一 はじめに
筆者が故江田忠先生について、はじめて言及したのは、二〇一〇年八月に開かれた農村文化ゼミナールにおいてのことで、「置賜民俗学の系譜~江田忠先生と武田正先生を中心に」と題した短い報告を行った。
毎年八月第一土曜日に農村文化研究所主催の農村文化ゼミナールが開催され、神奈川大学の佐野賢治教授が毎回参加される行事も、二〇一五年で二十八回を数えるに至ったが、二〇一〇年の前年までは武田正先生が報告者ないしコメンテーターの常連として活躍されてきた。
ところが、この年、二〇一〇年になって、関東在住のご子息宅に転居されたこともあって、筆者が武田先生の代役を務めることとなり、急遽、上記タイトルの報告を行うことになった。
この頃、筆者は年に数回、韓国を訪問し、全州や富川、釜山などの国際映画祭に足を運びながら、日韓の映画を通した地域活性化に関する調査研究を進めつつあった。その成果の一端は、今春に刊行された「村山民俗」誌上に投稿することができた(注一)。
さて、江田先生は、山形大学工業短期大学部教授を一九七八年に定年退官され、その二年余り後の一九八〇年四月五日に亡くなられた。筆者が、一九八三年十月に山形大学教養部に赴任した際には、この組織は既に工学部Bコースとして再編されており、Bコースの教養教育担当教員は、教養部分室として工学部内に籍を置いておられた。
江田先生は、いわば筆者の大先輩ということになり、残念ながら生前にお会いすることのかなわなかった朝鮮半島研究の先達の研究歴に関心を寄せる契機となったのである。
さらに、今春、たまたま東京の京橋にある国立近代美術館分館フィルムセンターの展示室で開催された企画展「シネマブックの秘かな愉しみ」を見学していたところ、最後のコーナーの地方出版物の中に、江田先生の著書が展示されていたことに感銘を受けた。
映画に関する書物も出版されておられたとあっては、江田先生の学問の全体像を把握することに関心がさらに増大し、本誌の誌面をお借りして、拙文をまとめるに至った次第である。
二 江田忠先生の経歴
江田先生の経歴については、山形大学退官時に編集・発行された『くらしの中の六十五章』の巻末に詳しいが、同書によれば、一九一三年に両親の渡鮮により朝鮮咸鏡北道清津(現在は北朝鮮)にて出生された。
そして、一九三五年に京城帝国大学法文学部史学科卒業、一九三五~一九三七年に京城帝国大学助手、一九三七~一九四五年に京城師範学校教諭・助教授を経て、一九四五年に郷里の米沢へ引き揚げ、以降は米沢東高校教諭、山形県立米沢女子短期大学助教授、山形県教育庁社会教育課成人教育係長、山形大学工業短期大学部助教授・教授、福島女子短期大学教授を歴任された。
京城帝大では、法文学部の助手をされたようで、宗教学・社会学研究室に在籍された朝鮮の宗教・民俗研究で著名な秋葉隆教授・赤松智城教授のもとで、朝鮮半島の民俗文化に関する調査研究にも従事された可能性がある。
ただ、同書巻末の主な業績一覧では、戦前のものとして「宋会要稿本目録について」一九三五年、京城帝大史学会誌、および「功過格にみる中国人の道徳思想」一九四一年、京城帝大学叢、の二本の論文が掲載されているのみで、主要な研究分野は中国思想史であったとも思われ、東洋史学研究室の助手であったのかもしれない。
同書巻頭の「はしがき」では、「東洋史の研究に没頭」と記されており、韓国民俗学の黎明期に詳しい東亜大学教授の崔吉城先生に、おうかがいしたところ、ご存じないとのことで、やはり東洋史学の助手であった可能性のほうが高いかもしれない。
やはり、京城帝大で江田先生より少し後に助手となった故泉靖一先生(戦後に東京大学の文化人類学研究室を創設され、川田順造先生の恩師にあたる)が、戦後に『済州島』と題した朝鮮研究の大著を出版されたことと、江田先生が戦後に京城時代の研究をまとめられることがなかったのは対照的といえようか。
