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山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

2005年10月の日記

2012年02月29日 | 日記
2005年10月04日

「一関市本寺地区における信仰碑」
 本寺地区には、数多くの信仰に関わる石碑が分布している。これらの中には、他地域の神仏を祀った石碑もみられる。
 たとえば、月山・羽黒山・湯殿山の文字を刻んだ「出羽三山」碑をあげることができる。山形県のほぼ中央部に位置する月山を中心とする出羽三山信仰は東日本に広く拡がっており、とりわけ東北地方には羽黒山伏が中世から存在し、その信仰を布教していた。
 近世になると、村々に講と呼ばれる信仰集団が組織され、冬場には出羽三山の山伏が村々を訪れて、布教のためにお札を配ったり、占いや加持祈祷(お払い)を行ったりした。夏になると出羽三山参りに代表者を派遣した。代表者を派遣する形の講を代参講と称した。つまり、遠距離の霊山に講の全員が毎年お参りすることは不可能であるため、くじ引きなどで代表者を選んで順番に交代で参詣にでかけたのであった。たとえば、40軒の講集団があったとすると、毎年2軒づつ派遣すれば20年で全戸から参詣にでかけたことになる。講集団の全員が参詣を終えたことを記念して、石碑が建立されることが多かったといわれ、今に残る「出羽三山」碑は、かつて本寺地区に出羽三山信仰の講が存在したことを物語る石像物なのである。
 遠距離にある霊山の信仰碑としては、その他に古峰山の石碑もみられる。栃木県にある古峰山は、日光山信仰に関わる霊山で、とりわけ火伏せ(火災予防)の神として信仰された。
 また、慈恵塚の付近に、若木山(おさなぎやま)の石碑があるが、この若木山は、山形県東根市にあり、疱瘡(天然痘)神として知られていた。かつて、慈恵塚付近は骨寺村への入り口にあたり、若木山碑は、いわば村境に祀られた石碑と考えられる。つまり、道祖神と同じように、村の中に疫病などの悪いものが侵入してくることを防ぐための意味を持っていたのであろう。
 さて、本寺地区にみられる信仰碑の中で、圧倒的に多いのは馬頭観音碑である。そこで、以下では、なぜ本寺地区に、たくさんの馬頭観音碑が分布しているのかを述べてみよう。
 本寺地区では、今も牛の牧畜は盛んに行われているが、かつては牛よりも馬の飼育が盛んであった。その馬が無事に成長することを祈願する守り神が馬頭観音であった。そもそも、馬頭観音は邪悪を踏み砕き、衆生の苦しみを救う異形の菩薩であるが、頭上に馬頭をいただく姿から、馬の守護神としても信仰を集めてきた。また、馬櫪神は、馬頭観音よりも古い馬の守護神といわれ、馬櫪とは馬糧桶のことで、それに馬の心霊が宿るとされた。
 そもそも、北東北、特に岩手県北部から青森県にかけての旧南部藩領は馬産地として古来有名であり、なかでも北上山地では馬の飼育が盛んに行われていた。今も遠野市などに残る「南部の曲がり屋」は、住居と馬小屋が合体したL字形の民家として知られている。
 古代から、南部馬は都にもたらされ、源平の合戦として有名な宇治川の先陣争いで活躍した騎馬も南部馬であった。とりわけ奥州糠部郡(岩手県北から青森県下北にかけての地域)で生産された馬は、「糠部の駿馬(ぬかのぶのしゅんめ)」として、中世には鎌倉武士や京の都で高い評価を受けていた。
 本寺地区で、馬の飼育が盛んになったのは明治時代に入ってからともいわれるが、馬頭観音碑の年号からも、それが裏付けられる。石像物調査によって判明した馬頭観音碑の年号は、明治9年、明治11年、明治17年、明治26年、明治40年となっており、馬櫪神碑も明治26年と昭和16年のものが確認されている。これらの建立年代からみても、本寺地区が馬産地として確立したのは、明治時代以降のことであろう。
 また、明治40年建立の馬頭観音碑は、陸光号の墓石を兼ねており、5月17日の日付が刻まれている。この時期は、日露戦争の直後であり、想像するに、この陸光号は日露戦争で活躍した軍馬だったのではないだろうか。実は、明治時代に入って、馬の飼育が本格化するのは、日本の富国強兵政策と対応している。おそらく、軍備増強にともなう軍馬の需要が本寺地区を馬産地に成長させたのであろう。本寺地区で、馬の飼育が衰退に向かうのもまた、第二次大戦の敗戦を契機にするものと考えられ、馬頭観音碑と馬櫪神碑も、戦後の建立はみられなくなってしまった。このように、本寺地区における馬の飼育は、時代の流れとともに盛衰の道をたどったのであった。
 また、馬頭観音碑と馬櫪神碑は、駒形神社付近に集中して分布しているが、これらの中には元の場所から移動したと伝えられる石碑も含まれ、道路工事などで石碑を移動させる際に、馬の守護神の信仰も含まれる駒形神社に集められたものと思われる。駒形神社と関わる栗駒山の信仰については、既に「山形民俗」16号に拙稿を記した。
 なお、本寺地区で信仰されている馬頭観音は、山形県最上町の富山観音であるといい、富山観音には明治33年に小猪岡地区から奉納された絵馬が現存する。一関市舞草・宮城県東和町鱒淵・山形県最上町富山を奥羽三大馬頭観音と呼ぶが、本寺地区の馬頭観音信仰が、距離的に近い北上川対岸の舞草ではなく、山形の富山観音であることは、栗駒山系の広がりの中で理解すべきであり、山伝いに展開した文化的交流の深さを示すものといえよう。
