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法隆寺聖霊院 聖徳太子太子座像 聖霊院御影 古代史探訪

2018-05-03 22:22:15 | 評論
法隆寺聖霊院の真実 古代史探訪

 法隆寺聖霊院(ほうりゅうじしょうりょういん)(国宝)は、法隆寺西院東室に隣接して建てれている。十二世紀初頭、東室が倒壊した後、「太子信仰」が盛んになる中で、1121年(保安2年)再建された際に、東室の南三房を改造して、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために聖霊院を造立した。
 内部は、外陣・内陣・後陣に分かれ、内陣の奥には、三間幅の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の「聖徳太子太子座像」(国宝)、左の厨子には太子の長子・山背大兄皇子や殖栗皇子(えぐりのおうじ)の像(国宝)、右の厨子には太子の兄弟皇子・卒末呂皇子(そまろのおうじ)や高句麗僧・恵慈法師の像(国宝)が安置されている。
 聖霊院は、その後、1284年に全面改装され現在の姿になる。
 「聖徳太子太子座像」は、「侍者像」とともに秘仏で、毎年3月22日(旧暦2月22日)の「お会式」(御命日法要)の時に御開帳される。
 さらに10年に一度、「法隆寺聖霊会」と呼ばれる「大法要」(大会式)が華麗に催され、三方楽所南都方(さんぽがくそ)の伝統を受け継ぐ舞楽が奉納されるとともに、舞楽の調べにのせて、西院から東院へ境内を練り歩く行列が行われる。行列の 中心は、聖徳太子七歳像と南無仏舎利が乗せる神輿である。
 一方、四天王寺では、聖徳太子ゆかりの寺としての大法要、「聖霊会」が聖徳太子命日(旧暦2月22日)に催される。境内六時堂前にある石舞台では、三方楽所天王寺方の伝統を受け継ぐ舞楽が披露される。


法隆寺聖霊院 鎌倉時代 国宝

■ 聖徳太子座像(聖霊院御影)
  木造 造高 84.2cm 平安時代 国宝 法隆寺聖霊院

 法隆寺聖霊院には、「聖徳太子」四十五歳のときの姿を表したものと伝えられている「聖徳太子座像」(「聖霊院御影」)がある。
 「法隆寺別当次第」等の記事から、平安時代末期の1121年(保安2年)の造立、開眼とされ、平安時代前期を代表する聖徳太子彫像である。
 「聖徳太子座像」は、重要な神事の際に用いる冠、「巾子冠」(こじかん)を頭に着け、さらに頭頂には「冕冠」(べんかん)を戴き、儀式用の「笏」を両手で持ち、赤色の「袍」(ほう)を着用する束帯姿である。精緻で巧妙な技法で彫られている木彫で、静謐かつ威厳に満ちていている像である。
 こうした衣冠・把笏の姿は、「唐本御影」と極めて似た姿で、「唐本御影」を参考に造立されたと思われる。
この「座像」は、「冕冠」を被っているが、「冕冠」とは、中国に由来する冠の一種で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した。「冠」の頂から下がる「冕流」という玉飾りの本数に身分による違いがあり、位が下がるに従って本数が減るという。倭国では、天皇と皇太子のみ着用が許され、即位、朝拝、朝堂の儀に被るものとされた。
 「冕冠」を被っており、わずかに口を開いていることで、経典を講ずる壮年期の姿に比せられているため、「勝鬘経講讚太子」像とする説もある。
 顕真も「聖徳太子伝私記」の裏書で、これを太子三十四歳の「勝鬘経講讚御影」としている。
 しかし、通常の「勝鬘経講讃像」は、「「巾子冠」(祭冠)を戴き、「袍」(朝服)の上に「袈裟」(僧衣)を着し、「麈尾」(仏具)を執る姿であらわされているが、この「座像」は、「冕冠」を戴くが、「袍」のみを着し、両手で「笏」を執る姿で、通常の「勝鬘経講讃像」とは大いに異なっている。
 「聖徳太子座像」は、「勝鬘経講讃像」と「摂政像」がもつ要素が折衷された形で表され、聖霊院像がいかなる像であったのかについては、検討すべき余地を残していると思われる。
 像内には、蓬莱山形の台座の上に立つ白鳳時代の救世観音像や法華経、維摩経、勝鬘経を書写した三巻の経が納められていた。





2017年9月1日
Copyright (C) 2017 IMSSR




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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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憲法十七条 国司国造 朝参 遣隋使 聖徳太子 蘇我馬子 古代史探訪

2017-09-08 08:49:09 | 評論
憲法十七条の真実 古代史探訪
~「聖徳太子」はどこまでかかわったのか~


 「憲法十七条」は「聖徳太子」が制定した伝えられる日本最初の成文法。「日本書紀」推古12年(604年)四月条に全文が記され、「皇太子、親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」し、「皇太子」(厩戸皇子)の「真撰」であるとしている。

 「憲法十七条」は近代の憲法や法律と異なり,道徳的規範を述べたもので,当時の朝廷に仕える貴族や官吏に対して、守るべき態度や行為の規範を示した官人服務規定である。
 君・臣・民の上下秩序がさまざまな観点から説かれている。とりわけ、臣のあり方に力点が置かれ、中央豪族の新たな心得を諭し、天皇中心の中央集権体制を確立しようとする意図がみられる。
 記述されている内容は、仏教思想を基調とし、儒家・法家の思想の影響が強い。

「憲法十七条」への疑問
 「憲法十七条」には、多くの疑問点が出されている。
 「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方や、条文にある「国司」名は、7世紀始めには使われていない疑問点などから、実際の制定は後の時代で、「憲法十七条」は日本書紀の「潤色」があるという考えが支配的だ。
制定年については、「日本書紀」では、推古12年(604年)四月としているが、「上宮聖徳法王帝説」では、推古天皇13年(605年)七月とし、「一心戒文」では推古天皇10年(602年)十二月とするなど異説がみられる。
 最大の焦点は、「聖徳太子」の「真撰」かどうかであるが、未だに定説がなく古代史専門家で議論が続いている。

■ 津田左右吉の批判 「憲法十七条」は天武朝の作
 津田左右吉は、第十二条「国司国造」の条文で現れる「国司」は、「改新之詔」以前は存在しないと指摘している。
 「憲法十七条」が制定された当時、地方は、朝廷が、地方豪族に任じた「国造」や「県主」、中央豪族に任じた「伴造」などの諸臣が支配していた。「国」という地方行政区画は、「改新之詔」によって始めて設けられたとした。
 また「上宮聖徳法王帝説」には、「冠位十二階」の記述はあるが、「憲法十七条」の記述はないことから、「憲法十七条」の制定は、日本書紀の「潤色」だとしている。

■ 坂本太郎氏の擁護説
坂本氏は「国司」は、大化の改新以前には存在しなかったと断定できないとしている。
 「憲法十七条」の表現は抽象的な政治原則を記述したもので、史実性があるとした。

■ 家永三郎氏の擁護説
 家永氏は、「憲法十七条」に記されている「国司国造」は、「改新之詔」の「国」の長官としての「国司」とは、同一のものではなく、中央から地方に派遣されるある種の官職があったのではと主張する。
 「憲法十七条」は、氏族制度社会の中で、その枠内で、中央集権的な官僚国家の精神を導入しようとものであるとした。「憲法十七条」は、実在したと考えられる「冠位十二階」とは内容的に整合性があり矛盾はなく、史実性があるとした。

■ 森博達氏の「後世の作」説
森博達氏は、「十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀に成立とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。
森氏は、「『日本書紀』推古紀の文章に見られる誤字・誤記が十七条憲法中に共通して見られる。例えば「少事是輕」は「小事是輕」が正しい表記だが、小の字を少に誤る癖が推古紀に共通してある」と述べ、『日本書紀』編纂時に少なくとも文章は「潤色」されたと考え、聖徳太子の書いた「原本・十七条憲法」は存在したかもしれないが、立証できないので、原状では「後世の作」とするほかないとしている。

■ 「国司国造、百姓に斂めとることなかれ」
「憲法十七条」が制定されたとする7世紀初頭に「国司」は存在していなかったのは明らかである。
 701年、「大宝律令」が制定され、地方官制については、「国・郡・里」などの単位が定められ(国郡里制)、「国」には中央王権から「国司」が派遣され、その国を治めさせる一方、「国司」の下に「郡司」を置いた。「郡司」には、かつての「国造」であった地方豪族が任命され、一定の権限を認めた。
 「大宝律令」以前は、「国」の下にある行政単位の「郡」(こほり)は、「評」(こほり)と表記され、「国司」に当たる職名は、「評督」であった。
 「日本書紀」では、「改新之詔」で、東国に「国司」を派遣したという記述がある。しかし、実際は「総領」や「国宰」であり、「御言持ち(みこと)」と呼ばれる官職で、「みこと」という帝の命を地方に伝える「使者」であった。
 「国」を治めたいわゆる「国司」とはまったく異なる官職だった。
 「憲法十七条」の「潤色」説の根拠となっている。

■ 「群卿百寮、早く朝りて晏く退でよ」
 「憲法十七条」が「真作」といわれる「根拠」とされている。
 600年、隋に遣わされた倭国の使者は、「天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ:あぐら)して坐し、日出れば便(すなは)ち理務を停(とどめて)め、云う、我が弟に委ねんと」とした。
 これを聞いた文帝は、この習慣を改めるように訓示したと「隋書」に記されている。
 第八条は、これを受けて、定めたのであろう。
 「隋書」の記述との整合性がある。
 また日本書紀、舒明八年(636年)七月己丑朔上には、群卿百寮の朝参の遅滞が問題になり、大派王が、蘇我蝦夷に対して群臣や漢人が朝参を怠っているので、今後は、「卯の始め(午前6時)に出仕し、(午前10時)の後に退出すべきだ(「卯の始めに朝りて、巳の後に退でむ」とし、「鐘によって時刻を知らせ、規則を守らせようではないか」と進言、しかし、蘇我蝦夷はこれに従わなかったと記されている。
 「第八条」は、「憲法十七条」の史実性を主張する根拠にされたている。

「憲法十七条」は存在していた
 600年(推古8年)、倭国は遣隋使を派遣し、隋帝に「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏跌して座し、日出ずれば便ち理政を停め、云う、我が弟に委ねん」と倭国の政事の仕組みについて上奏した。これに対し、隋帝は「これ、大いに道理なし」と叱責し、改めるように諭した。
これに衝撃を受けた推古朝は、国政改革を迫られ、急遽、中国に倣って政治制度を整えた。その結果、生まれたのが「十七条憲法」と考えられる。
607年(推古15年)に、第二回遣隋使が派遣されたが、小野妹子は「憲法十七条」を携え、改革の実を上げたことを隋帝に上奏したものと思われる。
聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、それが、おそらく「十七条憲法」の原形であろう。

 筆者は「憲法十七条」の全文を「潤色」とすることは適切でないと考える。
 条文の内容からみて、概ね推古朝の遺文として認められ、その原形は推古朝(592~628)に成立したと考えるのが妥当だろう。
 今後の課題として、「日本書紀」に記されている全文の内、「推古朝の遺文」(原型)と「日本書紀」の「潤色」をどのように区別するかが肝要である。

「憲法十七条」を作成したのは蘇我馬子
 当時、推古朝で権勢をふるっていたのは蘇我馬子である。
王権内のすべての国内政治、外交、仏教興隆など重要な施策は、蘇我馬子がすべて掌握していた。日本書紀では、「皇太子・嶋大臣、共に謀りて」、国政改革や外交を担ったとしているが、厩戸皇子が蘇我馬子と肩を並べて、王権内で力を持っていたとは考えられない。
 「日本書紀」の編纂者は、推古朝の業績を蘇我氏に帰したくはなかったといいう意思が明白である。「十七条憲法」は、蘇我馬子と蘇我氏の配下にあった渡来人系の氏族が主導して制定されたと考えるのが自然である。
 「聖徳太子」の役割は、極めて限定的だったと思われる。