江田先生の場合は、朝鮮からの引き揚げ時に研究資料をほとんど持ち帰ることができなかったために、朝鮮在勤時の研究継続を断念されたと耳にしたことがあった。その情報は前述の農村文化ゼミナールでの報告後のことであったかもしれない。一方の泉靖一先生は、引き揚げ時に卒論の「済州島」とカメラのみを持ち帰られたとのことであった(注二)。
三 江田先生の社会教育学研究と民俗学研究
江田先生の戦後の主たる研究分野は、社会教育学であったといえよう。上述の著書巻末の主な業績中の著書はすべて、この分野に関わるものであり、戦前の東洋史研究から大きく専門分野を切り替えられたのであった。
筆者は、この社会教育学の分野に関しては全くの門外漢であり、適切なコメントを付すことはできかねるが、江田先生の学問において、社会教育学と民俗学とが密接に結びついていたことは間違いない。
江田先生は前近代的な民俗を、戦後の近代的な社会教育の中に取り込むことを目的とされていたといえよう。それは、いわば過去の遺産としての民俗知を、社会教育の場で生かそうとする試みであった。
このことを的確に表現されたのが、大井魁氏の追悼文における「むしろこのようなふるい講集団と新しい社会教育の展開とを有機的に関連づけるのが江田さんの仕事である」という一文であろう(注三)。
県内の民俗学界においても、置賜民俗学会の初代会長として、基礎を築かれたが、この点に関しては、かつて村山民俗学会の野口一雄会長と連名で報告したことがあったので、その一文に譲りたい(注四)。なお、その文中の江田先生に関する記述で不正確な部分が認められるが、本論の記述をもって訂正したい。
置賜民俗学会は江田会長のもとで、精力的な地域調査を展開された。筆者も、平成二五年度国土地理協会研究助成で「山形県置賜地方における中山間地の土地利用の変遷に関する歴史地理学的研究」と題した共同研究を実施したが、その際に、米沢市綱木集落を対象とした置賜民俗学会の調査報告から学ぶところがたいへん大きかった(注五)。
また、映画に関する文章の中にも、社会教育の自説を踏まえた記述が散見するのだが、それについては、次章で詳しく触れることにしたい。
四 江田先生の映画への関心
江田先生が出版された映画関連の著書として、『よねざわ活動寫真ものがたり』一九七二年、および『続 よねざわ活動寫真ものがたり』一九七四年、の二冊があげられる。いずれも、九センチ四方のサイズであり、よねざわ豆本のシリーズとして刊行されたものである(山形県立図書館所蔵)。
まず、前者の目次は、はじめに、1米沢座の活動写真、2駒田好洋の来米、3戦時大活動写真会、4声色付きの活動写真、5明治から大正へ、6大正初期の活動小屋風景、7呼物となった桜島大噴火実況映画、8活動写真利用の宣伝、9常設館の誕生、10活動写真興行界の三巴戦、11活動写真興行への批判、12活動写真取締案、13米織女工の活動写真観覧禁止、あとがき、著者略歴、となっている。
また、後者の目次は、1大正六年の大火と活動写真興行、2常設館の復興、3活動写真宣伝の新趣向、4活弁評判記、5大正八年の大火と慈善興行、6「イントレランス」の上映、7尾上松之助の来演、8場内禁煙、9「キネマカラー」の上映、10国勢調査宣伝と活動写真、11活動写真利用の科学講演会、12国活直営館の出現、13活弁集団、14松竹キネマの進出、15活動写真時代から映画時代へ、あとがき、挿絵を描いて、著者略歴、となっている。
前者の「はじめに」によれば、当時、江田先生は米沢映画鑑賞会の会長を務めておられ、月一回発行されていた機関紙「映画鑑賞」のフロントに毎号書き続けてきた文章をまとめたものだそうである。
米沢市立図書館に所蔵されている「米沢新聞」で、米織女工を調べているうちに、映画に関する記事が目に付いたのだそうで、いわば女性の社会教育をめぐる調査研究の副産物ともいえよう。