 本寺地区に残存する石像物をみると、近世と近代でかなりの差異があることに気が付く。
 すなわち、江戸時代の石像物には、「南無阿弥陀仏」や「庚申」、「巳巳供養」などの仏教的色彩の強いものが、かなり多く見受けられる。「南無阿弥陀仏」の石像物は寛政や享保の年号がみられ、大飢饉の後年のものも多く、大飢饉で亡くなった死者の霊を弔うための造立かもしれない。
 また、庚申と巳待ちは、いわゆる日待ち・月待ちの行事であり、庚申の夜に籠もるのが庚申待ちで、巳の日に籠もるのが巳待ちであった。
 それに対して、近代の明治以降の石像物は神道系のものが多くみられる。出羽三山碑は、当地では明治以降の神道になってからの時代のものしかみられない。古峯神社の石碑もいくつかみられるが、古峯信仰は火伏せの神様として知られ、近代に栃木県の日光山信仰から分かれたものである。
 また、「馬頭観世音」と「馬櫪神」とは神仏が入り交じってはいるが、いずれの石碑も明治以降のものがほとんどである。
 なお、幕末から近代にかけて造立された石碑に「行山鹿子踊供養」がある。この行山とは、南三陸の宮城県本吉町にある行山寺の流れを汲むものといわれ、戦前までは当地で行山鹿子踊が行われていたという。おそらくは、戦時体制下で消滅したのであろうか。
 さらに、いくつかの雷神碑もみられるが、岩手県南では落雷した場所に石碑や小祠を祀り、雷神さまと称する。雷神様は火の神でもあり、水の神でもある。それを雲南さまと呼ぶところもあり、あるいは骨寺絵図にみえる宇那根社とも関わりがあるのかもしれない。
 最後に、明神碑も相当数が存在する。当地に多くみられる明神は屋敷神で、家の西側に祀り、西に木を植えることを明神グラと称し、エグネとも呼ぶ。この明神は三十三回忌をつとめあげた祖霊神である。
 なお、先に触れた若木山の石碑について、調査を担当された国学院大学の大塚統子氏より次のような連絡をいただいた。本寺の若木大権現碑の年代は安政5年とのことだが、それに加えて、平成8年12月12日の阿部四郎氏「須川山麓厳美町の石碑について」という講演の添付資料、「厳美(町)地区、別供養碑」(1979.6.2)に碑銘「若木山大権現」が厳美(本寺・山谷地区ではない)に1基あり、同添付資料「厳美地区年代別供養碑表」(1979.6.2現在)で、その若木の碑1基は文化年間に区分されているという。この厳美地区は、本寺地区の下流にあたる。
 ところで、駒形神社は本寺の鎮守であり、元来は馬頭観音を祀る堂舎であったのだろうか、今も村人からは「観音様」と親しまれている。駒形神社の祭礼は3月17日、6月17日と9月17日で、駒形の別当の寺崎と山谷の神官とで、お天王さま回しをする。 白山社は駒形神社の背後の平泉野にある小祠であるが、足尾と金神も合祀されているといい、3月17日と9月17日が祭礼日である。白山は歯痛の神でもある。中屋敷の裏の「レイ田」は、米を駒形と白山に奉納する。林崎が白山の別当で、中屋敷は山王の別当である。
 本寺のすぐ北に位置する三吉山の山頂に祀られる三吉さまは、秋田県から来た神様で、3月17日にお祭りをする。「鉄の編み笠」が奉納されており、5升の餅とお酒を供え、足がじょうぶになるようにお祈りするという。
 若神子社は祭神などはよくわからないが、塚バス停そばの二軒が別当である。若神子には、昔、尼寺があって「どくろ」伝説があったという。大石直正氏によれば、「ワカ」も「ミコ」も奥羽では巫女を指すことばであり、霊の意思をこの世に伝える役割を果たす存在であった。山王岩屋は、その奥の院とみられ、骨寺の地名とともに納骨信仰との関連を想起させる。「どくろ」伝説も、巫女の霊媒としての役割と関係するものであろうか。
 大師堂は慈恵大師を祀り、お祭りは3月18日、6月18日、9月18日に行われる。かつては中尊寺から僧侶が来て、護摩焚きが行われた。
 大石直正氏の指摘のように、若神子・骨寺・山王岩屋は、この世とあの世を結ぶ信仰のラインであり、その奥にそびえる栗駒山の山岳信仰と納骨信仰とを結び付けるのが、山王岩屋すなわち天台の信仰であった。このことは骨寺絵図の構図の上にも示されている。
 また、今も、駒形・山王・若神子の別当をつとめる家は駒形神社から塚バス停を結ぶ道路沿いに並んでいる。この道路が中世以来の聖なる道であった可能性は高いといえよう。骨寺絵図にみえる宇那根社の現地比定は困難ではあるが、この道沿いに存在したのではなかろうか。
[付記] 本論は、1990年代後半に本寺地区の荘園遺跡の国史跡指定をめざして国学院大学文学部地理学研究室および東北学院大学文学部民俗学研究室などによって実施された調査に同行した成果の一部であり、村山民俗学会会報170・171号に掲載したものを一括して、一部を加筆したものである。
[参考文献]
小野寺正人「馬と馬頭観音信仰」『東北民俗』29号、1995年。
山形県最上町教育委員会『祖先からのおくりもの』、1992年。
大石直正「陸奥国骨寺絵図」『 中世荘園絵図の世界 中世荘園絵図大成 第一部』1997年、河出書房新社。


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