オリンピックのトリビア

古代・近代オリンピック、パリ五輪2024等について

東京の遠泳と 東京五輪の「マラソンスイミング」

2020-10-09 | オリンピック
隅田川河口部の 日本橋は 「水泳のメッカ」でした

仮設の飛び込み台から 飛び込む人々と 新大橋
// 新大橋 = 広重「大はしあたけの夕立」の「大はし」
ここは 大正時代初期の 東京市 日本橋区 浜町(濱町 印)の 水泳場です


『東京年中行事』明治四十四年
「就中(なかんづく) 濱町河岸には 九ヶ所の 水泳教習所 有り、
 多きは 三百人 少きも 七八十人の 生徒を もつて居る」



日本橋の水泳場の 遠泳の定番の目的地は
芝区 品川沖(品海)の 御台場 (印)
// 御台場 = 幕末に作られ 使われることのなかった 御砲台場
曲輪(くるわ)の「の」の字の水路の 延長線を成す
日本橋区 浜町芝区 御台場の 間の 10km弱 (直線6km強) の遠泳経路
この遠泳は 新聞の 夏の定番記事でもありました (後述)



...

因みに 東京五輪2020の遠泳(10km) も 御台場で開催予定
// 2021年8月4日(水)早朝6:20-9:10女子10km
// 2021年8月5日(木)早朝6:20-9:10男子10km

但し シートで囲われた海面を六周する「遠くに泳がない遠泳」となる予定です
// 開催当日は 鰡(ボラ)が跳ねる中を泳ぐ様子が放送されていました ...





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(以下 東京の遠泳 関連資料集 (年代順))

江戸時代 水路の整備による 持続可能な居住地の 確保

「利根川東遷」「隅田川上流の遊水地化」
「「の」の字型の水路(曲輪(くるわ))の設置」等の 大規模基盤整備を実施して

日本橋から半径4km(一里=歩いて一時間)の円に収まる
「の」の字型の水路(曲輪(くるわ))内」に
持続可能な居住地として「麹町の山(左)」と「日本橋の町(右)」を 確保

麹町の山と 日本橋の町を支える
遊水地・農地・寺社(墓地)地等の機能を持つ領域を加えた
日本橋から半径8km(二里=歩いて二時間)の円に収まる範囲が 江戸の範囲

江戸の範囲は 下に挙げた
明治-大正-昭和初期の 東京市十五区(桃色部分)の範囲と重なっています
「曲輪内の四区(日本橋から徒歩一時間圏)」と
「曲輪外の十一区(日本橋から徒歩二時間圏)」
「麹町の山(左)」 - 「東京駅」 - 「日本橋の町(右)」 - 「日本橋浜町の水泳場」

// 東京市の周りの郡部(=町村部)は、
// 後の 品川区 渋谷区 新宿区 豊島区 足立区 葛飾区 等々



日本橋浜町辺は
(今日の浜町同様) 魚や水産物を採る場 舟遊びの場であり、
更に 武士の水練の場でもありました

cf.リゾート地としての日本橋浜町辺
1662年の絵本に見る 日本橋浜町の隣接地
日本橋三股の舟遊び (満月の月見 + 楽器演奏 + 花火)


1692年 日本橋浜町対岸の
湊を一望する岬の 南島リゾート風の創作スタジオ
古池(元は日本橋の魚屋さんの生簀)や 芭蕉(バナナ)で知られる「芭蕉庵」の風景

    明月や 角へ さしくる 汐かしら 同(=はせを(芭蕉))

        「汐かしら」は 汐(満ち汐 みちしお)の波頭
        芭蕉庵前の水面は 大潮となる 満月/新月頃には
        江戸時代も 今も 変わらず 6時間で2m程の 水位変動が楽しめます

日本橋と対岸の芭蕉庵を行き来する芭蕉と門人たち、

例えば『炭俵』(1694年刊)序 
此集を撰める 孤屋・野坡・利牛(三人とも日本橋の三井の社員さん)らは、
常に 芭蕉の軒に行かよひ・・・

  三井の利牛さんのうたう「芭蕉庵」前の水辺風景

    もち汐の 橋のひくさよ けふの月 利牛
    (望汐(満月の満ち潮)の 橋の低さよ 今日の月)