また、一八九五年末に、フランスのリュミエール兄弟が映画(シネマトグラフ)を発明した後、早くも一八九九年夏に米沢座でシネマトグラフが上映されたことや、一九一四年一月一二日の鹿児島県桜島の爆発後まもない二月一六日から三日間、この映像が上映されたことなどの記述を興味深く拝読した。
さらに、米織女工との関連では、弁士との関わりから、一九一七年から一年間余り、女工の映画館への出入りが禁止され、その後に条件付きで解除されたというエピソードは、当時の世相を反映しており、米沢ならではの映画史といえよう。
そして、後者では、一九一七年の舞鶴座の開館時に、尾上松之助主演の「忠臣蔵」(一九一〇年に制作された牧野省三監督作品で日本初の長編映画)が上映されたが、米沢における忠臣蔵タブーについて「この頃にはそんなタブーもなかったのであろう」と述べておられる。
この記述は、江田先生の民俗学に関する見解を提示しているものとも思われる。すなわち、古い時代から変わらずに継承されてきたと信じられてきた民俗事例が意外と後世に生み出された場合があるということを示唆しているのではなかろうか。
一方、一九二〇年の米沢高等工業学校(戦後の山形大学工学部の前身)創立十周年記念として、科学映画が上映され、在校生が説明したとのことであるが、上映作品は「ウドンの製造」や「結晶」に加え、「ヒコウキ」や「近代戦争武器」といったタイトルが見受けられることにも、当時の世相が反映しており、興味深い。
最後の「あとがき」では、一九二三年の関東大震災で、いったんは京都に映画制作の場が移るが、一九三一年のトーキー発表までが、無声映画の完成期であると述べ、その前史としての地方都市の事例に関する記述であることを記して、締めくくられている。
次に、江田先生の映画への関心を物語る文章として、戦後の米沢新聞に連載されたコラム「こけしのささやき」の中に含まれているものを拾い出したので、簡単に紹介したい。このコラムは、一九五〇年から一九五九年まで紙面に欠かさず連載されたもので、江田先生の十三回忌にあたって復刻出版された(注六)。
まず、一九五一年のコラムでは、米沢市・山形市ともに映画館は六館あったが、一日の入場者は米沢が二百人に対して、山形は六百人であること、また入場料は八十円で、うち四十円が入場税であることが記されている。
また、一九五二年のコラムでは、映画「カーネギーホール」上映に際して、米沢の映画館グリーンハウスが当時としては異例の入れ替え制としたので、ゆっくり鑑賞できたと記されている。その頃は、いつでも入場できるのが普通であったのだ。
そして、一九五三年には、入場税が十割から五割になったが、前売り券がなくなり、かえって高くなったとの指摘がある。前売り券は日本独自のシステムで、そのために正確な入場者数が把握できないとも言われている(ちなみに、韓国では毎週、作品ごとの入場者数が公表されている)。
また、この頃から、テレビ放送にも注目されるようになり、テレビスターなるものがあらわれてくるという記述は、まさに先見の明といえよう。その後も、度々、テレビに関する言及が散見する。テレビの普及で、映画はシネマスコープが多くなり、映画の質を向上させたとの記述もみられる。
一方、米沢では洋画の上映が少なく、洋画と邦画を比較することで、鑑賞眼が高められると記されている。また、文化映画は資金不足だが、世界水準であるために、映画館で短編の文化映画や教育映画を積極的に上映すべきとの指摘もみられる。
ところで、二十一世紀に入る頃から、3D映画が相次いで公開されるようになったが、この当時既に偏光メガネで見る「立体映画」が存在していたことには驚かされた。後の一九五九年のコラムでは「においの出る映画」にも言及されており、まさに最近はやりの4DX体感型上映の先取りといえようか。