 当時、この「十七条憲法」が実際にどれだけ王権内部に浸透したか、極めて疑問が多い。隋や高句麗、新羅、百済に対する倭国のプレゼンスを示すことに大きな役割を果たしたと考えられる。
 しかし、「十七条憲法」は、「改新之詔」から「大宝令」に至る天皇制律令国家の形成にあたって、大きな影響を与えた。


憲法十七条
■ 第一条
(読み下し文)
「一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」
(現代語訳)
「一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ」

■ 第二条
(読み下し文)
「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」
(現代語訳)
「二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか」

■ 第三条
(読み下し文)
「に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん」

(現代訳)
「三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう」

■ 第四条
(読み下し文)
「四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる」

(現代語訳)
「四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ」

■ 第五条
(読み下し文)
「五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く」

(現代語訳)
「五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである」

■ 第六条
(読み下し文)
「六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり」

(現代語訳)
「六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる」

■ 第七条
(読み下し文)
「七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず」

(現代語訳)
「七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった」

■ 第八条
(読み下し文)
「八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず」

(現代語訳)
「八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう」

■ 第九条
(読み下し文)
「九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん」

(現代語訳)
「九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう」

■ 第十条
(読み下し文)
「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え」

(現代語訳)
「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい」

■ 第十一条
(読み下し文)
「十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし」

(現代語訳)
「十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである」

■ 第十二条
(読み下し文)
「二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや」

(現代語訳)
「二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか」

■ 第十三条
(読み下し文)
「十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ」

(現代語訳)
「十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない」

■ 第十四条
(読み下し文)
「十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん」

(現代語訳)
「十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない」

■ 第十五条
(読み下し文)
「十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか」

(現代語訳)
「十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである」

■ 第十六条
(読み下し文)
「十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん」

(現代語訳)
「十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか」

■ 第十七条
(読み下し文)
「十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん」

(現代語訳)
「十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう」

(出典 「聖徳太子のこころ」 金治勇大蔵出版、1986年)





2017年9月1日
Copyright (C) 2017 IMSSR



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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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聖徳太子像 唐本御影 阿佐太子御影 法隆寺 古代史探訪

2017-09-07 14:35:54 | 評論
古代史探訪 唐本御影の真実
~唐本御影は「聖徳太子」を描いた肖像ではない~


「聖徳太子」の最古の肖像画、「唐本御影」
 「唐本御影」は、「聖徳太子」を描いた最古のものと伝えられる肖像画。「聖徳太子二王子像」と呼ばれたり、百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたという「伝説」から「阿佐太子御影」とも呼ばれたりする。
帯刀して立つ「聖徳太子」の脇に描かれている二人の人物は、左が「聖徳太子」の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ 用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が「聖徳太子」の長子である山背大兄王と言われている。
こうした侍童を従えた三尊形式で描かれていることから、明らかに信仰の対象として描かれたものと見なされている。
 「唐本御影」は、眉や目などの筆法から、八世紀の制作とするのが通説である。
 なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。
 「唐本御影」は、「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。当初の伝来等、その由来が明らかでない。


聖徳太子・二王子像(唐本御影) 宮内庁蔵

「唐本御影」は中国渡来の画風」
 衣文に沿って軽い陰影のあるこの画風は、西域から中国に流入した陰影法であり、六朝時代の肖像画に使われていた画風である。
 また、中央に本人、左右に二王子が並ぶ構図は、7世紀に活躍した唐の宮廷画家、閻立本の描いた『帝王図巻』との類似性が指摘されている。
 閻立本『帝王図巻』とは、前漢昭帝から隋煬帝まで13人の帝王を描いた伝閻立本《帝王図巻》(ボストン美術館蔵)で、勧戒の意や尊崇の意をこめたものでもあり,軸物は寺観など別に場所を設けて掲げ礼拝の対象とされた。
 ちなみにボストン美術館蔵の『帝王図巻』は後代の模作である

流転「唐本御影」
明治維新になると、法隆寺を始め全国の仏教寺院は存続の危機にさらされた。
1868年(明治元年)、「神仏分離令」が発布されて、「廃仏毀釈」と呼ばれる仏教排斥運動が起きた。この結果、多くの仏教寺院が破壊され、仏像や寺宝の流出・散逸が相次いだ。
こうした中、1872年(明治4年)、明治政府は文化財保護と博物館建設を目指し、「古器旧物保存令」を出して全国の仏教寺院に調査官を派遣した。法隆寺にも寺宝は、調査官が派遣され、すべての寺宝の台帳を作成した。
当時、幕藩体制の崩壊で、日本の仏教寺院は、寺領や権力者の後ろ盾を一挙に失い、経済的に極度に困窮していた。
聖徳太子ゆかりの寺院である法隆寺も寺領を失って疲弊し、伽藍や寺宝の維持もできなくなっていた。
こうした中、法隆寺は苦渋の決断をする。
1878年(明治11年)、当時の法隆寺住職であった千早定朝は、主要な寺宝、三百余点を「法隆寺献納御物」として皇室に献納する決断をした。
明治政府は、伽藍の修理等の費用として、下賜金、1万円を法隆寺に与えた。当時の1万円は今日の数億円に匹敵する莫大な金額であった。法隆寺はこれによって堂塔の修復や寺院の維持が可能になった。
「献納御物」は、「帝室宝物」となり、東京上野に新設された博物館で保管、展示されることになった。(現東京国立博物館)
しかし、「唐本御影」や「法華義疏」など、特に皇室とゆかりの深い十二点は、「宮内庁のお持ち帰り品」として「御物」として皇室の保有となった。
「唐本御影」もこの中の一つで、「御物」となった。
第2次大戦後はマッカーサーの指令で「法隆寺献納御物」は「法隆寺献納宝物」とし、国有財産として国立博物館に保管されることになったが、「唐本御影」や「法華義疏」など七点は皇室関係のものとして宮内庁の侍従職が、「御物」として保管した。
現在、法隆寺は江戸時代に幽竹法眼が写した模写図(1763年)を所蔵する。

「お札」の象徴 「聖徳太子」
 「唐本御影」の「聖徳太子」の肖像は、戦前から戦後にかけて7回にもわたり紙幣に採用されて、日本のお札の象徴であった。
 初めて登場したのは昭和5年、兌換券百円券で登場した。戦後に日本銀行券に代わっても引き続き百円券に使用された。
戦後、GHQは、国家主義や神道など軍国主義を助長する肖像を通貨や切手に使用することを禁止した。「聖徳太子」は戦時中に忠君愛国の象徴とされたことで、パージ(追放)の方針を示した。これに対し、当時の日銀総裁の一万田尚登氏は、聖徳太子は「(和を以て貴しとなす、さからうことなきをもってむねとなせ」としているとし、平和主義者の代表であるとGHQを説得したという。


日本銀行券 百円札

 昭和25年(1950年)には、千円札で登場し、昭和38年(1963年)に「伊藤博文に交代するまで14年間も使用され、「お札」の象徴は「聖徳太子」となり、「唐本御影」が最も国民に知られた「聖徳太子」の肖像となった。
昭和32年(1957年)には五千円札、昭和33年(1958年)には一万円札に登場し、常に最高額の紙幣は「聖徳太子」だった。
日本銀行券に採用された理由として、①国内外に数多くの業績を残し、国民から敬愛され知名度が高い。②歴史上の事実が実証でき、肖像を描くためのしっかりとした材料がある。という2点が挙げられたという。

疑念を持たれている「唐本御影」
 「唐本御影」は「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。その伝来等由来が明らかでない。
法隆寺の「四十八体仏」など多くの寺宝は、1078年(承暦2年)に橘寺から移されたものと思われので、「唐本御影」もこの時、移管されたとする説や、飛鳥の衰退した寺院から伝わったという説がある。
そこで、古くから、「唐本御影」は、「聖徳太子」を本当に描いたものか、誰がどこで、いつ頃、描いたのか謎に包まれている。

「七大寺巡礼私記」に現れた「唐本御影」
 「唐本御影」が初めて史料に現れるのは、平安時代末期の学者、大江親通が著した「七大寺巡礼私記」である。
 大江親通は、1106年(嘉承元年)と1140年(保延6年)の二回に渡って、南都(奈良)の七大寺を巡礼し、「七大寺日記」と「七大寺巡礼私記」を著している。これらは12世紀の諸大寺の実情を伝えるうえで最も重要な資料とされている。
1140年、法隆寺を訪れた大江親通は、法隆寺東院夢殿の後方にある、当時は「七軒亭」(舎利殿)と呼ばれた建物の「宝蔵」で「唐本御影」見ていた。
 「七大寺巡礼私記」には、「太子の俗形の御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不思議なり。よくよく拝見すべし」(俗人の姿をされた聖徳太子の肖像画一幅。この肖像画は唐の人が描いたものである。不思議である。心を込めて拝見しなければならない)と記されている。
 「唐本御影」の「唐本」とは、作者が「唐人」の意だと、大江親通は思ったのに違いない。法隆寺の僧侶が大江親通にそう説明したかしれない。
 大江親通は、なぜ「唐人」が太子を描き、またそれが法隆寺にあるのかに釈然としなかったと思われる。「よくよく拝見すべし」としたのは、子細に検討の必要があるという意で、親通の疑念が現れていると思われる。
 なぜ「唐人」が聖徳太子を描き、その肖像を、法隆寺が大切に伝えたのか、大江親通は納得がいかなったと考えられる。
 当時の「太子信仰」の言い伝えの中で造られた「聖徳太子」のイメージとは、冠帯で笏を持った姿は、余りにも違和感があったのであろう。
 「聖徳太子」とはまったく関係ない、平安時代の朝廷に仕えていた王族や貴族を描いたものだろうとの推測も成り立つ。
 一方、「太子信仰」が盛んになった平安時代頃の作で、当時の風俗を基にして「聖徳太子」の肖像を描いたという可能性も残されている。 
 しかし、誰がどこで描いたのはまったく解らないし、その由来も明らかになっていない。つまり「聖徳太子」を描いた肖像かどうか、まったく証拠がないのである。

法隆寺僧顕真が説く「唐本御影」の由来
 鎌倉時代の13世紀半ばに、法隆寺興隆に尽力した、法隆寺僧顕真は「聖徳太子伝私記」を著し、この絵を「唐本御影」と呼んで、その由来についていろいろ説があるとして、そのうち2つを挙げている。
 その一つ目の説は、渡来した「唐人」が、「唐人」の前に聖徳太子が「応現」したものを、2枚描いて、1枚を日本に残し、1枚を本国に持ち帰ったとする。
 もうひとつの説は、顕真と同時期に法隆寺復興に尽力した西山法華山寺慶政による説を引用し、「唐人」ではなく百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとしている。
「阿佐太子」は、597年、百済・聖明王に遣わされて来朝した朝貢使である。
聖明王は、倭国に「仏教公伝」を行った人物で、仏教興隆の祖としている「聖徳太子」に関する逸話にとっては格好の登場人物である。
 「阿佐太子」の名が「太子信仰」に登場するのは、「聖徳太子伝暦」(917年)である。「聖徳太子伝暦」は、平安中期に、流布していた説話や伝説、予言を集大成し、この「伝暦」で太子の伝説化はほぼ完成したとされている。
「伝暦」によると、「二十六歳、百済の阿佐太子が、太子を『救世観音菩薩』として礼拝し、その時に太子の眉間から光を放つ」という逸話が記されている。
 この逸話を元に、「唐本御影」は、百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとする説を顕真が考え出したのであろう。
 以後、「唐本御影」は、「阿佐太子御影」とも呼ばれるようになった。
 「応現」とは「仏・菩薩  が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること」で、顕真は、この絵は渡来人の画家によって描かれたもので、聖徳太子の服装が中国風である理由を「応現」で説明している。