       日本橋の町では 大凡 新月の日(一日)+満月の日(十五日)が休日/祭日
        → 芭蕉庵で あるいは水辺に舟を浮かべて 月見の会 等々・・・


以上の描写は 日本橋浜町の水泳場の 水面の描写でもあります




「の」の字型の水路の外側は
遊水地 農地 漁場 寺社地(墓地&リゾート地) 等として 利用されました
遊水地を農地として使用する場合は
水が出ることを前提として 農家には舟が用意されることもありました

// 曲輪内居住者の為の「御墓 + 寺社」の 郊外移転
// 麹町から神田への 神田明神の郊外移転、
// 日本橋から京橋への 本願寺郊外移転等を始め
// 浅草区や芝区等 曲輪外に広がる 遊水地 崖地への 「御墓 + 寺社」の 郊外移転
// cf.四谷区外れの 国立競技場で 187人分の 江戸時代の人骨を 確認



水環境に関しては
江戸-明治-大正時代の東京市内の便所は 基本 汲取式
屎尿は農家の肥料に使われ 原則「水に流される」ことはありませんでした

大森貝塚等で有名なモースは『日本その日その日1』で こう書いています
(1880年頃(明治10年代)の日本を描く 1917出版)
我が国(=米国)で 悪い排水や 不完全な便所
その他に起因するとされている病気の種類は、
日本には無いか、あっても非常にまれであるらしい。
これは すべての排泄物質が 都市から人の手によって運び出され、
そして彼らの農園や水田に
肥料として利用されることに 原因するのかも知れない




明治時代 日本橋浜町で 大学水泳部(東京大学水泳部等)等 発足


□『読売新聞 明治十四(1881)年7月9日』
學習院の生徒ハ 来る十五日より 九月十五日までの 暑中休み中ハ
濱町河岸へ 水泳塲を設けて 游泳(およぎ)を稽古されるといふが
華族様の若様達にハ 水に溺れぬ稽古より 酒食に溺れぬ稽古が肝要



□『読売新聞 明治廿五(1892)年八月廿三日』  (*)廿 = 二十
日本橋区浜町河岸に設置の水泳教場は、
向井流 乃至 水府流 などと称して、四・五ヶ所あり、

昨今は残暑猛烈のためにや、
各教場に頼り游泳するもの頗る多くして、

特に頃日来 游泳者中に 三名の美人あり、
身に緋縮緬の肌着に、半股引きを穿ち、

抜き手を切て中洲まで往復する様は
男子も反ておよばざる程なりなどとの評判高く、

よって両国元町近傍の閑暇人は、
これを観んとて わざわざ浜町河岸まで出懸るもの多しと。



□『読売新聞 明治廿五(1892)年八月廿九日』
遠泳試驗
日本橋區濱町河岸の水府流水術教塲にてハ
昨廿八日 同所より品海まで 遠泳試驗を挙行し
// 品海 = 御台場
當日ハ 打球 及び 西瓜 梨取等の餘興ありたる由



□『読売新聞 明治廿八(1895)年8月23日』
大竹門人の遠潮(ゑんてう)
濱町二丁目大川端の大竹水泳教塲の門人等ハ
去る十四日 例の如く 品川沖まで 遠泳ぎを試みしが
// 品川沖 = 御台場
来會するもの 無慮百餘名ありて 中々盛んの事なりしといふ



□雑誌『風俗画報 第百弐拾弐號』 (明治廿九(1896)年九月十日発行)
(*)明治廿九年(1896)は 第一回近代オリンピック(アテネ大会)が開催された年

今 (日本橋浜町の)向井流の敎授法を記せんに
先ず練習生を 甲 乙 丙 及ひ 班外の 四種に分ち
能く游泳するものを 甲班と奈し
之れに次ぐを 乙班となし
稍々(やや)游泳し得るも 十分監視を要するものを 丙班となし
少しも水に馴れさるものを 班外と奈す

班外の者は敎師自ら手を取りて 淺瀬に於て 之を敎え
稍々(やや)游泳し得るを待ちて 深水に入るを許し
犬掻き、仰き泳等を 敎う
其 班外より 丙班に移るには 大抵一週間を費し
大川を自在に抜切るには 三週間を要す

既に其技に熟すれは
敎師は生徒を率いて 遠泳と云ふを試むることあり
之は 石川島 御臺塲邊の沖合に出てヽ
// 石川島は佃島の堤防として機能している島 御臺塲 = 御台場
醎水(しほみづ)に泳かしめ 其 成蹟を 驗するなり
此 試驗 終れは 敎師は 生徒に 得業證書を與ふるを 例とす といふ