一九五四年に入ると、入場税が地方税から国税になり、六十円に五割の税で九十円だったものが、二割の税になって、六十円に十二円の税と値下げになるのか、と記されているが、事実は不明である。また、当時は映画館の収入の七割がフィルム代として吸い上げられるために、映画館の経営が苦しいことが指摘されている(近年はほぼ五割とされる)。
教育映画祭で最高賞を得た作品を、文部省が非選定としたことを批判的に紹介されておられ、翌一九五五年には、文部省教育映画等審査分科審議会が松竹の仇討ち映画を成人・家族向けに選定したことも批判され、日活映画「月夜の傘」が選定を返上したことを皮肉っぽく紹介される一方で、教材映画を成人教育として親たちにも見せる必要があることを指摘されている。
一九五六年には、当時に流行した「太陽族」映画を教育面から批判され、一九五七年には米沢市の小中学校に映写機が一台づつ配置されていることを記し、文部省が月に二回、映画館で日曜の午前に教育映画を上映する施策を紹介している。
一九五八年には、テレビと映画の大勢は既に決したと記すが、実は、この年が映画館入場者数のピークであったのであり、先と同じく先見の明である。当時は国民一人が年に十二回映画を見たことになるのだが、近年は年間二回にも満たない水準である。
一九五九年には、今年前半期の日本映画制作本数が二八〇本で、アメリカの一年分より多いことが指摘されるが、一貫して邦画は大半が愚劣で、そうした映画ほど国内で商品価値が高いことを嘆いておられる。その指摘は現在の日本映画にも、そのままあてはまるのではなかろうか。
六 おわりに
江田先生の著作の中から、個人的関心のおもむくままに書き連ねてきたが、戦前の朝鮮在住時代を回顧するものは、けっして多くはなく、とりわけ、研究生活に関する記述はほとんどみられない。
それは、引き揚げ時に、たいへんな苦労をされたようで、ご両親とご長女は北朝鮮から、江田先生のご家族はソウルから別々に引き揚げられ、しかもご尊父は引き揚げの途中で病没され、ご母堂も引き揚げ後まもなく逝去されたという。
さらに、引き揚げ直後は、江田先生は米沢で単身生活を、ご家族は会津若松で暮らされていたそうで、山形大学に赴任された理由のひとつに、官舎に住むことができ、家の問題から解放されることがあったそうである。
また、『こけしのささやき』の略歴から、米沢映画教育研究会の会長であったことに加えて、詩吟を趣味とされ、一九三九年に早くも、第一回全朝鮮吟詠コンクールで優勝されたことと山形県吟詠研究会の会長であったことを知った。
以上、江田先生の学問について、私的関心から出発した記述にすぎないが、誤解曲解が含まれていれば、筆者の責任であり、忌憚のないご批判をいただければ幸いである。
[付記]本稿を成すにあたっては、山形大学教養部の先輩であり、かつて江田先生と同僚であった山形大学名誉教授早川正信先生、および農村文化研究所から、資料の提供をいただいたことを明記して感謝いたします。
注
一 拙稿「映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-」村山民俗二九号、二〇一五年七月。
二 泉貴美子『泉靖一と共に』芙蓉書房、一九七二年九月。
三 大井魁「江田忠先生の学風を偲ぶ」米沢文化十一号、一九八一年五月。
四 拙稿「山形県民俗(学)研究の歩みー各地域民俗研究団体の発足と諸先学」
(野口一雄と分担執筆)『第三〇回東北地方民俗学合同研究会 予稿集 各県民俗学の始まりと今』二〇一三年一一月。
五 国土地理協会サイト「過去の学術研究助成の実績」のPDFファイル参照。
六 江田忠『こけしのささやき 米沢新聞連載コラム集(上・下)』一九九二年四月(山形大学工学部図書館所蔵)。
