お経の話も、いよいよ佳境に入ってきました。今回は、発願文(ほつがんもん)です。文字通り、私が願いを発する文です。これは、中国の高僧である善導大師が書かれたものです。感じを見れば、意味が何となくでもわかるような一文です。
願弟子等
願わくは、弟子たちよ
臨命終時
いのち終わるときに望んで
心不転倒
こころが転倒しないで
心不錯乱
こころが錯乱しないで
心不失念
こころが失念しないで
身心無諸苦痛
身とこころに諸々の苦しみ痛みなく
身心快楽
身もこころも心地よく
如入禅定聖衆現前
こころが安定したように、阿弥陀様・観音様・勢至様が現れ
乗仏本願上品往生阿弥陀仏国
仏さまの本願に乗って、お浄土に上品往生したいのです
到彼国已得六神通
お浄土に至ったら、六神通力を得て
入十方界救接苦衆生
苦しみの世界に戻って、苦しんでいる人々をすくい取りたい
虚空法界尽
宇宙に際限がないように
我願亦如是
私の願いも際限がないようにしたい
発願已至心帰命阿弥陀仏
発願しました。阿弥陀仏に帰命を致します。
これは、お浄土に往生をする人が、ひとしく持つべき願いになります。
いのちが終わったらお浄土に往くということは知っていても、ただ単に亡くなっていく場所ではありません。
お浄土に往生をするのには、ちゃんとした目的があるのです。それは、お浄土で修行を勤めにいくということです。
この世にも、いろんな修行があります。滝行・水行・千日回峰行・籠山行などなど、宗派によっていろいろな修行が定められています。
であれば、お浄土でどんな厳しい修行をするのかというと、じつは厳しくはない修行です。
この世でも勤められそうな修行になります。
永観堂禅林寺第九十世であられた中西玄禮師は、宝泉寺でのお説法において、こういうお話をされました。それは、「まゆみの法則」です。
「ま」は、待つ
「ゆ」は、ゆるす
「み」は、認める
お浄土での修行は、この相手を待つ修行・相手をゆるす修行・相手を認める修行です。
本来ならば、この世において、誰をもゆるし、誰をも認めることが大切なことです。たとえ、どんなに仲の良い関係であったとしても、底ぬけに100%相手を認めることが出来るかというと、なかなか難しいことでもあります。
この私にも、顔を見るだけでむかついた感情になってしまうような嫌な存在があります。そんな嫌な感情を持つ人にも、底ぬけにゆるせるのかというと、難しいことです。
簡単そうで、実は難しいことでもあります。
お浄土に往生した先祖は、いまは、いずれ後を追ってくるであろう者たちを、蓮の台の中で、底ぬけにゆるして、底ぬけに認めた状態で、待っていてくれると、受け止めるのです。
そして、この世で苦しんでいる者のために、生まれ変わってくれるのです。
発願文は、こういう願いを阿弥陀様の願いの中に、持ちつづけるようにと示しています。
願弟子等
願わくは、弟子たちよ
臨命終時
いのち終わるときに望んで
心不転倒
こころが転倒しないで
心不錯乱
こころが錯乱しないで
心不失念
こころが失念しないで
身心無諸苦痛
身とこころに諸々の苦しみ痛みなく
身心快楽
身もこころも心地よく
如入禅定聖衆現前
こころが安定したように、阿弥陀様・観音様・勢至様が現れ
乗仏本願上品往生阿弥陀仏国
仏さまの本願に乗って、お浄土に上品往生したいのです
到彼国已得六神通
お浄土に至ったら、六神通力を得て
入十方界救接苦衆生
苦しみの世界に戻って、苦しんでいる人々をすくい取りたい
虚空法界尽
宇宙に際限がないように
我願亦如是
私の願いも際限がないようにしたい
発願已至心帰命阿弥陀仏
発願しました。阿弥陀仏に帰命を致します。
これは、お浄土に往生をする人が、ひとしく持つべき願いになります。
いのちが終わったらお浄土に往くということは知っていても、ただ単に亡くなっていく場所ではありません。
お浄土に往生をするのには、ちゃんとした目的があるのです。それは、お浄土で修行を勤めにいくということです。
この世にも、いろんな修行があります。滝行・水行・千日回峰行・籠山行などなど、宗派によっていろいろな修行が定められています。
であれば、お浄土でどんな厳しい修行をするのかというと、じつは厳しくはない修行です。
この世でも勤められそうな修行になります。
永観堂禅林寺第九十世であられた中西玄禮師は、宝泉寺でのお説法において、こういうお話をされました。それは、「まゆみの法則」です。
「ま」は、待つ
「ゆ」は、ゆるす
「み」は、認める
お浄土での修行は、この相手を待つ修行・相手をゆるす修行・相手を認める修行です。
本来ならば、この世において、誰をもゆるし、誰をも認めることが大切なことです。たとえ、どんなに仲の良い関係であったとしても、底ぬけに100%相手を認めることが出来るかというと、なかなか難しいことでもあります。
この私にも、顔を見るだけでむかついた感情になってしまうような嫌な存在があります。そんな嫌な感情を持つ人にも、底ぬけにゆるせるのかというと、難しいことです。
簡単そうで、実は難しいことでもあります。
お浄土に往生した先祖は、いまは、いずれ後を追ってくるであろう者たちを、蓮の台の中で、底ぬけにゆるして、底ぬけに認めた状態で、待っていてくれると、受け止めるのです。
そして、この世で苦しんでいる者のために、生まれ変わってくれるのです。
発願文は、こういう願いを阿弥陀様の願いの中に、持ちつづけるようにと示しています。