□『読売新聞 明治三十九年(1906)8月19日』

水練塲員の遠泳

日本橋區濱町河岸水練塲の教師なる 土屋、大瀧、斎藤、吉村の四氏 聯合し
生徒四百人に 助教四十人 救助船十二隻と 救命浮袋十個を用意し
本日午前七時の下げ潮を利用して 新大橋を發し
// 新大橋は 濱町河岸の近くの橋
午前十一時 品川第三臺塲に至り休憩し
又 午後三時の上潮にて 同臺塲を發し 午後六時 水練塲着の豫定にて
發着の際は 爆竹、煙火(はなび)を打揚げ
優勝者 數名を 来年度の助教に選抜するよし



□『東京年中行事』下の巻 110頁
若月紫蘭 春陽堂(東京市日本橋區通四丁目五番地) 明治四十四年

水浴場開始(七月一日)

數年來 水泳と云ふことが 盛に行はれて、
七月の始から 隅田川其他付近の海岸に
水泳場を開くものがなかなかに多くなつて來た。

今年も六月十五日から二十七日へかけて
水上署へ其旨を届出でて許されたものが大分あつたが、
試みに其場所と流派を挙げて見ると、

  日本橋濱町一の十一 笹沼流
   同町   ニの十一  永田流
   同          向井流
   同町   一のニ   水府流
   同町   ニの十二  向井流
   同          笹沼流

  本所番場町五十四  向井流
  本所横網町十一   神傅流
   同町   ニの十七  小堀流

かくて七月末になつては、

上は千住大橋から 下は新大橋の上濱町河岸までの間に 十七ヶ所、

就中(なかんづく) 濱町河岸には九ヶ所の水泳教習所有り、

多きは三百人 少きも七八十人の生徒をもつて居る。

  赤頭巾 出没しては 泳ぐ哉 (茅山)
  甘酒や 水泳場の 松の下 (井泉水)
  水練の 師範ゆヽしき 馬術哉 (観魚)
  姉に見よと 弟 浅瀬を 泳ぐ哉 (紅葉)
  千本の 切手 切りたる 疲かな (不二)
  羽衣は 松に 女の泳ぎかな (鶏雨)



大正時代 冒頭の写真は 大正時代の 日本橋区浜町の 写真

明治-大正時代には 郊外への動力交通網が展開し
// 東京市営鉄道(市電) 日本鉄道(山手線) 甲武鉄道(中央線) 自動車道 等
東京市の 「の」の字型の水路に外接する十一区にも 居住地が展開しました

・遊水地 農地に 工場(化学肥料工場等)と 「工場勤務者の居住地」が展開

・交通網整備によって 「の」の字型の水路内に通う「会社員の居住地」が展開

新宿や青山の中高生等も濱町河岸の水練場に通えるようになりました

大正時代の 関東大震災(1923)後の 街作りが 居住地展開に 拍車をかけました

// 関連記事 関東大震災と明治大正昭和通り


大正時代は 汚水処分場の稼働実験が始まった時代ですが、
屎尿に関しては 基本 汲取式で 大部分が農家の肥料に使われ
原則「水に流される」ことはありませんでした

例えば 大正時代初期 農村である 世田谷区の 若者の「東京行」は
直ちに 東京市周縁部の「不浄取(ふじょうとり=屎尿汲取)」を意味しました

『徳冨健次郎 みみずのたはこと』1912
(明治45年/大正元年 出版は大正二年三月)

此辺(荏原郡粕谷村 今日の東京都世田谷区粕谷)の若者は皆「東京行」をする。
此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取」を意味する。

東京を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除」を取る。
// 因みに 東京日本橋から 粕谷村迄は 四里(徒歩四時間)
荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。
荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。

ずッと昔は、細長い肥桶で、馬に四桶附け、人も二桶 担なって 持って来たが、
後、輪の大きい大八車で引く様になり、今は簡易な荷車になった。

彼の村では 方角上 大抵 四谷、赤坂が重(おも)で、
// 粕谷村から 東京郊外の四谷迄 三里(徒歩三時間)
稀には麹町まで出かけるのもある。

弱い者でも桶の四つは引く。
少し力がある若者は、六つ、甚しいのは七つも八つも挽く。

一桶の重量十六貫とすれば、六桶も挽けば百貫からの重荷だ。
あまり重荷を挽くので、若者の内には眼を悪くする者もある。

股引草鞋、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底の帽を阿弥陀にかぶり、
焦茶毛糸の襟巻、中には樺色の麁(あら)い毛糸の手袋をして、
雨天には簑笠姿で、車の心棒に油を入れた竹筒をぶらさげ、