筆者が故江田忠先生について、はじめて言及したのは、二〇一〇年八月に開かれた農村文化ゼミナールにおいてのことで、「置賜民俗学の系譜~江田忠先生と武田正先生を中心に」と題した短い報告を行った。
毎年八月第一土曜日に農村文化研究所主催の農村文化ゼミナールが開催され、神奈川大学の佐野賢治教授が毎回参加される行事も、二〇一五年で二十八回を数えるに至ったが、二〇一〇年の前年までは武田正先生が報告者ないしコメンテーターの常連として活躍されてきた。
ところが、この年、二〇一〇年になって、関東在住のご子息宅に転居されたこともあって、筆者が武田先生の代役を務めることとなり、急遽、上記タイトルの報告を行うことになった。
この頃、筆者は年に数回、韓国を訪問し、全州や富川、釜山などの国際映画祭に足を運びながら、日韓の映画を通した地域活性化に関する調査研究を進めつつあった。その成果の一端は、今春に刊行された「村山民俗」誌上に投稿することができた(注一)。
さて、江田先生は、山形大学工業短期大学部教授を一九七八年に定年退官され、その二年余り後の一九八〇年四月五日に亡くなられた。筆者が、一九八三年十月に山形大学教養部に赴任した際には、この組織は既に工学部Bコースとして再編されており、Bコースの教養教育担当教員は、教養部分室として工学部内に籍を置いておられた。
江田先生は、いわば筆者の大先輩ということになり、残念ながら生前にお会いすることのかなわなかった朝鮮半島研究の先達の研究歴に関心を寄せる契機となったのである。
さらに、今春、たまたま東京の京橋にある国立近代美術館分館フィルムセンターの展示室で開催された企画展「シネマブックの秘かな愉しみ」を見学していたところ、最後のコーナーの地方出版物の中に、江田先生の著書が展示されていたことに感銘を受けた。
映画に関する書物も出版されておられたとあっては、江田先生の学問の全体像を把握することに関心がさらに増大し、本誌の誌面をお借りして、拙文をまとめるに至った次第である。
二 江田忠先生の経歴
江田先生の経歴については、山形大学退官時に編集・発行された『くらしの中の六十五章』の巻末に詳しいが、同書によれば、一九一三年に両親の渡鮮により朝鮮咸鏡北道清津(現在は北朝鮮)にて出生された。
そして、一九三五年に京城帝国大学法文学部史学科卒業、一九三五~一九三七年に京城帝国大学助手、一九三七~一九四五年に京城師範学校教諭・助教授を経て、一九四五年に郷里の米沢へ引き揚げ、以降は米沢東高校教諭、山形県立米沢女子短期大学助教授、山形県教育庁社会教育課成人教育係長、山形大学工業短期大学部助教授・教授、福島女子短期大学教授を歴任された。
京城帝大では、法文学部の助手をされたようで、宗教学・社会学研究室に在籍された朝鮮の宗教・民俗研究で著名な秋葉隆教授・赤松智城教授のもとで、朝鮮半島の民俗文化に関する調査研究にも従事された可能性がある。
ただ、同書巻末の主な業績一覧では、戦前のものとして「宋会要稿本目録について」一九三五年、京城帝大史学会誌、および「功過格にみる中国人の道徳思想」一九四一年、京城帝大学叢、の二本の論文が掲載されているのみで、主要な研究分野は中国思想史であったとも思われ、東洋史学研究室の助手であったのかもしれない。
同書巻頭の「はしがき」では、「東洋史の研究に没頭」と記されており、韓国民俗学の黎明期に詳しい東亜大学教授の崔吉城先生に、おうかがいしたところ、ご存じないとのことで、やはり東洋史学の助手であった可能性のほうが高いかもしれない。
やはり、京城帝大で江田先生より少し後に助手となった故泉靖一先生(戦後に東京大学の文化人類学研究室を創設され、川田順造先生の恩師にあたる)が、戦後に『済州島』と題した朝鮮研究の大著を出版されたことと、江田先生が戦後に京城時代の研究をまとめられることがなかったのは対照的といえようか。