■ 「聖徳太子伝私記」
 聖徳太子伝に関する秘伝や法隆寺の寺誌を記したものである。別に『聖徳太子伝私記』ともいう。13世紀前半に法隆寺の復興に尽力した僧侶、顕真が上下2巻にまとめ、上巻では師匠隆詮から伝授された法隆寺や聖徳太子伝の秘伝を記し、下巻では聖徳太子の舎人(とねり)「調使麻呂(調子丸)」に関する秘伝と自らが「調使麻呂」直系の子孫であることを述べる。
「調使麻呂(調子丸)は「聖徳太子」の愛馬、甲斐の黒駒を飼養したと伝えられている。「聖徳太子」が馬に乗り、富士山を登ると伝説が残る。
「聖徳太子伝私記」は、顕真自筆の稿本が現存し、中世の太子信仰や法隆寺に関する貴重な史料である。重要文化財で国立博物館に所蔵されている。

「唐本御影」は聖徳太子の肖像か? 
 「唐本御影」で描かれている「聖徳太子」は、冠帯に笏を持ち、束帯(朝服)の姿で描かれ、飛鳥時代の人物を描いたものとは考えられない。
 「笏」は、律令時代の官人が、束帯で儀式に参列するとき威儀を正すために用いたもので、長さ1尺2寸 (約 40cm)細長い板である。右手に持ち、読み上げる言葉を貼り付けておく「カンペ」として役割も果たしたという。
この絵の制作年代は早くとも、律令国家が成立した以降の八世紀頃(奈良時代)と考えられるが、平安時代に制作されたという説や、鎌倉時代の模本とする説も根強く支持されている。
また、当時の絵画の主流は、絹本で、紙本の「唐本御影」は、極めて異質なものである。救世観音の生まれ変わりとまで称された「聖徳太子」を簡素な紙に描くのは、極めて不自然だ。しかも、「聖徳太子」は侍童を従えた三尊形式で描かれ、明らかに信仰の対象として肖像である。
 なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。

広まった聖徳太子虚構説 
 1982年、東京大学史料編纂所長であった今枝愛真氏が「唐本御影」は聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えた。
 唐本影御の掛け軸の絹地の表装の隅に「川原寺」と読める墨痕があり、もともと川原寺にあったものを法隆寺に移し、太子像としたというのがその主張である。
 これをきっかけに、聖徳太子虚構説が広まっていく。
 しかし、今枝説には矛盾点があり、掛け軸というのは巻いたり伸ばしたりするので傷みやすく、「表装替え」を時折、行うのが常識とされている。今枝説では、1200年もの間、「表装替え」をしなかったこととなり現実的でない。
歴史学者、武田佐知子氏によると、武田氏が掛け軸を京都の表具屋に調べてもらったところ、掛け軸は江戸時代中葉以降の、中国製の絹が使用されていたことがわかり、「川原寺」の墨跡は後世の書き込みであるとし、しかも、墨跡は、表装部分に銀糸で書かれた「国家安康」の「康」字の銀糸酸化による黒ずみと判明したとした。
 唐本影御は、元々、法隆寺に保管されていたようである。

 また、武田佐知子氏の「信仰の王権聖徳太子」によると、平城京の長屋王邸の遺構より発掘された「楼閣山水図木簡」に描かれている男性貴族の姿が、唐本御影の聖徳太子の衣装や木簡を持っている姿に似ているという点からも、唐本御影は奈良時代に聖徳太子を想像して描かれたものであろうとされている。

 「唐本御影」は、観音、勢至菩薩の脇仏を伴った阿弥陀如来のように、三尊形式で描かれていることで、この肖像画が信仰の対象であったとされている。8世紀に盛んになった「太子信仰」の結果として、この肖像画が描かれたと武田佐知子氏は考えている。

 歴史学者、大山誠一氏は、『唐本御影』を中国・西安にある永泰、章怀、懿德等の合葬墓の壁画にある男性人物像と比較すると,ありとあらゆる点で酷似しているとしている。
 同時期の絵師が模範本として描いたものが日本国に渡来し,それを元にして後代に日本国内で作成されたものではなかろうか。それゆえ『唐本御影』との名があると解釈すると,非常にわかりやすい。唐から伝来した祖本を手本にした直接の模写本という趣旨に理解することができる。
 中央の人物の左右に立つ者の髪型(みずら)が契丹の遺跡からの発掘品にもある。『唐本御影』の作成時期が8世紀以降だとすれば,矛盾はないとしている。

 大阪歴史博物館学芸員、伊藤純氏によると、「法隆寺は正真正銘、聖徳太子の寺であることの証しとして唐本御影を利用した」としている。
 法隆寺の記録「嘉元記」(1305~64年)によると、1325年、法隆寺領だったという播磨の国の荘園「鵤庄(いかるがのしょう)」を巡る争論の際には 「法隆寺の立場を通すため、幕府を威圧する道具として唐本御影を鎌倉まで持ち出した」。
 江戸時代に入ると、唐本御影は1694年(元禄7年)江戸での出開帳に出された。「それが評判を呼んで閲覧希望が殺到したため、寸分違わぬ精巧な写しが幽竹によって作られたのではないか」。それ以降、唐本御影の原本、または幽竹の写しを参考にしたとみられる肖像が次々に描かれ、芸能の世界でも聖徳太子が登場する演目が作られた。
 「江戸時代、唐本御影に描かれた太子像の絵柄はチラシなどにも使われ、随分活躍したに違いない」としている。

「唐本御影」は「聖徳太子」の肖像ではない
 日本書紀崇峻天皇即位前紀(587年)によると、厩戸皇子はまだ14歳だったが、物部守屋討伐軍に参戦した。討伐軍が、物部守屋軍の激しい抵抗にあい、三度退却したあと、厩戸皇子は、髪を束髪於額(ひさごはな)に結い、髪を分けて角子(あげまき)にし、白漆木(ぬりで)を切って四天王像を作り、額につけて、「今若し我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と誓願して進軍し物部守屋に勝利したとしている。
 太子信仰が盛んになって太子を称賛する目的で、こうした逸話が創作されたのであろう。

 「束髪於額(ひさごばな)」の髪形は、年少の十五歳から十六歳までの間は、髪を額のところで束ね、まげの形が瓢箪の花に似ているので「ひさごばな」と呼ぶとしている。十七歳から十八歳になると髪を耳の上で結ぶ「美豆羅(みずら)」の髪形となるのが慣習である。

 七世紀末から八世紀初頭にかけて太子信仰が盛んになり、各地で太子像が造られる。
 「聖徳太子」「七歳像」や「十二歳像」はいずれも、この逸話に倣い、「束髪於額」の髪形をした童像である。
 奈良時代には、聖徳太子を菩薩とする「太子信仰」登場する。
 その後「聖徳太子伝暦」や「上宮聖徳太子伝補闕記」によって救世観音化身説が唱えられ、聖徳太子=救世観音とする信仰が定着した。
 また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰が起こった。
 「聖徳太子」は、仏門の解脱者であり、救世観音なのである。
 こうした「太子信仰」を踏まえれば、平安朝に制作された「聖徳太子」の肖像は、仏門に帰依して悟りを開いた高僧のような袈裟の姿や観音菩薩像のような姿で描かれるだろう。
 「唐本御影」のように、「笏」を持ち「冠帯」の「聖徳太子」は、「冠位十二階」や「憲法十七条」などの制定に携わるなど、王権内で「現役政治家」として活躍していた姿の肖像である。「太子信仰」からは余りにも異質な肖像であり、「聖徳太子」を描いたものとは、到底考えられない。

 12世紀に「七大寺日記」を著した大江親通は、「唐本御影」を見て「不思議なり」とし、「聖徳太子」の肖像なのか、疑問を持った。
 13世紀半ば、「聖徳太子伝私記」を著した法隆寺の僧、顕真も、この肖像には多くの解釈があり、意義があることも認めた上で、「唐本御影」と呼ばれている理由は、「唐人」が描いたからだとしている。そして、考え抜いた上に、苦し紛れに、「唐人」の前に「応現」した「聖徳太子」を二幅描き、その一つを倭国に留めたという苦し紛れの説明をしている。そして、慶政上人の説として「阿佐太子説」も記している。その真意は、「太子信仰」を広めていた顕真ですら、この肖像を「聖徳太子」の「真影」とすることに、相当な違和感を感じていたことの裏返しだろう。

 筆者の結論は、(1)「唐本御影」の製作年代は、八世紀頃である。(2)その頃の「太子信仰」からは、「笏」を持ち「冠帯」の肖像は生まれない、
 以上から、「唐本御影」は「聖徳太子」を描いたものではない。
 「唐本御影」は、唐からの渡来人の画家が、平安時代に朝廷に仕えていた貴族を描いたものであろう。その出来栄えが余りにも素晴らしかったので、法隆寺に伝わり、当時の「太子信仰」の中で、「聖徳太子」の肖像とされるようになったと考えられる。
 「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられるなど、「唐本御影」を「聖徳太子」の「真影」とするために、「潤色」を懸命に行っていたことが窺えるのはその証拠である。

歴史教科書論争 「聖徳太子」か、「厩戸皇子」か?
 歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「生前で用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された。
 2017年4月、「新しい歴史教科書をつくる会」が4月に東京都内で開いた集会で、藤岡信勝副会長は、「聖徳太子をなきものにするのは、日本の自立国家としての歩みを否定すること」と語り、「聖徳太子は中国(隋)に従属せず、対等外交を展開しようとした。十七条憲法で『和』の精神を打ち出した」と述べて、聖徳太子が「日本人の精神の骨格をつくってきた」とし、聖徳太子と「厩戸王」の名を併記しようとした文科省を批判した。
集会には国会議員らの姿もあった。自民党教育再生実行本部長の桜田義孝衆院議員は「聖徳太子の名を変えるとはまかりならん。今までの教育を全部否定されるようなものだ」と語った。
文科省の調べでは、現在出版されている教科書では、小学校はすべて「聖徳太子」と表記され、中学では「聖徳太子(厩戸皇子)」や「厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)」などと表記が分かれている。

 2017年、文部省は10年に一度の指導要領の改訂を行い、歴史の授業では古事記や日本書紀の史料に基づいて学ぶことを明記することにした。これに伴い「聖徳太子」の名が没後の呼称であるとの史実を踏まえて2月に改訂案として、小学校は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」に改めるという内容を公表した。
 ところが、文科省がパブリックコメントを募ると、反対意見が多く寄せられた。一因と考えられるのが、つくる会がホームページなどでコメントを送るよう呼びかけたことだ。藤岡氏は「4千件以上のコメントが聖徳太子に関するもの」としている。文科省はコメントの詳細を明らかにしていない。

 文科省幹部によると、寄せられた意見には「小学校と中学校で呼び方が違うと教えづらい」との教員からの声もあったという。パブリックコメントを経て、結果的に、小中学校とも「聖徳太子」の表記に戻った。
ただ、中学校については「古事記や日本書紀で『厩戸皇子』などと表記され、後に『聖徳太子』と称されるようになったことに触れる」とのくだりが残った。

 「聖徳太子」の呼称が現れたのは8世紀中ごろ医以降で、推古天皇の下で政治改革や中国・朝鮮半島の外交関係、仏教興隆を推進した皇子は、「厩戸皇子」だという史実が明らかになっている。信仰の対象としての「聖徳太子」と史実の「厩戸皇子」は峻別して理解しなければならい。
初の女帝である推古天皇の王位継承者として大王を補佐し、国政に参加したのは「厩戸皇子」である。
未だに「神話」と「歴史」を分けることができない日本人の感性はあまりにも残念である。

 いずれにしても「唐本御影」は、未だに、一体、誰を描いたものか、いつ、どこで、誰が作者か、決着はついておらず、現在は歴史教科書などで「唐本御影」を掲載する場合は「伝聖徳太子像」と記している。




(参考文献)