空の肥桶の上に、馬鈴薯、甘薯の二籠三籠、焚付疎朶(そだ)の五把六束、
季節によっては菖蒲や南天小菊の束なぞ上積にした車が、
甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。

午後になると帰って来る。
両腕に力を入れ、前俛(まえかがみ)になって、
揉(もみあげ)に汗の珠(たま)をたらして、重そうに挽いて帰って来る。

上荷には、屋根の修繕に入用のはりがねの二巻三巻、棕櫚縄の十束二十束、
風呂敷かけた遠路籠の中には、子供へみやげの煎餅の袋も入って居よう。

かみさんの頼んだメリンスの前掛も入って居よう。
或は娘の晴着の銘仙も入って居よう。

此辺の女は大抵留守ばかりして居て、
唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。
// 粕谷村から 東京郊外の四谷迄 三里(徒歩三時間)

娘の婚礼着すら男親が買うことになって居る。
「阿爺(おとッ)つぁん、儂(おら)ァ此この縞(しま)ァ嫌(や)ァだ」と、
毎々阿娘(おむす)の苦情が出る。

其等の車が陸続として帰って来る。

東京場末の飯屋に寄る者もあるが、
多くは車を街道に片寄せて置いて、木蔭で麦や稗の弁当をつかう。
夏の日ざかりには、飯を食うたあとで、
杉の木蔭に齁々(ぐうぐう)焉と寝て居る。

荷が重いか、路が悪い時は、弟や妹が中途まで出迎えて、後押して来る。

里道にきれ込むと、砂利も入って居らぬ路はひどくぬかるが、
路が悪い悪いとこぼしつゝ、格別 路をよくしようともせぬ。
其様な暇も金も無いのである。

甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、
馬、車の往来が多いので、時々 肥料車が 怪我をする。
// 東京市外の 新宿から 粕谷村迄 二里(徒歩二時間)

帰りでも晩(おそ)いと、気が気でなく、
無事な顔見るまでは心配でならぬと、村の婆さんが云うた。

水の上を憂うる漁師の妻ばかりではない。
平和な農村にも斯様な行路難(こうろだん)がある。

東京界隈の農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、
東京は如何様どんなに困るだろう。

彼が東京住居をして居た時、ある日隣家となりの御隠居婆さんが、
「一ぱいになってこぼるゝ様になってるものを、
 せっせと来てくれンじゃ困るじゃないか」と
疳癪声(かんしゃくごえ)で百姓を叱る声を聞いた。

其(それ)は権高(けんだか)な 御後室様の怒声よりも、
焦(じ)れた子供の頼無(たよりな)げな
恨めしげな苦情声(くじょうごえ)であった。

大君の御膝下、日本の中枢と威張る東京人も、
子供の様に尿屎(ししばば)のあと始末をしてもらうので、
田舎の保姆(ばあや)の来ようが遅いと、斯様に困ってじれ給うのである。

叱られた百姓は黙って 其 糞尿を掃除して、
それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。

不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る。

「吾父は 農夫なり」と神の愛子は云ったが、
実際 神は 一大農夫で、百姓は 其 型を 無意識にやって居るのである。




以上の様に 大正時代頃迄は 屎尿は 基本 汲取式で
大部分が農家の肥料に使われ 原則「水に流される」ことはありませんでした




(昭和初期 : 廃棄物として「水に流される」ものとなる屎尿 ...)
昭和時代初期 1932(昭和7)
東京市が 隣接五郡を併合 一気に六倍超の面積にバブル化
下の地図の全領域が 昭和時代初期に 東京市に (今日の東京二十三区)
// 郊外線の乗換駅となった 池袋駅 新宿駅 渋谷駅 等々が
// 昭和時代初期に 東京市に 組み込まれました



// 関連記事 東京五輪と 東京市域の人口推移

・遊水地・農地の 工場(化学肥料工場等)化・居住地化
// 近郊農地が市内から遠のき 荷車による遣取が難しくなりました
// → 電車による屎尿運搬や 野菜運搬/直売も 開始されました