江田先生の場合は、朝鮮からの引き揚げ時に研究資料をほとんど持ち帰ることができなかったために、朝鮮在勤時の研究継続を断念されたと耳にしたことがあった。その情報は前述の農村文化ゼミナールでの報告後のことであったかもしれない。一方の泉靖一先生は、引き揚げ時に卒論の「済州島」とカメラのみを持ち帰られたとのことであった(注二)。
三 江田先生の社会教育学研究と民俗学研究
江田先生の戦後の主たる研究分野は、社会教育学であったといえよう。上述の著書巻末の主な業績中の著書はすべて、この分野に関わるものであり、戦前の東洋史研究から大きく専門分野を切り替えられたのであった。
筆者は、この社会教育学の分野に関しては全くの門外漢であり、適切なコメントを付すことはできかねるが、江田先生の学問において、社会教育学と民俗学とが密接に結びついていたことは間違いない。
江田先生は前近代的な民俗を、戦後の近代的な社会教育の中に取り込むことを目的とされていたといえよう。それは、いわば過去の遺産としての民俗知を、社会教育の場で生かそうとする試みであった。
このことを的確に表現されたのが、大井魁氏の追悼文における「むしろこのようなふるい講集団と新しい社会教育の展開とを有機的に関連づけるのが江田さんの仕事である」という一文であろう(注三)。
県内の民俗学界においても、置賜民俗学会の初代会長として、基礎を築かれたが、この点に関しては、かつて村山民俗学会の野口一雄会長と連名で報告したことがあったので、その一文に譲りたい(注四)。なお、その文中の江田先生に関する記述で不正確な部分が認められるが、本論の記述をもって訂正したい。
置賜民俗学会は江田会長のもとで、精力的な地域調査を展開された。筆者も、平成二五年度国土地理協会研究助成で「山形県置賜地方における中山間地の土地利用の変遷に関する歴史地理学的研究」と題した共同研究を実施したが、その際に、米沢市綱木集落を対象とした置賜民俗学会の調査報告から学ぶところがたいへん大きかった(注五)。
また、映画に関する文章の中にも、社会教育の自説を踏まえた記述が散見するのだが、それについては、次章で詳しく触れることにしたい。
四 江田先生の映画への関心
江田先生が出版された映画関連の著書として、『よねざわ活動寫真ものがたり』一九七二年、および『続 よねざわ活動寫真ものがたり』一九七四年、の二冊があげられる。いずれも、九センチ四方のサイズであり、よねざわ豆本のシリーズとして刊行されたものである(山形県立図書館所蔵)。
まず、前者の目次は、はじめに、1米沢座の活動写真、2駒田好洋の来米、3戦時大活動写真会、4声色付きの活動写真、5明治から大正へ、6大正初期の活動小屋風景、7呼物となった桜島大噴火実況映画、8活動写真利用の宣伝、9常設館の誕生、10活動写真興行界の三巴戦、11活動写真興行への批判、12活動写真取締案、13米織女工の活動写真観覧禁止、あとがき、著者略歴、となっている。
また、後者の目次は、1大正六年の大火と活動写真興行、2常設館の復興、3活動写真宣伝の新趣向、4活弁評判記、5大正八年の大火と慈善興行、6「イントレランス」の上映、7尾上松之助の来演、8場内禁煙、9「キネマカラー」の上映、10国勢調査宣伝と活動写真、11活動写真利用の科学講演会、12国活直営館の出現、13活弁集団、14松竹キネマの進出、15活動写真時代から映画時代へ、あとがき、挿絵を描いて、著者略歴、となっている。
前者の「はじめに」によれば、当時、江田先生は米沢映画鑑賞会の会長を務めておられ、月一回発行されていた機関紙「映画鑑賞」のフロントに毎号書き続けてきた文章をまとめたものだそうである。
米沢市立図書館に所蔵されている「米沢新聞」で、米織女工を調べているうちに、映画に関する記事が目に付いたのだそうで、いわば女性の社会教育をめぐる調査研究の副産物ともいえよう。