「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993年
「蘇我氏の古代史 ~謎の一族はなぜ滅びたか~」 武光誠 平凡社 2008年
「蘇我氏と大和王権」 古代史研究選書 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年 
「秦氏とその民~渡来氏族の実像~」 加藤謙吉 白水社
「日本史なかの蘇我氏」 梅原毅 歴史読本 KADOKAWA 2016年 
「壬申の乱」 直木 孝次郎  塙選書 1961年
「古代史再検証 聖徳太子とは何か 別冊宝島」宝島社 2016年
「信仰の王権 聖徳太子」 武田佐和子 中央新書 1993年
「聖徳太子の歴史を読む 編著者 上田正昭 千田稔 文英堂 2008年  
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年



2017年7月31日
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廣谷  徹
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天寿国繍帳 刺繍銘 亀の甲羅 橘大郎女 古代史探訪

2017-09-07 07:49:21 | 評論
天寿国繍帳の真実 古代史探訪

国宝 天寿国繍帳(部分)
飛鳥時代・7世紀 奈良・中宮寺蔵


 現存する最古の刺繍である天寿国繍帳は、飛鳥時代に制作された旧繍帳と、鎌倉時代にこれを模造した新繍帳の遺(のこ)りのよい部分を、江戸時代(天保年間)に貼り混ぜて1面の繍帳にしたものである。
 このことから正式な国宝の登録名は「天寿国繍帳残闕」されている。
 意外なことに、鮮やかな色彩のほうが旧繍帳である。
 制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの「帳」2枚を横につなげたものであったと推定されるが、さまざまな断片をつなぎ合わせて制作された現存する「繍帳」は、縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの「額装仕立て」となっている。
 この繍帳には亀の甲羅に4文字の刺繍銘があり、「刺繍」には「部間人公」「干時多至」「皇前曰啓」「仏是真玩」、「断片」には「利令者椋」の四字五組の銘文が残る。当初は100匹の亀の甲羅に刺繍されていたとされ、その400文字の全文が『上宮聖徳法王定説』に記され、この繍帳作成の由来がわかる
それによると、推古30年(622)に聖徳太子薨去に際し、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、推古天皇に願い出て、太子往生の姿を偲び、往生した天寿国の有様を刺繍によって表したものとしている。「天寿国」とは、阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すものとされている。
 下絵を描いたのは椋部秦久麻(くらべのはたのくま)を総監督に、東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)の渡来系の3人の画師で、宮中に仕えた采女たちが刺繍したとしている。  
中国六朝風の人物表現や文様がみられ、飛鳥時代の絵画としても貴重である。
製作された後は、しばらく本堂にて保管されてきたと思われるが、鎌倉時代に中宮寺を再興した尼僧・信如によって法隆寺境内の蔵から発見されたという記録があるので、鎌倉期まで法隆寺の蔵で眠っていたことが判明している。
 現在、中宮寺本堂に安置されているものは複製品で、実物は奈良国立博物館に寄託されている。


天寿国繍帳の銘文
 『上宮聖徳法王帝説』に記されている銘文は、一部に誤脱があるが、飯田瑞穂氏(中央大大学名誉教授)の考証によって400字の文章に復元されている。

(読み下し文 後半部分)
 「歳(ほし)は辛巳に在(やど)る十二月廿一癸酉日入(にちにゅう)、孔部間人(あなほべのはしひと)母王崩ず。明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩ず。時に多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)、悲哀嘆息し、天皇の前に畏み白(もう)して曰く、之を啓(もう)すは恐(かしこ)しと雖も懐う心止使(とど)め難し。我が大皇と母王と期するが如く従遊(しょうゆう)す。痛酷比(たぐ)ひ无(な)し。我が大王の告(の)る所、世間は虚假(こけ)、唯だ仏のみ是れ真なり、と。其の法を玩味するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国の中に生まるるべし、と。而るに彼の国の形、眼に看叵(みがた)き所なり。悕(ねがは)くは図像に因り、大王往生之状(さま)を観むと欲す。天皇之を聞き、悽然として告(の)りて曰く、一の我が子有り、啓(もう)す所誠に以て然りと為す、と。諸(もろもろ)の采女等に勅し、繍帷二張(ぬいもののとばりふたはり)を造る。画(えが)く者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)、令(うなが)す者は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)なり」

(現代語訳)
 「辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳を作らせた。画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である」
(出典 Wikipedia)




2017年9月1日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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仏教伝来 仏教受容論争 廃仏崇仏論争 蘇我氏と物部氏の対立 物部氏滅亡 百済

2017-07-28 06:17:17 | 評論
古代史探訪 仏教伝来の真実
 538年(宣化3年 欽明7年)、百済聖明王は、仏教を正式に倭国に伝えた。
 「仏像・経教・僧」(上宮聖徳法王帝説)が倭国にもたらされる
 一方、日本書紀では、552年、「百済聖明王、釈迦仏金剛像・幡蓋・経論」を倭国に献ずる」と記されている。
いわゆる「仏教公伝」である。

 仏教は、当時、東アジア国々にとって、「先進性」の象徴だった。
 蘇我馬子は仏教を取り入れることで国際的に通用する「先進」国家に改革しようとした。
合わせて蘇我馬子は50年以上も権力の中枢にあって、政治制度の改革や外交関係も推進していく。

 百済は、なぜ、倭国に仏教を伝えたのであろうか?
 その謎を解くためには、当時の百済を取り巻く朝鮮半島情勢や倭国との関係を理解しなければならない。

 百済は、漢江流域の漢城(ソウル付近)で興ったが、高句麗の侵攻を受け、激しい抗争を繰り広げていた。

 372年、近肖古王は、倭国に七支刀(作成は369年 天理市石上神宮所蔵・国宝)を献じた。七支刀は東晋で製作され、倭国に送ったものと見られている。
 高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、七支刀を贈ったとされている。

 475年、高句麗が3万の兵の大軍で百済を攻め、百済、蓋鹵王が戦死し、漢城は陥落した。百済は、錦江上流の熊津城に遷都して再起を図った。

 512年(継体6年)、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済・武寧王は、「任那」の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁全(羅南道の東部の地域)の4県割譲を倭国に要請した。
大友金村はこれを承認し、代わりに五経博士の渡来を要請した。(日本書紀)

 513年、百済・武寧王は五経博士の段楊爾を献上した。(日本書紀)

 516年(継体10年)、百済は五経博士・段楊爾に代えて五経博士・漢高安茂を貢上した。
倭国は、五経博士、易博士、暦博士、医博士などが交代で倭国に渡来する「上番」を求めていた。547年、553年、554年にも「上番」が実施されている。
任那地域の「割譲」の引き換えに、百済の文化や仏法の受け入れを求めたのである。
 両国の利害関係が一致した外交関係であった。

 527年、倭国王権は 「任那」の復興を目指し、継体天皇は近江毛野(おうみのけぬ)が率いる新羅征伐軍、6万の軍勢を朝鮮半島に派遣しようとした。    
6世紀に入ると新羅は、高句麗から自立し、国家体制を固め、伽耶地域を巡って、百済と争った。新羅は大伽耶(大加羅)と同盟を結び、524年以後、任那加羅(金官加羅)に侵攻した。

 532年、 新羅は伽耶の主要国、金官伽耶を併合し、金官伽耶滅亡した。
伽耶地域の新羅・百済の派遣争いが激化した。
 一方、高句麗は、さらに南下して百済を攻撃した。
百済は、ついに錦江上流の熊津城を放棄、錦江中流域の泗沘城(扶余)に遷都した。

 百済は中国南朝の梁との関係も強化している。
武寧王が521年、聖明王が524年に、中国南朝の梁の皇帝から「冊封」された。
541年、梁に使者を出し、「涅槃等経義・毛詩博士、並工匠、画師」を要請している。百済は、梁と文化的な交流も行い、仏教や儒教、移民の請来に積極的だった。(南朝仏教の影響)
 
 535年、新羅、「任那」を襲う。

 537年 大友金村の子、大伴連沙手彦を任那に派遣し百済を救援する。もう1人を筑紫に派遣し、新羅の襲撃に備える。
 
 538年(宣化3年 欽明7年)、百済聖明王は、仏教を正式に倭国に伝えた。
「仏像・経教・僧」(上宮聖徳法王帝説)、「釈迦仏金剛像・幡蓋・経論」(日本書記)が倭国にもたらされる。

 541年、「任那」復興に熱意を燃やしていた欽明天皇は、百済聖明王に詔を送って、任那の領土回復を要請、これを受けて百済聖明王は「任那復興会議」を、百済の都・泗沘城(扶余)で開催した。
会議には、任那地域の残った7カ国の王や皇子、任那日本府より吉備臣が参加、冒頭に欽明天皇の詔を拝聴し、百済。聖明王が議長となって会議は進められた。
会議の実態は、「結束」の確認程度だったと考えられる。

 548年(欽明9年)、高句麗、陽原王が南下して、百済に侵攻、新王宮、扶余に接近する。百済は、新羅と結び、高句麗を撃退した。倭国は、百済に370人をおくり、築城を助ける。

 552年、百済聖明王、「釈迦仏金剛像・幡蓋・経論」を倭国に献ずる。(日本書記)
 
 553年、百済は、高句麗に対抗するため、倭国に軍事的な支援を求める。
倭国は、軍事的な支援をすると同時に、儒教の五経博士と仏教の僧、易博士、暦博士、医博士、採薬師、楽人などの上番(倭国に交替で勤務すること)を求めた。
倭国は、百済への軍事支援と引き換えに、百済から、仏教や文化、技術の受け入れに全力を挙げた。「先進国家」への脱皮を目指す倭国にとって、百済との関係強化は必須であった。

 554年、百済、僧曇慧と医・易、暦・医博士を進貢し、倭国に軍の派遣を再び要請、倭国は百済に兵1000人、馬100匹、船40隻をおくる。
倭国・百済連合軍、新羅と戦うが、新羅に敗れ、百済、聖明王は戦死する。

 562年(欽明23年)、高句麗の攻勢で、百済が窮地に立つ中で、新羅は伽耶諸国に進出し、大伽耶(大加羅)を滅ぼす。新羅は伽耶諸国全域を支配化に入れる。「任那官家」は滅亡した。倭国王権に衝撃を与える。

■ 552年(壬申)説
 『日本書紀』では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王が使者を使わし、「釈迦金銅像一体と幡蓋若干、経典若干」とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の潤色とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
伝来した年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり「末法元年」となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたるとする説があり、「欽明十三年」は、後世の「改竄」の可能性の論拠となっている。
 また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
しかしながら上表文の存在そのものは、十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文献上の事実そのものはあったとされている。

■ 末法思想
中国の仏教は、時には国家の庇護を受け絢爛豪華な文化として花開いた時期もあるが、対立する道鏡勢力の巻き返しや肥大化した経済力が狙われることもあり、国家による弾圧少なくなかった。
保護と弾圧の繰り返しが中国仏教の歴史だったが、隋唐時代においては、552年が末法元年とされ、末法思想が盛んになった。末法思想とは仏法が衰えるという悲観的な思想ではなく、廃仏が行われる末法の世だからこそ仏法を信奉するものは全力を尽くして仏法再興に邁進しなければんならないという考え方である。仏法興隆のための士気高揚の思想である。
  
■ 538年(戊午)説
 『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。
しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には「戊午の干支年」が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられた。
しかしその後の研究で、日本書紀の「仏教伝来」の記述の中に、淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが明らかになり、「戊午年」の記述は、書紀編纂時以降になされた可能性が指摘され、日本書紀の「552年」は、論拠として弱くなった。
現在は両書に共通して記述のある「戊午年」を以って「538」年とする説が有力である。

仏教受容論争 廃仏か? 崇仏か?
 仏教伝来で、百済からもたらされた「経典」は直ちに理解できたとは思えず、目を奪われたのは、まばゆいばかりの黄金の「釈迦仏」だったことに間違いない。欽明天皇は
「西蕃の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾て看ず」と特に仏像の見事さに感銘したとされている。
 * 蕃神(あたしくのかみ):外国の神

