心がうまくひとところに収まらなかった。
_海辺のカフカ
気持ちが落ち着かなくて
ソワソワしている時の心の状態が
こんなときあります。
心がうまくひとところに収まらなかった。
_海辺のカフカ
気持ちが落ち着かなくて
ソワソワしている時の心の状態が
こんなときあります。
「少女はなにかについて深く思いをめぐらせているように見える」
村上春樹 「海辺のカフカ」下巻P26
「深く思いをめぐらせる」
この表現がいいなと思う。
読んでいるとたいしたことない表現のようにも思える
ありきたりな容易な言葉にすぎない
私は自分の心のありようや、感じていることをうまく言葉で表現できない。
だからこそ、こうしてうまく説明されている言葉に出会うと、「そう、そういう風に言いたかったんだ」とひとりで合点がいく。
まるで、自分のことをわかってくれる人に出会えたようで嬉しくなる。
「深く思いをめぐらす」
「考える」でもない、「悩む」でもない、「思う」でもない。
「深く思いをめぐらす」
そうなのだ、私も時としてそうやって何かについて考え思いをめぐらせることがある。
その状態をこれまでうまく説明できなかった。
自分のなかに、説明するだけの言葉のストックがなかったのだ。
言葉を入れておく引き出しの中なかには少ない言葉しかなかった。
だからうまく自分のことを説明できずにイライラすることが多かった。
それが、こういう言葉に出会うと、新しいツールを手に入れたようで嬉しくなるのだ。
私が小説を読む理由のひとつは、こういう心や気持ちを説明する言葉に出会うためである。
近くにあった古本屋が閉店した。私より5〜6歳年上だったと思う。28年続けていたそうだ。
小さな商売の閉店は、心に堪える。なぜなら私も小さな商売をしているからだ。
古本屋といえば、年取ってからでもずっとできる商売のように見える。しかし彼も残りの人生を考えたときに、辞めて新しいスタートをきった方がいいと判断したのだろう。
大量の古本は格安で売りつしていたが、残ったものは破棄するというので、私も行って何冊か救ってきた。
その中に昭和49年刊行の夏目漱石の「坊ちゃん」があった。漱石は好きで一時期まとめてよく読んだが、坊ちゃん、吾輩は猫である、三四郎は読んでいなかった。
ふと後ろの年表を見たら、漱石は49歳で死んでいる。ショックだった。今の私の年齢だ。38歳で初の小説「吾輩は猫である」を書いてわずか10年の間に名作を数多く書いて、49歳で死んだのか。
49年しか生きておらず、実質的な小説家としては10年程度しか活動していない。それなのにお札になるぐらい偉大な人物であった。
比べてもしょうがないし、比べること自体おこがましいのはわかっているが、自分は49歳でなにものでもない。この49年はなんの価値もないように感じる。
人の一生とはなんだろう、と考えずにはいられない。
いったい才能とはなんなんだ。同じ人間なんだろうか。そもそも脳の作りにおおきな違いがあるのだろうか。
どうしても内省的になってしまった。
夏目漱石 享年49歳か。