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都市の夢

2020-11-16 12:36:45 | 釜山

写真提供:釜山市

 

都市の夢

(釜山日報) 2018. 11. 23

今や、釣りとトレッキング観光の代名詞となっている日本の対馬は、朝鮮王朝·世宗の時代、李従茂(注:朝鮮初期の武臣)が不毛の地であると見向きもされなかった島である。しかしながら、実は農業に適してないだけで、林業と水産業の豊かな自然資源を有する土地である。

 

この島には自然資源のほかに、もう一つ、不毛の地を克服する方法があった。朝鮮との和平、つまり「朝鮮通信使」である。ところが、この朝鮮通信使には公然の秘密があった。12回にわたって往来した平和の使節団·朝鮮通信使は、江戸の徳川幕府から招待を受けて出向く形であったが、文禄慶長の役後のいわゆるる戦後処理の整理がつかず、まだ招待ほどの関係でなかった時、朝鮮からの受け入れを通し、自由な往来を望んだ対馬藩は、名分づくりのため偽の玉璽を押し招待することにしたという。それが3回も続いていたが、ついに幕府に発覚した。

 

対馬藩が「一巻の終わりだ」と思っていた時、幕府側も、平和への念願を、今更巻き戻すことはできないと思った上、和平こそ互いを生かす方法であることを認め黙認したという。そのお陰で、その後の歴史は周知の通り、200年間の平和の時代を謳歌することになる。朝鮮通信使のユネスコ登録を祝う馬記念行事では、彼らのこの歴史を素材にした舞台を、島の住民自ら役者となり公演を行ったのである。当時の対馬の人々のモットーは、「私たちの島は私たちのやり方で守る」だったとか。

 

よく、人口や面積だけで都市の評価をしがちだが、その点においては、下関は、人口27万人の中小都市に過ぎない。しかし、下関は、日本の歴史において非常に重要な舞台であり、1958年には日本列島の本州と九州の海を結ぶ海底トンネルを作り、1973年には、急な潮流で有名な関門海峡に関門橋を建設したのである。この関門海峡は、潮の流れが激しいことで、今日でも、しばしば船舶同士の接触事故が発生する。

 

12世紀頃、天皇の権力をかさに権勢を誇った平氏一族は、同じ武士出身である源氏との最後の戦いに敗れ、日本の平安時代から鎌倉時代を迎える。天皇が治める国から武士が実権を握る幕府の国へと、体制が変わるきっかけとなったのである。

 

この最後の戦いとなった地である下関は、歴史上、再び表舞台に登場する。再び天皇派が実権を握ることとなる明治維新がおこるきっかけとなった舞台がここ下関なのである。統計上の数値だけでは都市を正当に評価できないのである。

 

2018年の「東アジア文化都市」に選定され、韓国と活発な文化交流を行っている金沢は、かつて創造都市の先駆者として国際社会に位置づけられている。

この創造都市の土台をつくった裏には秘話があり、江戸時代、百万石を誇る領土を持つ領主が、日本の天下を分ける大戦に敗れ、その後、彼らの生き残りとしての秘策が「私たちはこれ以上力を蓄え戦争を起こすことはしない」と宣言する誓いのしるしとして文化関連事業に力を注いだのだが、これが、今日のかの有名な「創造都市·金沢」の母体となったのである。

 

詩人·鄭一根の詩にあるように、釜山の人は、ポケットの中にいつも海をしまっておき、いつでもそれを取り出してみることができるのである。釜山の人なら誰しも、海に関する思い出を持ち、海を胸に抱きつつ暮している。

 

都心の中の北港は、再開発事業を通じ新しい姿の海を見せるべく準備をしており、世界の中の新港は、分断国である韓国の南北をつなぐ新たな地図を描きつつ勇壮さを見せている。

山と海と川と共に生きていく大都市·釜山の新しい夢は何か。私が見る夢、あなたが見る夢、各々の夢が集まり分解し、また、融合し、そのように相乗作用をしつつ新たな釜山に生まれ変わることを期待する。

 

(釜山日報 2018.11.23)

http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=20181121000432

 

 



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