 538年(欽明7年)、百済の聖明王は、倭国に軍事協力を求め、仏像、幡蓋(はたきぬがさ)、灌仏器(かんぶつき)、経論(きょうろん)を献じた。(「上宮聖徳法王帝説」、「元興寺縁起」)

 欽明天皇は、仏像の相貌に感銘を受け、「歓喜び踊躍り」(よころびほどはしり)て、「朕、昔よりこのかた未だ曾て是の如き微妙しき法を聞くこと得ず」(くほしきのり)としたが、「然れども朕、自ら決むまじ」(しかれどもわれ、みずからさだむまじ)と、仏教の受容については大王が専決できず、群臣会議(マエツキミ)に受容の是非を諮った。

 欽明天皇
 「西蕃(にしのとなり)の献りし仏の相貌、端厳にして全く未だ看ず。礼すべくや否や」
 蘇我稲目
 「西蕃の諸国、一に皆礼ふ(うやまう)。豊秋日本(とよあきづやまと)、豈(あに)独り背かむや」
 物部尾輿・中臣鎌子
「我が国家(みかど)の、天下に王とましますは、恒に天地社稷(あまやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつり)りたまうことを事と為す。方に今改めて蕃神(あたしくのかみ)を拝みたまはば、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」

 蘇我稲目は、「「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができるだとうか」と崇仏を主張、物部尾輿と中臣鎌子は、「「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいる。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがある」と反対を主張した。
 欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。
 欽明天皇は、蘇我稲目に仏像を与えることにし、蘇我稲目は小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺にした。
直後に疫病が流行し、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇は廃仏を認めた。
 物部氏は、蘇我氏の礼拝する仏像を難波堀江に流棄した。
 「日本書紀」は、「無雲風雨」と描写する。

 570年、蘇我稲目死去し571年、欽明天皇死去する。

群臣会議
 ヤマト王権では、6世紀初めから、「大連」、「大臣」に次ぐ地位にある有力豪族を「大夫」(まえつきみ)とするのが慣例だった。「まえつきみ」というのは、「大王のそばに仕える臣」という意味である。
「大連」、「大臣」や「大夫」は、「群臣会議」を構成し、「大王」の後継者選びや仏教受容、外交政策など王権にとって重要な課題について、「大王」から諮問を受けて、議論をしたとされている。
「群臣会議」の「議長」は、「大臣」で、蘇我氏である。ヤマト王権で、勢力を保持するには、「大夫」となって「群臣会議」のメンバーになることが必須であった。
 「群臣会議」の役割は大王の後継者選びである。大王の後継者選びについては、たびたび支配者層で争乱が引き起こされていた。そこで大王が「群臣会議」に諮り、有力豪族で合意をした上で「推挙」するのが慣行になった。その際に大王の遺詔など「意向」も尊重されたのは言うまでもない。後継者が決まると、大王の後継者に、帝位を象徴する剣は鏡など宝器(レガリア)を献上し、新天皇が即位する。
 また、仏教受容については、王権にとって特に重要な政策課題とされ、たびたび群臣会議に諮られた。
 対朝鮮政策や隋・唐との関係についても、群臣会議に諮るのが当時の慣行であったと思われる。

 6世紀初めから、「大連」、「大臣」に次ぐ地位にあるものを「大夫」(まえつきみ)とするのが慣例になった。
536年(宣化元年 欽明5年)、欽明天皇は、大伴金村、物部麁鹿火を「大連」に、蘇我稲目を「大臣」、阿倍大麻呂臣を「大夫」(まえつきみ)に任じた。
 「大夫」が登場するのはこれが初めてである。当時、「阿倍氏」は「臣」の姓を持つ豪族の中で、葛城氏に次ぐ地位にあった。
その後、「大夫」の数は徐々に増え、推古朝には、10人余りの「大夫」がいたとされる。冠位十二階を制定した時には、「大夫」に十二階の中の上位二階(大徳・小徳)を与えた。以後、大徳・小徳の冠位を授かった者が、「大夫」とされるようになった。
 610年、新羅・任那の使者が小墾田を訪れた際、王宮で迎えた「大夫」は4人、10人余りいた「大夫」の上位4人だっと思われる。

蘇我馬子の権力統治 「分家独立」政策
 蘇我馬子は、蘇我稲目から受け継いだ権力を、画期的な方法で強大なものにしていく。当時の大和政権は、大臣主宰で有力氏族の代表者、群臣による合議制で行われていた。馬子は、弟たちを「分家」させて、独立させ、「群臣」の一人として加えることで、多数派が形成できるようにした。
 蘇我氏の分家は、蘇我稲目の弟たちの「河辺」、「御炊」、「田口」、「高向」がすでにあった。
 蘇我馬子は、新たに自らの弟たちを分家させ、「境部氏」、「小治田氏」、「久米氏」、「桜井氏」、「田中氏」、「箭口氏」、「葛城」の氏族を誕生させ、蘇我馬子は「蘇我本宗家」となった。
 蘇我馬子の弟、境部摩理勢は、物部守屋を滅ぼした後、王権第二の実力者に成り上がっていた。堅塩媛(推古天皇の母)の改葬が行われた際の「誄」(しのびごと)」を述べた順位から境部摩理勢の地位がわかる。
 大王、諸皇子、大臣蘇我馬子が述べた後に、境部摩理勢が「誄」を述べた。
 蘇我馬子に次ぐ地位を占めていたことが明らかだ。
 境部摩理勢は、冠位十二階の最上位の「大徳」の冠位を授けられ、「大夫」の地位に就いた。「大徳」の冠位を授けられたのは、大伴囓と境部摩理勢の二人だけだった。

蘇我氏は群臣会議(まえつきみ)を支配

 群臣会議には、各有力氏族から一人ずつ代表が出て、合議体が形成されて、倭国王権の皇位継承者や仏教受容などの重要事項を決めていた。
 群臣会議は、大王の意思や発言力を凌ぐほどの権力を持った合議体であったという説もある(倉本一宏氏)。一方で、意見は奏上するが、最終的には大王の意思を追認したにすぎないとする説もある。
蘇我稲目の時代は、群臣会議の「議長」として蘇我稲目一人だけが、蘇我氏から加わっていた。
 その後、蘇我氏は同族の氏族を独立させ、群臣会議に参加させる道を開いた。
 群臣会議の構成員数は、明らかになっていないが、欽明朝から崇峻朝までは17の氏族からそれぞれの代表が参加していたとされている。
推古朝になると、蘇我氏同族の官人も群臣会議の構成員となり、「蘇我」、「河辺」、「御炊」、「田口」、「高向」蘇我氏一族の代表者計五人が群臣会議に入る。
合わせると概ね3分の1を占めていたとされている。
 こうして、蘇我氏は大臣の蘇我馬子が「群臣会議」を仕切ることで政治権力を掌握した。
 しかし、蘇我氏は「群臣会議」で多数派を形成することに成功したが、多数の「分家」が独立したことで、その後、蘇我氏一族の中で、主導権を巡って抗争が始まる。
蘇我氏「分家」独立させ、他の「大夫」氏族と同様の権限を持たせると、これまで本宗家が一元的に握っていた蘇我本宗家の支配権が揺らぐ。それぞれの「分家」が独立した政治的行動を始めたからである。蘇我本宗家に対して公然と反旗を翻すことも起きてきた。
 それぞれ別個の氏族の氏寺を建立することもその一環だろう。
 とりわけ河内を本拠地とする蘇我氏一族は、蘇我本宗家から独立した立場を取ることが多かったとされている。
 推古天皇後継大王の選定や、山背大兄皇子討伐、乙巳の変に際し、その危惧は表面化した。
 
孝徳朝の群臣(マエツキミ)
蘇我氏が「大臣」の他に、一族から複数の群臣(マエツキミ)を群臣会議に参加させるという形態は、乙巳の変以後も維持された。
 孝徳天皇の代に見えるマエツキミは、21氏33人で、蘇我氏系官人は6氏7人を占め、推古天皇時代の割合を維持している。
 蘇我倉氏が蘇我倉山田石川麻呂と日向、河辺氏が百依、磯泊、磐管、湯麻呂、麻呂、高向氏が国押、田口氏が筑紫、久米氏が欠名、岸田氏が欠名である。
 蘇我氏は、いくつもの同族氏族に別れ、それぞれが独立性を有した。蘇我本宗家が滅亡した後も、「新政府」に重用された。
 646年に東国八道に派遣された国司にも6人の蘇我氏系官人が拝された。
 地方豪族に合い対峙するには、蘇我氏の権威を利用することが適策とされたと思われる。

蘇我氏と物部氏の対立
 572年、敏達天皇が即位、「大連」には物部守屋、「大臣」には、蘇我馬子を再任した。蘇我馬子は当時22歳、青年「大臣」だった。
王権の中での主導権争いは、大伴氏が失脚して、物部氏と蘇我氏の「一騎打ち」となった。
 欽明は、敏達に対して「任那復興」の遺詔を残して逝去した。
敏達天皇は、仏教導入に対しては否定的で、「仏法を信けたまわずして、文史(文章と歴史)を愛したまう」(日本書紀)とし、仏教受け入れに否定的な姿勢だった。
 非蘇我氏系として大王に就いた敏達天皇は、物部氏と蘇我氏が対立する中で、物部氏側につき、「廃仏」に組した可能性は否定できない。

 蘇我馬子は、物部守屋の妹を妃として迎えた。(姪という説もある)
 その間に生まれた子が蘇我入鹿である。
 二十歳の青年だった蘇我馬子は、当時、群臣の中で勢力を堅持していた物部守屋の支えを必要とした政略結婚だろう。
 守屋は入鹿の義兄として若い大臣、諸臣に対して、蘇我入鹿の「後見人」として振る舞ったのであろう。

 577年(敏達6年)、敏達天皇は、大別王(おおわけのみこ)や難波吉士木蓮子を百済に派遣し、百済、威徳王から、「経論若干巻、あわせて律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工、6人」、「弥勒石像1軀」と「仏像1躯」が進上された。
大別王は、大王の許しを得て、難波に寺を建てた。大別寺と呼ばれ、百済の渡来人が布教を行ったとされている。しかし、王権は、大別寺を庇護しなかったために、大別王が死去すると廃寺となる。

 579年(敏達8年)、新羅は、倭国に仏像を進上した。その後どうなったが日本書紀に記述がない。

 584年(敏達13年)、百済から帰朝した鹿深臣が弥勒像の石像一体、佐伯連が仏像一体を安置していた。当時、両者は寺を建てることは許されていなかった。そこで蘇我馬子はこれを請うてもらい受け、仏像を祀る修行者を、司馬達等と池邊氷田を派遣して探させたところ、播磨国で高句麗の渡来者、恵便を得た。恵便は、高麗で還俗していたが、仏法を修めていた。
 馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋女を得度させて尼とし善信尼となった。当時11歳の少女だった。更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。蘇我馬子は、仏法に帰依し、蘇我稲目が建てた倭国で最古の寺、向原寺を整備し、三人の尼僧に招き、自宅の東方には仏殿を建てて弥勒石像を安置した。
 向原寺(桜井寺)は、588年、物部氏によって破壊されたが、その後再建され、603年、推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に遷都した際、向原寺は豊浦に遷り、尼寺である豊浦寺が営まれた。桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれた日本最古の尼寺である。
向原寺には三人の尼を招き、仏殿で弥勒石像の供養をした際に、参列していた司馬達等らの椀の上に、突然、仏舎利が出現し、蘇我馬子は、仏舎利を篤く祀ることにした。
 まず石川の別宅を寺院とし、石川精舎とした。
続いて、「大野丘の北」に塔を造って、仏舎利を遷して祀った。倭国で初めての「塔」の建立である。
 「大野丘」は蘇我氏の居住地の一つとされ、「和田廃寺」(今の橿原市和田町)が「大野丘の北」の跡に古くから比されている。
 585年(敏達天皇14年)、「大野丘の北」に仏殿を造営し、弥勒石像を安置して、盛大な法会を行う。
 日本書記には、「仏法の初(はじめ)、これより作れり(おこれり)」と記されている。
 「大野丘の北」に塔は、その後、向原寺(豊浦寺)に遷された。

