です。
今回は、その最初に公式確認されたとされるJさんの家にも訪問しました。ご本人は体調が悪くてお会いできませんでしたが、お仏壇で、水俣病で亡くなったお姉さんの供養のため、みんなとともに読経してきました。
このJさんの病気は、最初は伝染病だと疑われたため、近づくと病気がうつってしまうという偏見を受けました。同じような症状を起す人々は、どんどん増えていきます。すると、ますます偏見が大きくなっていきます。
そんな中、熊本大学医学部が、この病気はメチル水銀が原因だという発表をしました。またチッソ水俣工場付属病院長も、ネコ実験を行って、工場排水が水俣病の原因であることを確認していたのですが、会社はそれを隠しました。この知っていたのに隠蔽していたということが、水俣病の拡大を招きましたし、チッソが非難されるべき事件になった大きな要因です。
この年の暮れには、患者とチッソとが見舞金契約を結びます。その内容は、死者30万円、葬祭2万円、生存患者10万円、未成年者3万、成人に達したとき5万というものでした。語り部のKさんは、こう話します。「どうして未成年者が安かったのか、それは、患者は労働力にはならないと考えたからだ。働けないから、やすくてもいいだろうということだ」と。また、この契約には、「将来チッソの排水が原因とわかっても新たな補償要求をしない」との条項が入っていました。この補償金で、患者の声が封じられてしまうことになります。
水俣市は、チッソの企業城下町という一面もあります。市税の半分がチッソからという時期もあったり、また多くの雇用を生み出していた大企業でした。ですので、チッソに抗議をすることさえも、周囲から白い目で見られてしまうことになります。
この語り部さんは、子どもの頃の体験として、夜中に無言電話があったり、石を投げられたりしていて、夜中に何時でも逃げられるように懐中電灯を用意していたといいます。
水俣在住の女性(33才)からも話を聞きました。「小学生の頃に、水俣から来たというと、相手は私から逃げるように去って行きました。その時、私は何のことかわかりませんでした。それが水俣病が原因だということだったのを知って、愕然としました。私は、水俣病に負けないように強くなりなさいと学校で教育を受けました。でも、いじめられるのは嫌なので、どこに行っても出身地は隠したままにしていました。地元の水俣高校400人の生徒にアンケートをしたら、180人が水俣出身であることを隠すと答えています。この水俣市の中でも、水俣病のことを避けたいという人はいます。患者でも、秘密にしておきたいという人もたくさんいます。水俣病かもしれないと思っても、周囲からの差別が怖くて、申請できないという人もいます。
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地元では、就職先で一番人気は今でもチッソです。そのチッソのために人生を狂わされた人も大勢います。チッソの人はいじめられなかったのに、患者はいじめられてきました」と。
「水俣学」という言葉があります。水俣病を医学だけでなく、生活面・地域社会・経済なども含めて総合的に研究するものです。ここには、私たちが抱えている課題の縮図が、水俣にあるように感じました。