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現在横浜美術館にて開催中 →公式HP
現代美術家であり演出家でもある、高嶺格氏の個展に行ってきました。
今回が首都圏初の大規模個展だそうです。
この方の作品は去年、1点のみ六本木クロッシング展に出品されていたのを拝見した事があります。
その時は、在日2世の女性と結婚する際の自身の環境や心境記録を文章や写真で綴った作品が出品されており、気付いたら作品にすっかり惹き込まれて延々と見入っていた記憶があります。
ちなみに今回の個展でも、この作品が展示されていましたが
この方の作品の大きな特徴は、一度作品と向かい合うと知らず知らずの内に惹き込まれ、1つの作品に対して気付けば10分以上もの鑑賞時間を費やしてしまいます。
それは主に映像を使用したインスタレーションや、上記の様に文章でしっかり魅せる作品が多いから、とも言えますが
作品数自体は少ないですが、その分鑑賞者が作品とじっくり対話する場、という印象を受けました。
その中でも今回最も印象的だったのは、作者の「友人」である外国人女性がひたすら何かを話し続ける映像を使用したインスタレーション。
顔は映さず、主に手元しか映っていない。
また、違うモニターには何やらとある国の街中の紛争中?の映像も映っている。
それらの映像の側に、こんな文章がある。(記憶を辿って記したので、大体の概要ですが)
このビデオに登場している女性は僕の友人です。
いや、本当はそうではなかったかもしれない。
ともかく僕らは友人として会い、話している。
彼女は自分の置かれた状況について話している。
僕はただフンフンと相槌を打っているだけ。
その後、僕らは友人同士ではなくなった。
僕があほな相槌しか打たなかったからだ。
Q:では、どうすれば友人関係は続いていたと思うか
Q:そもそも彼女と友人のままいたかったのか
Q:これはパレスチナ問題について話している作品なのか、それとも友人関係についてか
Q:では今、この問いを貴方に投げかけている意図は何か
私個人は正直、質問の1つ目と2つ目には関心を払わなかったのですが
単純に、この文章の有無ひとつで作品の見え方・各鑑賞者による作品の捉え方が大きく変わってしまう、文章という「記号」にあっけなく影響されてしまう事に対して、なるほどな~と思ったのですが。
質問の3つ目を読んでしまうと、おそらく大半の人が「あ、これはパレスチナの映像なのかな。」と自然に思うことでしょう。
これが美術館という制約に対する皮肉を表現しているのだとしたら、と思うとついつい見入ってしまいました。
余談ですが、高嶺氏のプロフィールを見るとどうやら私の行っていた大学の卒業生だそうで。
この方に限らず、現在活躍されている私の知らない先輩はまだまだ沢山いらっしゃる訳で。
最早大学を出た意味など全く無い私ですが、自分の卒業した場所から過去にどんな作家さんが卒業していったのかもっと知りたい欲求はあります。
とにかく昔から美術館にいると落ち着く、美術館が大好きなのは変わらないので、せめてそういう事にもっと関心を払ってみようかと思います。