 この年、「大臣」・蘇我馬子は病になり、卜者に占わせたところ父の稲目のときに仏像が破棄された祟りであると言う。馬子は敏達天皇に奏上して、仏法を祀る許しを得た。蘇我馬子は精舎で仏法を崇めた。
 しかし、この頃から疫病が流行し、多くの死者が出た。

 585年、物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために、国神が怒り、疫病が起きたと奏上し、「仏神」の禁止を求めた。
 これに対して、「仏法を信けたまはずして、文史(しるしふみ 文章と歴史)を愛(この)みたまふ」としていた敏達天皇は、物部守屋と中臣勝海の上奏に対して、「灼然(イヤチコ=明らか)ならば、仏法は止めよ」と仏法を止めるよう「詔」を下した。敏達天皇は、仏教興隆の動きが高まるなかでも、仏教に対しては「頑固」に否定的な姿勢をとったとされている。一方で、中国の学問は良く学んだと伝えられている。
 敏達天皇の「詔」を受けて、物部守屋は、自ら向原寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、を難波の堀江に投げ込ませた。(「元興寺伽藍縁起」)
 「仏」をないがしろにした「祟り」だとしたいのだろう。
 「焼く所のあまりの仏像が難波に捨てられ」て、「無雲風雨」(雲は無く、風が吹いて、雨が降った)と描写する。(日本書紀)

 難波の海に流したのは、「百済に返れ」という意味が込められていた。

 さらに蘇我馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、向原寺にいた司馬達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼の三人の尼を差し出すよう命じた。馬子が尼を差し出すと、守屋は、海柘榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、尼の衣をはぎとって全裸にして縛り上げ、尻を群衆の目前で鞭打った。
 海柘榴市は、百済の聖明王からの仏教が伝来した最初の地である。
 飛鳥時代、中国や朝鮮半島の使節は、難波津に上陸して大和川を川船でさかのぼり、川船の終点地、海柘榴市に着いたとされている。 
海柘榴市は、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝、物資が集まり、我が国最古の交易市場が成立していた。

 しかし、疫病、「瘡」(天然痘)は一向に治まらず、まもなく敏達天皇も物部守屋も病に伏してしまう。人々は仏像を焼いた罪であると言い合った。
 その後、蘇我馬子は病が癒えず、再び奏上して仏法を祀る許可を求めた。
敏達天皇は馬子ひとりのみこれを許し、三尼を返した。蘇我馬子は三尼を拝し、新たに寺を造り、仏像を迎えて祀った。

■ 善信尼
 584年(敏達天皇13年)、高句麗から渡来した僧・恵便(えびん)に師事して出家し、善信尼と名乗った。同年、蘇我馬子が邸宅内に百済から請来した弥勒仏の石像を安置した際、弟子となった恵善尼・禅蔵尼とともに斎会を行ったと伝えられる。
 585年、物部守屋は大野丘の仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。そして善信尼や弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼をは捕えらえ、衣をはぎとって全裸にされて、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎に連行され、群衆の目前で鞭打たれた。
 588年(崇峻天皇元年)、戒律を学ぶため百済へ渡り、590年(崇峻天皇3年)3月に帰国。帰国後は大和国桜井寺(明日香村豊浦か?)に入り、善徳など11人を尼として出家させるなど、仏法興隆に貢献した。
 司馬達等(しばたっと)の娘、仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたる。中国からの渡来人、恵善尼(えぜんに)、禅蔵尼(ぜんぞうに)とともに得度、出家したといわれる日本最初の尼僧の一人

■ 難波吉士木蓮子
 飛鳥(あすか)時代の官吏。
 敏達天皇4年(575)、任那に使者として派遣され、敏達13年(584年)新羅へ遣わしたが、至りえずして任那に赴いた。崇峻天皇4年(591)、任那を再興しようとして、紀男麻呂ら4人の大将軍が、2万余の兵を率いて筑紫に出陣したとき、任那に遣わされ任那のことを問うた。推古天皇8年(600)、新羅王が任那を攻めたとき、天皇は大将軍境部臣らを遣わし新羅を撃たしめた。新羅はわれに降伏し、六城を割いたが、天皇はさらに難波吉士神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に遣わして、事の状を検校せしめ、両国はわが国に貢調したとある新羅と任那があらそった際にも任那に派遣され、事情をしらべたという。

崇仏廃仏論争 仏教受容論争
  崇仏派論争は、(1)存在したという説 (2)存在しなかったという説
(1) 蘇我氏と物部氏との対立は、政治的対立で、仏教受容を巡るものではなかった。
(2) 仏教受容を巡る対立はあったが、物部氏は崇仏派の蘇我氏に対抗するためだった。蘇我氏の物部氏討伐は、政治的権力闘争の結果で、早晩おこるべきものであった。
(3) 皇位継承争いを巡る対立であった。
(4) 宗教的対立はあった。

 飛鳥寺が蘇我氏の「私寺」として造営されたことから、当時、支配層の間で仏教受容を巡る対立があったと考えられる。
しかし、物部氏は元来排外主義的な豪族ではなかったし、物部氏の本拠地に「渋川廃寺」が発見され、物部氏が造営したと思われていることなどから、 廃仏一辺倒であったとは考えられない。

物部氏と仏教
 物部氏や中臣氏はその後、廃仏を貫いたわけではない。
 物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏寺を建立していたことが明らかになっている。
 物部氏が、仏教受容を巡って蘇我氏と激しく対立したのは、仏教受容そのものに抵抗したのでなく、誰が、どうやって仏教受容を進めるかであったと思われる。
 物部氏は、代々、在来の神々の祭祀を司ってきた氏族で、大王の任を受け、「蕃神」・仏教を司るのは、自分たちの氏族で、「蕃神」であってもその祭祀を行うのは物部氏の他はないとする自負があった。それが裏切られたことで、仏教受容を巡って、蘇我氏に対し執拗に攻撃を加え続けたと考えられる。
 蘇我氏が、大王の任を受け仏教崇拝を主導していることに、「名負いの氏」物部氏の面目がまったくつぶされてしまった。その怨念が、廃仏に現れたのであろう。

「三宝興隆の詔」
 594年(推古2年)、推古天皇は、厩戸皇子と蘇我馬子に「三宝興隆の詔」を出した。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。
「上宮聖徳法王帝説」には「聖徳王、嶋大臣と共に謀り、仏法を建立し、更に三宝を興す」と記されている。
 「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 蘇我氏の仏教興隆に果たした役割は極めて大きい。
 鞍作氏という仏師の一族を支えたのも馬子の経済力で、仏教芸術への理解の結果である。玉虫厨子や止利仏師は、馬子の庇護なしには存在しない。
 595年(崇峻3年)、百済僧、慧聡・観勒、高句麗僧、慧慈を招来し、法興寺(飛鳥寺)に迎える。蘇我氏が主導したのは間違いない。慧聡、慧慈はその後、厩戸皇子の仏教の「師」となる。

 慧慈と慧聡については、日本書紀は「此の両僧、仏教を弘演し、並び三宝の棟梁と為る」と記し、「三宝の棟梁」と称されて仏教の「師」として仏教興隆に努めた。
 「日本書紀」には厩戸皇子が「内経(仏教)を高麗の僧慧慈に習い、外典(儒教)を博士覚哿(かくか)に学び、並びに達りたまひぬ」と記されている。
 覚哿は、百済の五経博士、儒教の経典を伝えた。
 学問の師を記述した部分は極めて具体的で信憑性があるとされている。。

観勒
 602年(推古天皇10年)に渡来した百済僧。天文、暦本、陰陽道を伝える。
 ヤマト王権は「書生」を選んで、観勒に学ばせた。暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、方術は山背日立が観勒に学び、みな成業したという。
暦本は604年に聖徳太子によって採用された(ただし正式な暦法の採用は持統朝である)。仏教だけでなく天文遁甲や方術といった道教的思想が、まとまった形で観勒によってもたらされた。
 624年(推古32年)に、日本で最初の僧正に任命された。
この年ある僧が斧で祖父を殴る事件が起こり、天皇はこの僧だけでなく諸寺の僧尼を処罰しようとした。この時観勒は上表して、日本に仏教が伝来してまだ百年にならず、僧尼が法を学んでいないことからこのようなことが起こったとし、事件を起こした僧以外は罰しないよう求めた。推古天皇はこれを許し、この時に初めて僧正・僧都の制を定め、観勒を僧正に任じたという。

飛鳥寺建立
 588年(崇峻元年)、飛鳥寺の建立が始まる。国内では初の本格的な寺院である。物部守屋を討伐した翌年である。
 真神原にあった飛鳥衣縫樹葉の家が解体され、寺院建立の整地作業が始まる。
 真神とはオオカミの意、神の使いとして畏怖されるオオカミが群生する神聖な地が伽藍造営の地に選ばれた

 同じ年、百済は僧恵総、令斤等を遣わし、仏舎利を献上した。朝貢物を進上するとともに、僧6人、寺工(てらたくみ)(寺院建設技術者)2人、鑪盤博士(ろばんはかせ 塔の鑪盤や相輪造営する工人)1人、瓦博士3人、画工(えかき)(仏画、仏具の制作者)1人を派遣した。
 百済は、すでに577年(敏達7年)、経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工の6人を進上している。
 飛鳥寺造営工事の技術者は整った。

 蘇我馬子は、善信尼を、帰国する百済の使者、恩率首信らに託し、仏法の修行に渡来させた。善信尼は、まだ当時15歳だった。
建設を開始した飛鳥寺(法興寺)の完成を待つと、善信尼と2人の尼僧の受戒が遅れてしまうので、百済に遣わしたとされている。
 隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つもので、海外で仏法を修行した最初の僧である。百済で十戒、六法、具足戒を受けた。 591年、2年間の留学を終えて帰国し、蘇我馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ4人の女性と8人の男性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

 590年(崇峻3年)、飛鳥寺の造営工事が始まった。この年、「杣取り(そまどり)」(杣山 木材を切り出す山 杣取り 杣木を伐採すること。また、造材すること)が始まり、ヒノキの大木が切り出された。
 592年(崇峻5年)、「杣取り」から2年後、仏堂(金堂)と歩廊を起工した。
 この年、崇峻天皇が暗殺される。

 593年(推古元年)、「刹柱」を建て、「仏舎利」を心礎に納める儀式が執り行われた。儀式の際、蘇我馬子は、頭髪は僧形にして、「百済服」を着ていた。(元興寺縁起)
 この時代寺院建築の手順は、仏舎利を柱頭に納めた刹柱塔を建て、寺院造営を天に告げる。そして仏舎利を心礎に納めた層塔を造り、地に向かい寺院建立を告げ、金堂や回廊を備えた伽藍を造営する。
 刹柱塔の用材は、層塔の心柱に利用される。
 この年、推古天皇が即位、厩戸皇子が「太子」となり「摂政」を任じられる。

 594年(推古2年)、「三宝興隆の詔」を出す。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 595年(推古4年)、高句麗から、慧慈が渡来し、厩戸皇子の「師」とする。
 同じ年、慧総が、百済から渡来する。

 596年(推古4年)、「層塔」が完成し、「中金堂、西金堂、東金堂、塔、講堂、中門、回廊」からなる伽藍が完成する。
 飛鳥寺「造り意(おわる)」(日本書紀)と記されている。
 蘇我馬子の子、善徳が「寺司」に任じられ、慧慈、慧聡の二人の僧は、飛鳥寺の「住持」に就いた。慧慈は、厩戸皇子の師になるために渡来したのではなく、飛鳥寺の「住持」就くことがが目的だったのであろう。

 598年、厩戸皇子、斑鳩の地に刹柱が建て、斑鳩寺の建立開始。

 605年(推古14年)、丈六釈迦如来像の造立を発願する。
高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記)高句麗僧、慧慈が本国に情報を伝えたのだろう。高句麗の倭国接近戦略である。