大正から昭和にかけての 郊外の 遊水地 崖地 農地等の 宅地開発
// 関東大震災の避難者にも好評な
// 渋谷着の私鉄 東急による 荏原郡(国分寺崖線の田園調布等)開発
// 新宿着の私鉄 西武による 豊多摩郡(妙正寺川沿いの落合) 開発
// 池袋着の私鉄 西武による 北豊島郡(白子川沿いの大泉学園) 開発 等々



・化学肥料(硝酸アンモニウム等)の普及による 屎尿の需要の低下
// 昭和初め頃 肥料消費量(窒素換算量)で 硝酸アンモニウムが 屎尿を抜きました


 → 江戸-明治-大正と持続してきた
   市内 郊外 間の「屎尿と野菜の遣取」が 昭和の初め以降 次第に崩壊へ


持続不可能な開発の進行

市域の拡大に伴う 生活排水や 工場排水の 増大 ...

行き場を失いつつある屎尿を抱える「バブル東京」 ...
東京市の範囲が六倍超に拡大されただけでなく、
戦後 拡大市部の 人口の急増(二倍超)と共に 屎尿量も 更に その 二倍超に ...
// 1945 (昭和20) 終戦 拡大市部人口 400万人
// 1964 (昭和39) 東京五輪 拡大市部人口のピーク 900万人
// 関連記事 東京五輪と東京市域の人口推移

屎尿は 農家による処理から 東京市や 業者による 処理への 移行が進行

屎尿の 山間投棄や 海洋投棄も 増大

1945から1964の人口ピークに向けて 激しくなっていく 水質汚濁

下水道+処理場基盤の設置の努力
// 下水道+処理場設置反対運動への対処も兼ねた
// 金額的機能的に妥当な 「(雨水&屎尿)合流式下水道」の 普及


水質汚濁による 河川のドブ川化への対処も兼ねた
1961年(昭和36年)東京都市計画
河川下水道調査 特別委員会 調査報告書(36答申)の承認に伴う
東京五輪1964前の 河川の暗渠化(下水道化)
// 例えば 日本橋区の例では
// 関東大震災・戦災の瓦礫処理や、 36答申の承認に伴う
// 荷揚用河岸のある 西堀留川 東堀留川、 楓川 浜町川 箱崎川 等の 廃止
// ↓
// 家族を含め 数千人規模の 水上生活の 艀(はしけ)屋さんの 廃業の進行
//  → 跡地の上地には 飛行機乗り場(航空バスのターミナル)等ができ、
//    生き延びた日本橋川の上にも 高速道路が 覆いかぶさりました ...




水質汚濁による 水辺の生活の破壊

東京五輪1964前の東京市の 右肩上がりの 海産物消費と 海産物生産
// 東京市のバブル化に伴う 東京市の海産物消費の増加と
// 水の富栄養化や 海産物処理の機械化等による
// 東京市の水辺における 海産物生産の増加


東京 日本橋の 対岸の漁村 佃島の海苔干場 1961


海産物の生産も消費も好調であるにも関わらず

水質汚濁の進行の為 1964を前に 1962 隅田川河口部の 漁師が 漁業権放棄

日本橋対岸の佃島や その周辺の 漁師達や その子供達も
普通に 働き 生活し 遊ぶ 基盤を 失うことになりました


(隅田川 川開き関連の 行事や 競技も 中止に)
1961を最後に
日本橋区と 浅草区を行き来する 早慶レガッタの中止
日本橋区(西両国)と深川区(東両国)を結ぶ 両国橋の 両国花火の 中止

1964 東京オリンピック
人と水辺を分断するカミソリ堤防の設置
工業排水と 生活排水の 浄化への努力
貯木場や 工場の 東京市の水辺からの撤退や 地方移転

(隅田川 川開き関連の 行事や 競技の 復活 但し 水泳はまだ復活せず)
水辺の浄化に伴う カミソリ堤防の 親水堤防への置き換え
1978
日本橋区と 浅草区を行き来する 早慶レガッタの再開
浅草区(台東区)による 隅田川花火の開始 (両国花火の郊外版)


平成時代 受け継がれる 水泳の復活に向けた 隠れた努力
(水辺の親水化、 五輪会場化による 大雨後の「泳げない水質」の 課題化)

2020五輪招致と 御台場海浜公園

砲台場として使われることのなかった御台場は
遠泳の目的地、貯木場・公園等として利用されてきましたが、
平成時代初期に 親水公園「御台場海浜公園」となりました

多くの人が水に触れることができる 親水公園となることで
大雨後の「泳げない水質」(汚染の指標である大腸菌群数の大幅な増大)が
沿岸部の区の人々の間で ようやく 少しずつ 問題化されるようになり