また、一八九五年末に、フランスのリュミエール兄弟が映画(シネマトグラフ)を発明した後、早くも一八九九年夏に米沢座でシネマトグラフが上映されたことや、一九一四年一月一二日の鹿児島県桜島の爆発後まもない二月一六日から三日間、この映像が上映されたことなどの記述を興味深く拝読した。
さらに、米織女工との関連では、弁士との関わりから、一九一七年から一年間余り、女工の映画館への出入りが禁止され、その後に条件付きで解除されたというエピソードは、当時の世相を反映しており、米沢ならではの映画史といえよう。
そして、後者では、一九一七年の舞鶴座の開館時に、尾上松之助主演の「忠臣蔵」(一九一〇年に制作された牧野省三監督作品で日本初の長編映画)が上映されたが、米沢における忠臣蔵タブーについて「この頃にはそんなタブーもなかったのであろう」と述べておられる。
この記述は、江田先生の民俗学に関する見解を提示しているものとも思われる。すなわち、古い時代から変わらずに継承されてきたと信じられてきた民俗事例が意外と後世に生み出された場合があるということを示唆しているのではなかろうか。
一方、一九二〇年の米沢高等工業学校(戦後の山形大学工学部の前身)創立十周年記念として、科学映画が上映され、在校生が説明したとのことであるが、上映作品は「ウドンの製造」や「結晶」に加え、「ヒコウキ」や「近代戦争武器」といったタイトルが見受けられることにも、当時の世相が反映しており、興味深い。
最後の「あとがき」では、一九二三年の関東大震災で、いったんは京都に映画制作の場が移るが、一九三一年のトーキー発表までが、無声映画の完成期であると述べ、その前史としての地方都市の事例に関する記述であることを記して、締めくくられている。
次に、江田先生の映画への関心を物語る文章として、戦後の米沢新聞に連載されたコラム「こけしのささやき」の中に含まれているものを拾い出したので、簡単に紹介したい。このコラムは、一九五〇年から一九五九年まで紙面に欠かさず連載されたもので、江田先生の十三回忌にあたって復刻出版された(注六)。
まず、一九五一年のコラムでは、米沢市・山形市ともに映画館は六館あったが、一日の入場者は米沢が二百人に対して、山形は六百人であること、また入場料は八十円で、うち四十円が入場税であることが記されている。
また、一九五二年のコラムでは、映画「カーネギーホール」上映に際して、米沢の映画館グリーンハウスが当時としては異例の入れ替え制としたので、ゆっくり鑑賞できたと記されている。その頃は、いつでも入場できるのが普通であったのだ。
そして、一九五三年には、入場税が十割から五割になったが、前売り券がなくなり、かえって高くなったとの指摘がある。前売り券は日本独自のシステムで、そのために正確な入場者数が把握できないとも言われている(ちなみに、韓国では毎週、作品ごとの入場者数が公表されている)。
また、この頃から、テレビ放送にも注目されるようになり、テレビスターなるものがあらわれてくるという記述は、まさに先見の明といえよう。その後も、度々、テレビに関する言及が散見する。テレビの普及で、映画はシネマスコープが多くなり、映画の質を向上させたとの記述もみられる。
一方、米沢では洋画の上映が少なく、洋画と邦画を比較することで、鑑賞眼が高められると記されている。また、文化映画は資金不足だが、世界水準であるために、映画館で短編の文化映画や教育映画を積極的に上映すべきとの指摘もみられる。
ところで、二十一世紀に入る頃から、3D映画が相次いで公開されるようになったが、この当時既に偏光メガネで見る「立体映画」が存在していたことには驚かされた。後の一九五九年のコラムでは「においの出る映画」にも言及されており、まさに最近はやりの4DX体感型上映の先取りといえようか。