 606年(推古14年)、鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏が完成、「金堂」に安置する。「金堂」は、遅くともこの頃までに完成したと考えられる。

 610年(推古18年)、高句麗の僧、曇徴・法定が来朝。

 飛鳥寺の伽藍の配置様式は、塔の周りに三金堂(中金堂、西金堂、東金堂)を配置する一塔三金堂方式で、回廊で囲まれている。この様式は、高句麗の清岩里廃寺(平壌市)に類例があるとされてきた。
 これにたいして一塔一金堂方式の伽藍配置の四天王寺式は百済から伝わった様式だ。
 二つの寺から出土した瓦は、百済風の瓦で、百済から渡来した「瓦博士」に対応する。

 2007年11月、百済の扶余に位置する王興寺という百済時代の寺院跡で、重要な発見が相次いだ。
 百済時代、扶余は泗沘と呼ばれ、都が置かれていた。
 百済の王によって建立された王興寺の伽藍は、発掘調査により、中央に五重塔、背後に金堂、塔の東西に付属の建物が配置されていたことが明らかになった。飛鳥寺との関係が指摘されている。
 また舎利容器や数々の工芸品が発見され、飛鳥寺の五重塔の下からの同様の遺物が発見されており、飛鳥寺と百済の仏教文化の関連性を示す貴重な手がかりとなった。
 飛鳥寺の伽藍配置も、百済から伝わったと考える方が、仏教伝来の経緯を見ると納得できる。しかし、その伽藍配置は、高句麗から百済に伝わった可能性が大きい。

 1956年の飛鳥寺遺構の発掘調査で、塔の地下式心礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利とともに埋葬された硬玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラスの玉、金環(耳飾り)などの舎利荘厳具が発掘されている。
こうした埋葬物は古墳の埋葬物と似ている。馬具や武具なども収められていたとされている。倭の独自性がある。
現在の飛鳥寺は、旧中金堂の位置に建てられている。飛鳥大仏が安置されているが、建立当時から残っているのは頭部と目や額の一部のみだ。

 厩戸皇子の建立した斑鳩寺(若草伽藍)の着工は、厩戸皇子が斑鳩宮に移住した605年とされている。(670年 焼失)
伽藍配置方式は、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王式配置である。
再建された法隆寺は、法隆寺方式と呼ばれる伽藍配置方式だ。

飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺の造営順序は?
 最近の発掘調査の結果、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺で使用された軒丸瓦(のきまるがわら)は、いずれも同じ「瓦笵」(がはん 瓦用の木型)で作られたいたことが明らかになっている。瓦の製作を指導したのは、588年に百済から渡来した「瓦博士」だろう
 四天王寺の瓦は、飛鳥寺や斑鳩寺の瓦より一時期新しく、四天王寺の金堂は、斑鳩寺の金堂造営が一段落してから、造営されたと見られている。
 三寺の造営順は、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王とされ、四天王寺は斑鳩寺の造営が一段落してから行われたと考えられる。
 飛鳥寺、斑鳩寺、四天王の造営で、「飛鳥文化」の花が、一気に開いたのである。

「先進国家」のシンボル飛鳥寺
 600年、第一回遣唐使が派遣され、隋皇帝、文帝から「これ大いに義理なし」と叱責され、倭国は、政治制度の改革や都の整備、仏教興隆に全力を挙げて取り組む。
 飛鳥寺は、606年ごろ、金堂も完成し、伽藍全体が完成したと考えられる。鞍作鳥が制作した丈六の釈迦繍仏像も完成し安置された。
そして、その翌年、607年、遣隋使、小野妹子が派遣される。
唐に対して、倭国が、「先進国家」であり、朝鮮半島三国の上位にあることを認めさせるために、仏教文化の充実度を示して国力を誇示することは必須であった。
 そのシンボルとして飛鳥寺を建立したのである。
 隋は、当時、仏教全盛時代であった。

 608年、唐史、裴世清は小墾田宮を訪れたとされている。 完成して間もない飛鳥寺を来訪した可能性が大きい。壮大な伽藍で、国力を誇示する飛鳥寺のインパクトは大きかったのではないか。

外交政策を担っていた蘇我氏
 570年(欽明31年)、高句麗の朝貢使が渡来したが、越(こし、現・福井県敦賀~山形県庄内)の海岸に漂着した。ヤマト王権は、高句麗の朝貢使が滞在する賓館、「相楽館」(さがらか、相良郡、現・京都府南端)に、群臣を派遣し、貢物を調査した上で、「国書(上奏文)」と「調物」を受けた。
572年(敏達元年)、敏達天皇は、「大臣」、蘇我馬子に、高句麗の「国書」を解読するよう命じ、蘇我馬子は配下の百済渡来人、王辰爾に解読させた。
「国書(上奏文)」はカラスの羽に書かれていた。黒い羽根に黒い墨で書いた文字はそのままでは読めないようにされていた、「史」と呼ばれる宮殿の書記が集められたが、誰も読むことができなかった。その時に、新たに「史」に起用されて「船氏」と名乗っていた王辰爾は、カラスの羽に飯たく湯気をあて湿らせ、布に写し取るという方法で解読した。敏達天皇と蘇我馬子は、これを褒め、大王のそばで使えよと命じた。そして、他の「使」を、「数は多いが、その中に誰一人として王辰爾に勝るものはいない」と叱責したという。(日本書紀)

 王辰爾に「船氏」の姓を授けて、「史」に登用したのは蘇我稲目である。蘇我氏は、ヤマト王権の外交政策において、蘇我氏は力を振るっていた。
王辰爾は、553年(欽明14年)、蘇我稲目の命で、難波津に赴き、船賦(ふねのみつぎ)をかぞえ記録し、難波津に寄港する船から徴税する税の制度を整え、船史(ふねのふびと)の姓を賜っていた。難波津も蘇我稲目が支配したことがわかる。
こうした記述からヤマト王権の外交関係は蘇我馬子が掌握したと考えられる。

 蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれた。
飛鳥川の畔の明日香村島庄に邸宅、「飛鳥河傍」に居を構えた。 邸宅の庭に小嶋の浮かぶ池があったので「嶋大臣」と呼ばれた。「勾の池」、「上の池」など複数の池があったとされている。
島庄にある島庄遺跡の発掘調査の結果、池は発見されたが、嶋は存在していない。謎である。

額田部皇女立后
 575年、敏達帝の皇后、広姫(息長真手王の娘 押坂彦人大兄皇子・逆登皇女・菟道磯津貝皇女を産む)が没する。
 額田部皇女は蘇我氏の出自であることを明確に自覚していた。
 即位後、「今朕(われ)は蘇何(蘇我)より出たり、大臣はまた朕(わ)が舅(おじ)たり。故(かれ)、大臣の言(こと)をば、夜に言(もう)さば夜も明かさず、日(あした)に言さば日も晩(くら)さず、何(いずれ)の辞(こと)をか用ゐざらむ」と日本書紀に記されている。
 額田部皇女は2男5女を産む。
 莵道貝鮹皇女(うじのかいだこのいらつめ)は厩戸皇子(聖徳太子 間もなく死亡)、小墾田皇女は押坂彦大兄、田眼皇女は息長足日額天皇(舒明天皇)の妃となった。
 厩戸皇子は用明天皇の長子、押坂彦大兄は敏達帝の長子、舒明天皇は彦人大兄の長子、額田部皇女の皇室内における地位は完璧だった。
 厩戸皇子は用明天皇の長子、押坂彦大兄は敏達帝の長子、舒明天皇は彦人大兄の長子、額田部皇女の皇室内における地位は完璧だった。

 立后の翌年、577年に「私部」(きさいべ)を設置。后(きさき)の地位にふさわしい経済的基盤ができる。政治力の源泉にもなる。
 一方、蘇我氏も天皇家の外戚関係を強固なものにする。
蘇我稲目のもう一人の娘、小姉君も欽明天皇の后となり、泊瀬部皇子(崇峻天皇)、穴穂部皇子、穴穂部間人皇女(用明天皇の后 厩戸皇子の母)をもうける

敏達帝殯宮の争い

 585年、敏達帝は病気で亡くなり、直ちに殯宮が設けられる。
殯宮は、特別の建物の喪屋で、埋葬するまでに行われる喪葬儀礼のことで、天皇の喪屋を「殯宮」という。天皇の殯宮儀礼は、1~2年続くことが多い。

「殯宮」のおける蘇我馬子と物部守屋の「誄(しのびごと)」に関するいさかいの記述が注目される。
 物部守屋は、蘇我馬子が「誄(しのびごと)」を奉る様子を、「猟箭中(ししやお)へる雀鳥(すずめ)の如し」と嘲笑った。
「猟(獲物の獣)を獲つ大きな雀」と笑ったのである。
蘇我馬子は、物部守屋を、「鈴を懸(か)くべし」と、手足を震わせて「誄」を行ったので、「鈴をかけると鳴るなるような仕草」と返した。
「誄」とは、単に故人を偲ぶ言葉ではなく、それぞれの氏族が王権に仕えた次第を述べるものであった。天皇への仕奉の在り方を述べることは、忠誠度を示し、王権の貢献度を表明するもので、敏達後の政治体制への意思表示である。
「誄」のやり方はそれぞれの氏族によって異なった特徴が表れたのかもしてない。蘇我馬子は大柄で、物部守屋は小柄だったのだろう。
いずれにしても、「誄」の場で、以前より存在した二人の対立が顕在化したのだろう。

穴穂部皇子 炊屋姫を襲う 三輪逆殺害
 穴穂部皇子は、欽明天皇と小姉君との間に生まれ、弟には泊瀬部皇子(崇峻天皇)がいる。皇位継承者では、極めて有力だったが、群臣の推挙などのプロセスを無視して即位しようと目論んだと考えられる。
 586年(用明元年)に、敏達皇后(豊御食炊屋姫 推古天皇)を姧そうとして、殯宮に侵入した。
 敏達皇后(推古天皇)と性的な関係を持ち、皇后の推戴で、即位をしようとしたのであろう。
 しかし殯宮を護衛していた三輪逆らに阻まれた。
穴穂部皇子は物部守屋と兵を率いて、三輪逆が潜んでいた「磐余の池辺」を取り囲む。「磐余の池辺」は、用明天皇の磐余池辺双槻の宮であろう。
穴穂部皇子は、「三輪逆討伐」を掲げて軍勢を動かし、真意は用明天皇や豊御食炊屋姫を討とうとしたと考えられている。
用明天皇は襲撃されて重傷を負った可能性も指摘されている。用明天皇は翌年、死亡している。
また、豊御食炊屋姫を捕らえて、意のままに王権を動かそうとしていた。
日本書紀は、用明天皇の死去の原因を記述するわけにはいかないで、大王として仏法へ帰依し、「蕃神」を礼拝した用明に相応しい死因として「瘡」を選んだのだという説を記したという説もある。。
三輪逆は、討伐軍の動きを察し三輪山に逃げ込み、さらに後宮(大后)の邸宅に潜伏したが、一族に居場所を密告され、襲撃されて殺害された。
三輪逆は、廃仏を唱え、敏達帝の寵臣であった。穴穂部皇子が、三輪逆を討伐したいと主張すると蘇我馬子も物部守屋も「仰せのままに」と了承した。 蘇我馬子は向原寺の焼き討ちに加わった三輪逆を嫌っていた。物部守屋は穴穂部皇子と結ぶのが得策だと考えたのであろう。
この事件を契機に、守旧派、物部守屋と開明派、蘇我馬子との対立は決定的になっていく。

用明天皇即位
 586年、敏達天皇の次に即位したのは用明天皇、欽明天皇と蘇我稲目の娘、堅塩媛との間に生まれた大兄皇子(おおえのみこ)である。
蘇我氏直系の天皇が初めて登場した。
 用明天皇は、磐余(いわれ 桜井市阿部)に池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)を造営。
 磐余には磐余池があり、池のほとりに「槻」(けやきの古名)の大木が二本あったので池辺双槻宮と呼ばれた。(現桜井市池ノ内)

