燃える赤
三郷市の「9条の会」では、駅の宣伝や、第3回戦争を語る集いが行われた。
三郷市でも18年前「戦争体験記」発刊し、47人のかたが、体験談を寄稿している。その中で半田の中村さんが「平和への祈り」と題し寄稿している。
・・・忘れもしない3月の東京大空襲、南の空が真っ赤に燃えて撃たれた戦闘機が火を吹いて落ちてくるさまは戦場だった。爆弾が自分に当たるような気がして生きた心地なぞなかった。私はじっとしていられず、家の外を狂ったようにぐるぐる走っていた。・・・
半田地内にも逃亡する敵機から落とされた焼夷弾で家は焼かれたが、幸いにけが人はでなかった。
高射砲で撃たれたB29が、采女地区の田甫に墜落したときのこと、パラシュートで脱出した米兵が、南蓮沼地内の麦畑に隠れていたのが発見された。どんな武器を持っているかわからないので、警察官と地区の人々が畑を遠巻きにして取り押さえたが、言葉もわからず、初めて見た外人を物珍し野次りながら役場(早稲田村)へ連れてきた。背が高く髪はちじれて短くまつげの長い兵士だった。
逆らう事もなく、吉川警察署へ連行されたが、適地で一人捕虜となり、罵倒を受けたあの兵士はあのとき何を考えただろうか。
パラシュートが開かず田んぼに落ちて死亡した一人は、村人たちの手で万音寺の共同墓地に埋葬されていたが、戦後米軍により遺骨を国へ持ち帰ったと聞いている。
・・・最後に中村さんは・・・草木も、人も一瞬にして灰と化した原子爆弾の投下地長崎へ行ったが、記念碑には目を覆いたくなるような、当時の生々しい写真や、遺品等が展示されていて、病院には今なを、原爆症に苦しんでいる大勢のの人々がいる。
この人々を思うとき二度とあの恐ろしい戦争を繰り返してはならないと、深く肝に銘じた。この平和がいつまででも続くことを祈ります。