一九五四年に入ると、入場税が地方税から国税になり、六十円に五割の税で九十円だったものが、二割の税になって、六十円に十二円の税と値下げになるのか、と記されているが、事実は不明である。また、当時は映画館の収入の七割がフィルム代として吸い上げられるために、映画館の経営が苦しいことが指摘されている(近年はほぼ五割とされる)。
教育映画祭で最高賞を得た作品を、文部省が非選定としたことを批判的に紹介されておられ、翌一九五五年には、文部省教育映画等審査分科審議会が松竹の仇討ち映画を成人・家族向けに選定したことも批判され、日活映画「月夜の傘」が選定を返上したことを皮肉っぽく紹介される一方で、教材映画を成人教育として親たちにも見せる必要があることを指摘されている。
一九五六年には、当時に流行した「太陽族」映画を教育面から批判され、一九五七年には米沢市の小中学校に映写機が一台づつ配置されていることを記し、文部省が月に二回、映画館で日曜の午前に教育映画を上映する施策を紹介している。
一九五八年には、テレビと映画の大勢は既に決したと記すが、実は、この年が映画館入場者数のピークであったのであり、先と同じく先見の明である。当時は国民一人が年に十二回映画を見たことになるのだが、近年は年間二回にも満たない水準である。
一九五九年には、今年前半期の日本映画制作本数が二八〇本で、アメリカの一年分より多いことが指摘されるが、一貫して邦画は大半が愚劣で、そうした映画ほど国内で商品価値が高いことを嘆いておられる。その指摘は現在の日本映画にも、そのままあてはまるのではなかろうか。
六 おわりに
江田先生の著作の中から、個人的関心のおもむくままに書き連ねてきたが、戦前の朝鮮在住時代を回顧するものは、けっして多くはなく、とりわけ、研究生活に関する記述はほとんどみられない。
それは、引き揚げ時に、たいへんな苦労をされたようで、ご両親とご長女は北朝鮮から、江田先生のご家族はソウルから別々に引き揚げられ、しかもご尊父は引き揚げの途中で病没され、ご母堂も引き揚げ後まもなく逝去されたという。
さらに、引き揚げ直後は、江田先生は米沢で単身生活を、ご家族は会津若松で暮らされていたそうで、山形大学に赴任された理由のひとつに、官舎に住むことができ、家の問題から解放されることがあったそうである。
また、『こけしのささやき』の略歴から、米沢映画教育研究会の会長であったことに加えて、詩吟を趣味とされ、一九三九年に早くも、第一回全朝鮮吟詠コンクールで優勝されたことと山形県吟詠研究会の会長であったことを知った。
以上、江田先生の学問について、私的関心から出発した記述にすぎないが、誤解曲解が含まれていれば、筆者の責任であり、忌憚のないご批判をいただければ幸いである。
[付記]本稿を成すにあたっては、山形大学教養部の先輩であり、かつて江田先生と同僚であった山形大学名誉教授早川正信先生、および農村文化研究所から、資料の提供をいただいたことを明記して感謝いたします。
注
一 拙稿「映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-」村山民俗二九号、二〇一五年七月。
二 泉貴美子『泉靖一と共に』芙蓉書房、一九七二年九月。
三 大井魁「江田忠先生の学風を偲ぶ」米沢文化十一号、一九八一年五月。
四 拙稿「山形県民俗(学)研究の歩みー各地域民俗研究団体の発足と諸先学」
(野口一雄と分担執筆)『第三〇回東北地方民俗学合同研究会 予稿集 各県民俗学の始まりと今』二〇一三年一一月。
五 国土地理協会サイト「過去の学術研究助成の実績」のPDFファイル参照。
六 江田忠『こけしのささやき 米沢新聞連載コラム集(上・下)』一九九二年四月(山形大学工学部図書館所蔵)。