そのニーズを受けて 研究者の間で その原因についての資料収集や
// 時刻や天気毎の指標の変化データや 雨の日の下水道の観察データ等々
そうしたデータに基づく 地道な研究を推めることも 可能になりました

その結果、雨による 合流式下水道の越流水流入や その沈殿物の巻き上がりが
大雨後の「泳げない水質」の
大きな原因の一つとなっている可能性があることが 明らかとなり

合流式下水道の 改善が 推められるようになりました

// 大正+昭和時代の 「雨水を貯める遊水地の消滅」の進行
// 「屎尿の(屎尿&雨水)合流式下水道を通した処理」の進行により、
// 大雨が降ると、屎尿を流している下水道に 大量の雨水が流入、
// 処理場の処理量を超えた(=晴天時の流量の三倍程度が限界)
// 「屎尿+雨水の合流水」を 川に越流させることで
// 町の浸水を回避するようになりました。
//
// 今日、町の 遊水機能や 汚水処理機能の 増強による
// (屎尿&雨水)合流式下水道の改善が進められています



平成時代後期 御台場海浜公園は
国民的イベントである 2020五輪の トライアスロンや 遠泳の 会場に決まり
大雨後の「泳げない水質」は 国民的な課題となる準備が整いました
// 遠泳は 東京五輪2020では 「マラソンスイミング」というカタカナ名で開催
// 開放水域水泳(open water swimming) の
// マラソン水泳(marathon swimming)
// 或いは 開放水域マラソン水泳(open water marathon swimming)




令和時代

2019年8月 御台場で 五輪の試験競技 開催
2019年8月11日 遠泳 (マラソンスイミング)
2019年8月15日-18日 トライアスロン

糞便性大腸菌群数の増大の為、
トライアスロンの水泳部分が中止になる 等の メディア・イベントを経て

五輪運動のメディア・イベントと
国連「持続可能な開発目標」との連携とも相まって

大雨後の「泳げない水質」は 国民的な 課題としてのデビューを果たしました

その結果として
既設の「合流式下水道(東京拡大市部の下水道の殆どを占める)」の
「分流式下水道」への移行を という 世論さえも 形成されるようになりました

// 「合流式下水道」は 機能的費用的に合理性が高いものの
// 豪雨時に 処理しきれない 屎尿&雨水が
// 御台場に 未処理で流れ出すことがある。
// 「分流式下水道」は 雨水が別立てなので 屎尿が流れにくく
// 二本立てとなることで 費用も余計にかかるが
// 豪雨時に 屎尿&雨水の合流水が
// 御台場に 未処理で流れ出すことはなくなる。





纏め

以上 今日 「泳げないのが普通」と思われている隅田川河口部が

「泳げるのが普通」どころか「水泳のメッカ」で あったこと、

東京五輪1964にかけての 人口急増を経て、

「汚染によって水辺と人間が分断されるという異常事態」が起こったこと、

「汚染で泳げないという異常事態」から 脱する努力が続けられているが、

2019年には 未だに 豪雨時には

「汚染で泳げないままである」ことを 記述しました


一方、東京五輪2020後 2080年には 東京(特別区)の人口は

昭和初期 1935年の東京市の人口 (東京市バブル化前の人口)に 戻り

その後 明治期の人口に 近づいていくことが 予想されています

// 関連記事 東京五輪と 東京市域の人口推移


「汚染で泳げないという異常事態」を生み出した 人口増加の終焉も 追い風に、

多くの人々の 隠れた努力が 実を結んで

この地域で普通に行われてきた 潮干狩りや 御祭の御神輿の海中渡御

水泳等の水遊び等が 再び 夏の風物詩になる日も 近いのかもしれません



(*)おまけ

冒頭の写真は 『季刊大林』(2015年冬号)の表紙

この冊子で提案されているのは

1.分流式下水道の雨水を 川に流さずに 貯水

(江戸時代の曲輪の 大深度地下の曲輪に 貯水 等)

「雨水は 流せば洪水 貯めれば資源」

「東京の水を東京の内部で循環させる」

2.貯水によって生まれた分の水で 地上の水流を復活

(江戸時代同様 玉川上水の水による 外濠・内濠の 水流 等)

3.水上交通網の復活 等々






 

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