 用明天皇は、即位後「仏法を信(う)でたまひ神の道尊びたまふ」(日本書記)として、「仏法」も「信」じて、「神」も「尊ぶ」と、群臣会議に諮った。これに対しての群臣の反応は記述されていない。
 新天皇は、即位ごとに群臣を任命するとともに、仏教受容や新羅遠征など重要政策については群臣に審議を求めるのが当時の慣行であった。

 587年(用明2年)、用明天皇は儀式の最中に病で突然倒れ、重体に陥り、「朕、三宝に帰らむと思う。卿等謀れ」(三宝(仏法)に帰依したい)とし、群臣に再び仏教の帰依を諮った。
群臣のうち守屋大連と中臣勝海連は、「何ぞ国神に背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」(どうして国是にすむいて、他国の神を礼拝するのか。今までにこのような話を聞いたことはない)と反対し、蘇我馬子は「詔に随ひて助け奉るべし。詎か(たれ)異なる計を生さむ」(おおせのままに大王をおたすけ申し上げるべきだ)と賛同を表明した。
蘇我馬子は、物部守屋と中臣勝海は、再び激しく対立した。

 587年、用明天皇崩御、崇峻天皇即位。

物部守屋と蘇我氏の抗争
 宮殿で行われていた群臣会議に、穴穂部皇子は、突然、「豊国法師」という僧侶を伴って現れる。「豊国法師」は医療活動を行っていたと思えるので、重病の用明天皇を見舞ったと考えられる。
 物部守屋は、これを睨み付けて、大いに怒る。
 これを見た押坂部史毛屎があわててやってきて、ひそかに「今、群臣、卿を図る。復将に路を絶ちてむ」と群臣が物部守屋を陥れようと企てて退路を断とうとしていると忠告した。
 物部守屋はこれを聞いて、河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)阿都の別邸(大阪府八尾市跡部)に退き、兵を集め、戦いに備えた。
 この時期には、仏教受容は、単に宗教上の対立を超えて、開明派、蘇我氏と守旧派、物部氏の政治的対立となっていた。

 中臣勝海は、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像を作り、呪詛した。しかし、反乱計画の不成功を知って、中臣勝海は彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った。自派に形勢不利と考え、一転して彦人皇子を擁して生き延びようとしたと考えられる。 その帰路に、押坂彦大兄皇子の舍人、迹見赤檮(とみのいちい)に斬殺された。
中臣勝海は、敏達(びだつ)天皇14年疫病の流行に際して、物部守屋とともに排仏を奏上していた。

 次期の皇位争いは、更に激しさを増して、蘇我馬子は敏達帝の皇后の豊御食炊屋姫を奉じ、物部守屋は穴穂部皇子を奉じた。

 用明天皇の死去の翌月、物部守屋は動く。
物部守屋は他の皇子には目もくれず、穴穂部皇子を立てて大王を継がせようとした。淡路島で狩猟を口実にして穴穂部皇子を誘い出し、謀議を行おうと企て、ひそかに使者を穴穂部皇子に遣わし、皇子と淡路で狩猟を楽しみたいとした。
 しかし、この企ては密告され、果たせなかった。

 蘇我馬子は、豊御食炊屋姫の詔を得て、佐伯連丹経手や土師連磐村、的臣親嚙を送り、穴穂部皇子と宅部皇子(穴穂部皇子の弟 皇位継承者の一人)を殺害した。
 その1か月後に、蘇我馬子は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子を先頭に立てて、紀男麻呂、巨勢臣比羅夫、膳臣拕賀夫、葛城臣鳥那羅を率いて、物部氏を攻めた(第一軍)。第二軍は群臣だけの軍勢で、大伴連嚙、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日仲臣も軍兵を率いて守屋の邸に迫る。
 押坂彦大兄皇子はこの戦列に何故か加わらない。これ以前に死亡した可能性もある。討伐軍に加わった豪族の9名の内、5名は葛城氏一族である。紀男麻呂は任那遠征軍でも活躍した老臣で、朝廷内では、蘇我馬子に次ぐ、第二位の地位を占めていたと思われる。葛城氏以外では、膳氏(安倍氏から分かれた豪族)、大伴氏、安倍氏、春日氏がみえる。
 竹田皇子を次期大王に就かせたいとしている額田部皇女の意向もあったと思われる。

 守屋は一族を集めて稲城(稲を積んで作った砦)を築き守りを固めた。
 軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏軍勢は強盛で、子弟や奴を集め、稲城を築いて戦った。守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。その軍勢は強く士気が高く、館に満ち、野に溢れた。
朝廷軍は、「怯弱くして恐怖りて三廻却還く」(みたびしりぞく)と、すっかり怖気づいて、三度の退却を余儀なくされた。
 朝廷軍は、犠牲者も多く出たであろうと思われる。
 これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり誓った。
 蘇我馬子も、勝利を祈願して、「願わくは当に諸天王、大神王との奉為に、寺塔と起立てて、三宝を流通へむ」と誓った。
馬子は軍を立て直して進軍させた。
 迹見赤檮(押坂彦大兄皇子の舎人 中臣勝海を殺害)が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。迹見赤檮は主君を裏切ったと考えられる。
 守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。この戦いを「丁未の乱」(ていびのらん)と称する。

 激戦の上、蘇我氏は勝利し、物部守屋一族は滅亡した。
 物部守屋の滅亡後、「餌香川原」に戦死者の腐乱した遺体が多数散乱していたという。(日本書紀) 大和川と石川の合流地点、藤井寺市の郊外で激しい戦闘があったことが伺える。
 王権からは、「大連」が消え。「大臣」蘇我馬子の独裁政権となった。

 厩戸皇子は、戦いの最中、四天王像を造り、勝利したら仏塔を建てると誓ったという。また蘇我馬子も「寺塔を起立てて、三宝を流通へむ」とした。
 厩戸皇子は、当時、十四歳だった。
 四天王寺と飛鳥寺の起源とされている。

 物部氏滅亡後、蘇我馬子は、物部氏の支配下にあった土地や人民など莫大な「財産」を奪取した。物部守屋の子孫と家臣、237人を四天王寺のとした伝えられている。
 日本書紀には「蘇我大臣馬子が病のため朝廷に出なくなった。勝手に紫冠を入鹿に授け、大臣の位に擬した。また入鹿の弟を物部大臣とよんだ。この物部大臣の祖母は、物部弓削大連の妹にあたる。そこで母方の財力によって、威勢を世に示した」(日本書紀皇極二年十月条)と記されている。
 蘇我馬子は、宿敵物部守屋の妹を妃とし、蝦夷を設けていた。蝦夷は、母方の「財産」を継承し、これを次男の入鹿の弟に相続させ、「物部大臣」と名乗らせた。
馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したのである。
 物部氏の宅(領地)と奴(奴隷)は両分され、半分は蘇我馬子のものになった。残りの半分は四天王寺へ寄進され、四天王寺の奴・田荘とされた。
蘇我氏の財政基盤は、意外に「貧弱」だったとされている。屯倉の経営に力を入れて朝廷の財政基盤を強化したが、あくまで王権の財政管理者にすぎなかった。
物部氏の財産の接収で、蘇我氏の財政基盤は破格に改善された。

 蘇我氏は、王権内では権勢を誇示していたにも拘わらず、軍事面での基盤も脆弱だったとされている。
「軍事的な伴造として台頭した大伴氏や物部氏とは異なり、蘇我氏にはこれといった有力な軍事基盤が存在しない」とし、さらに「親蘇我的性格を持つ東漢氏や大伴氏の軍事力に依存することによって、あるいは王権に仕える群臣たちの私兵に動員をかけることによって、初めて纏まった一つの兵力を構成することが可能であった」(「蘇我氏と大和王権」 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年)している。
 蘇我入鹿暗殺に際して、蘇我蝦夷が立てこもった甘橿岡の邸に駆け付けた軍勢は、記録に残るのは倭漢氏と高向臣だけであった。
蘇我氏の軍事力は、意外に弱かったと考えられる。

推古天皇の時代の寺院数
 624年(推古32年)、日本書紀によれば、「寺46か所、僧816人、尼569人、あわせて1385人」としている。
そのすべてを厩戸皇子建立と「聖徳太子伝私記」は記している。
 厩戸皇子の時代の7世紀前半の創建された寺の遺構は、これまでに約31か所発見されているとしている。(仏教考古学の森郁夫氏)瓦葺でない簡素な 「草堂」もあったと思われるので46は妥当だろう。
 その大半が畿内である。
 諸豪族は、競って寺院を造立した。

仏教が「国家宗教」に 「仏教興隆の詔」 孝徳朝
 645年(大化元年)、「乙巳の変」後、孝徳天皇は、飛鳥寺に使者を派遣して、僧尼を集め、欽明朝以来の仏教受容における蘇我氏の貢献を讃え、仏教への崇拝と普及を述べた。「仏教興隆の詔」(日本書紀 大化元年八月条)である。

 「詔」では、「朕は更にまた仏教を崇め、大いなる道を照らし啓こうと思う」
と述べ、仏教受容の経緯を述べた。

▼ 百済聖明王の「仏教伝来」の際は、群臣は同意しなかったが、蘇我稲目のみこれを信じ、天皇は稲目にその法を奉らせた。
▼ 敏達朝でも蘇我馬子は仏教を崇めた。余臣は信じず、仏教は滅びようとしたが、天皇は馬子に法を奉らせた。
▼ 推古朝では、馬子は天皇のために、丈六の繍仏と銅仏を作った。

そして、「詔」では「仏教興隆」の仕組みを整えている。

▼ 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって十師とする。別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。
この十師は、僧侶たちを教え導いて仏教の修行を必ず法に如く行わせよ。
▼  造営中の寺で中断しているものは、朕が皆助け造らせよう。
▼ 寺司と寺主を任命する。諸寺を巡行して「僧尼、、田畑」の調査をして報告せよ。
▼  久目臣、三輪色夫君、額田部連甥を「法頭」に任じる。

 この「詔」で、「乙巳の変」以前は蘇我氏が担っていた「仏法」の統括は、大王が担い、大王が直接、寺院や僧尼を管理すると宣言したのである。
注目されるのは蘇我氏の仏教興隆に果たした業績を高く評価し、仏教興隆の歴史を飛鳥寺本尊の完成をもって締めくくっていることだ。
 これまでは、僧正、僧都、律師の三人を任じる僧綱制をとっていたが、「十師」制に改め、寺院造営の援助を約束した。
 飛鳥寺を始め、大勢の僧侶が集まっている場所で、蘇我氏への批判は一切言わなかった。蘇我氏の役割を大王が引き継ぐと宣言したのである。
 蘇我氏を逆賊として誅殺したという日本書紀の歴史認識はとはまったくそぐわない。
 孝徳天皇の「仏教興隆の詔」で、倭国は「仏教国家」の道を歩むことを内外に宣言したのである。 

蘇我氏の功績 仏教が日本の礎を造る
 当時、東アジア全体では大乗仏教の全盛期だった、中国や朝鮮半島の国々は、結局、仏教国家にはならなかった。日本だけが仏教国家として生き続けた。その礎を築いたのは蘇我氏他ならない。(梅原猛 「日本史のなかの蘇我氏」 消えた古代豪族 「蘇我氏の謎」 歴史読本編集部 角川書店)

 蘇我氏は物部氏など他の氏族から度重なる激しい反対に合いながらも、粘り強く崇仏の道を追求したのは、単に政治的な背景だけでなく、蘇我氏なりの仏教に対する強い信仰心があったのではないだろうか。
「仏教国家」の道筋を付けた蘇我氏は、古代日本の国家の方向を決めた歴史上、最も大きな功績を上げた「功労者」である。
「蘇我氏」は「悪者」というイメージは捨て去るべきである。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年





2017年7月25日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
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