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新しいシネマテークにかける期待1

2020-10-30 12:41:54 | 釜山

新しいシネマテークにかける期待 Ⅰ 

(釜山日報 2011.11.4)

 

本は読者によって完成し、芝居は観客によって完成する。それでは映画は? 言うまでもなく、観客によってだろう。

映画という媒体は、長くとも約2時間以内に起承転結すべてを盛り込んでおり、それに加えて面白さと教訓まである。大変効率のいいメディアと言える。もちろん、映画では何の結論も見い出せず、主人公がただ並木道を歩くシーンで終わるときもあり、あとは観客がその答えを探さなければならず、自分の人生の中で埋めていくしかない。これが映画である。

映画「プール」は、日本の女流監督、荻上直子の「かもめ食堂」「めがね」に続く、心の癒しをテーマにしたシリーズの第3弾である。

 

 

私は土曜日の午後、シネマテークでこの映画を観た。実に静かな映画だった。ブログの書き込みを見ても“起伏の少ない、穏やかな海のような映画”“怖いほど静かな映画”と書かれているほどだ。ナスターシャ・キンスキーの「パリ・テキサス」も静かな映画だが、さすがに最後に一度は爆発がある。しかし、この映画は最後の最後まで静かである。

決して葛藤がないわけではない。最もクライマックスの部分を紹介すれば、この映画の主人公の母親は、夢を見ることをやめられず、幼い子どもを祖母に任せて家を飛び出し、気の向くまま足の向くまま歩き回る。時を経て、その母親不在の幼年時代を送った少女が大学生となったある日、母親のいるタイを訪れ、再会する場面がある。大きな葛藤のシーンであるはずだが、派手な喧嘩のシーンはない。娘と母の対話はこうだ。「私もお母さんと暮らしたかった。ほかの子と同じように。お母さんが本当に恋しかったな」「そう? でも私は自分の好きなことをしながら暮すのが良いと思うわ。」

この会話はまるで「あなたはお昼何を食べる?」「私?私はジャージャー麺」「そう? 私はチャンポンの方が好きだわ」といったような感じだ。大きな声も出さず、静かなやりとりの中に20年間の本音が埋もれていくのである。

 

 

私は、この映画を見ながら観客の「息を殺す音」を聞いた。息を殺す音!あのように静かな映画を観る観客たちは更に静かである。その体験を、私は今も忘れない。

シネマテークとは。私にとって、そこは例えばこんな空間である。

4時間ノーカット、休憩なしで上映された「ワンス·アポン·ア·タイム·イン·アメリカ」を見た後、長蛇の列となった女性用トイレの前で「映画、ちっとも長くなかったよね。」という会話が聞こえる空間。

カップラーメンで空腹を満たしながら一日中マイシートさながら席を独り占めしていると、広安大橋の向こう側が夕焼けで柔らかく染まる。近くのマンションの一軒一軒にぽつりぽつりと明かりが灯り、その明かりがマンション全体を輝かせるその時間まで、シネマテークの仲間たち(約束なしでそこに行けば会える顔なじみの人々)とともにいて、「私たち、よくやるわ」と何度も言い合い、次の作品を楽しみにして別れを告げる空間。

 

 

自転車にずっと乗って降りた後しばらく足元がふわふわしているように、本当に良い作品を見た後、共感したい気持ちが溢れて隣席の他人に笑顔を見せたい衝動にかられる空間。

エンディングのクレジット・タイトルが消えて、真っ暗になっても、誰一人立ったりしない空間。

テーマパークにBGMがなければ寂しいように、映画館に心底それを愛する人がいなければ、そこは「冷凍保存された花園」に過ぎない。シネマテークも映画を愛する観客たちがいるからこそ、そこで人生を捧げて作られた映画が完成するのだ。

 

 

釜山国際映画祭という一つの祝祭によって、映画というジャンルを釜山の中核産業にまで育て上げ、また、文化として享受させてくれたシネマテーク。 私は、このシネマテークを通して韓国第2の都市、映画の都市釜山を丸ごと享受し楽しんでいる。 だから、誰よりも、今度新たに建てられる新しいシネマテークに、大きな期待を抱いている。そこで、もう一度あの、観客たちの「息を殺す音」が聞けることを期待しつつ。

 

釜山日報に投稿した原本(韓国語)

http://news20.busan.com/controller/newsController.jsp?newsId=20111104000130

 

写真提供:釜山広域市



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