イワンのバカ

日々の出来事や超古代ネタ・大災害発生時の生き残りネタをつづってます。

たたら製鉄にゆかりのある 天目一箇神(あめのまひとつのかみ)

2018年05月11日 | たたら・金屋子神

たたら製鉄の神様といえば、金屋子神(かなやごしん)が一番有名ですが、播磨(はりま)風土記や出雲風土記には、「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」とか「目一つの神(鬼)」という神様が登場されます。読んで字のごとく、一つ目の神様です。

たたら製鉄に一つ目の神様が出てくる理由は、たたら製鉄に従事する人たちの職業病との関連が指摘されることが多いです。

どんな職業病かというと、失明です。たたら製鉄は、炭を「ふいご」という人力の送風機で、約1000度くらいまで加熱します。そして村下(むらげ)と呼ばれる責任者が、たたらの「のぞき穴」からこの光の色を見て、たたら炉に砂鉄を投入するタイミングなどを見計らっていました。

僕も1000度まで熱した炭を見たことありますが、明るすぎて直視できません。この光を、のぞき穴からずっと見続けていたので、失明された方が多かったようです。これが、たたら製鉄の職業病の一つである失明(眼病)です。そして、これが天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の一つ目の由来であるとする説が一般的です。

 

し、しかし、

ホツマツタエという古文書をご存じでしょうか?

ヲシテ文字と呼ばれるカタカナの原形と思われる古代文字で書かれた書物です。古事記・日本書紀よりも遥か前の歴史が書かれており、古事記・日本書紀もホツマツタエが元になっているのかもしれないと考えられている書物ですね。詳細はネットで調べて頂くとして、このホツマツタエに天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が登場します。このホツマツタエには「一つ目」についての記述があります。それは刀を作るときの心構えとしての記述です。

「刀というものは、罪人と言えども人を斬るためのものであり、そういう道具を作る時には両目を開けて作ってはダメだ」というような記述があります。つまり、ホツマツタエに出てくる天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の一つ目は、両目を開けてはダメだという所からきているようなのです。

まだまだ古代の歴史には隠された秘密が多そうです。面白いですね。

 


ふいご踏み歌(たたら製鉄)

2018年04月23日 | たたら・金屋子神

兵庫県の千種鉄は良質な玉鋼として、備前の刀匠からも珍重されていたのは周知の事ですが、たたら製鉄の苦労を伝える伝承は、今ではほとんど残っていません。

例えば、番子の苦労も相当なものだったことが伝えられています。番子とは「ふいご」の踏み手の事です。たたらは、一旦始まると三日三晩ぶっ続けで作業が行われます。この番子、過酷な仕事ゆえ、千種町に残っている言い伝えでは、一日に酒一升・米一升が必要だったとも言われています。
また、千種町には下記の「ふいご踏み歌」が残っています。

ハァー♪、庭の梅のホホィホィ 鶯の鳥が鳴くぞみなされホーホケキョ
たたら番子は乞食より劣り 乞食は寝もする楽もする
鉄が沸くわくよしこの山で 手前な黄金で五五段
竹の切株溜まりし水は すまず濁らず 出ず入らず おれも妻もちゃ あのごとく

※「たたら師鎮魂・寺林 峻」より引用

 

少し意味の分かりにくいところもありますが、乞食との対比など、番子の苦労がよくわかりますね。地元の言い伝えでは、壮絶な仕事ゆえ、嫁のきても少なったそうです。
この踏み歌を歌いながら、三日三晩ふいごを踏み続けておられたようです。ちなみに、今でも使う「代わり番子」の「番子」はここから来ています。

 農村文化中心の日本としての伝承や言い伝え、風習などは一般的に知られています。しかし農業を始め、建築や伝統工芸などは製鉄技術の下支えがあったからこそ、発展してきた事に間違いありません。
歴史の裏舞台に隠されてしまっている「鉄の技術」を支えてこられた方について、私たちはもっと学び、感謝をするべきだなーと思わせる「ふいご踏み歌」でした!!

 

 

 

 


金屋子神 降臨の地 ~兵庫県宍粟市千種町~

2018年02月21日 | たたら・金屋子神

金屋子神(かなやごしん・かなやごのかみ)という神様がおられます。

金屋子神は製鉄(たたら製鉄)の神様です。
たたら製鉄とは古代の鉄(和鉄)の製造技術です。川原から集めてきた砂鉄を高温の炉で溶かして玉鋼(たまはがね)という鉄を作る技術のことです。日本刀も玉鋼がなければできません。

映画「もののけ姫」にもたたら製鉄の場面が出ています。

このたたら製鉄の歴史は古いです。兵庫県の西部の古文書「播磨(はりま)風土記」にたたら製鉄の記述が残っています。播磨風土記は約1300年前の古文書なので、すでに1300年前には、この地域でたたら製鉄が行われていた事が分かります。しかし、たたら製鉄やそれに伴う民族的な風習についての研究は日本では少ないのが現実です。民俗学というと、柳田邦男氏をはじめとして、多くの民俗学は稲作文化を中心とした研究が主で、鉄の歴史はどちらかというと裏方にまわる事が多いように思われます。

しかし、農耕技術や建築技術をはじめとして、文化や生活レベルの進展の陰には製鉄・金属加工技術の進歩があったはずです。しかし、製鉄の歴史はなぜか裏方に回っています。これについては、古代の製鉄技術をもたらした人たちの背景などデリケートな問題もあるような気がします。

さて、そんな製鉄の中で一番中心となるのが「たたら製鉄」ですね。今でも日本で一か所だけ稼働しているたたら場が、島根県の日刀保(にっとうほ)にあります。日刀保で作られた玉鋼(たまはがね)は一年に一度だけ販売会が行われるそうです。この日には全国から刀鍛冶が集まるそうです。

このたたら製鉄の神様・金屋子神をお祭りしている神社が島根県の金屋子神社です。この金屋子神社の祭文には、金屋子神の由来が書かれています。

金屋子神が一番初めに天下った場所が、兵庫県宍粟市千種町岩野辺(いわのべ)であったとの記述が祭文に残っているのです。この場所(千種町)から移って行かれたのが安来の金屋子神社だとされています。金屋子神が「たたら製鉄」の技術を日本に知らしめられた神様とするならば、古代日本で「たたら製鉄」が始まったのは宍粟市千種町であったと考えることができます。

実は千種町には、とんでもない古い時代の「たたら製鉄跡」が発見された場所でもあります。昭和42年10月、西河内(にしごうち)高保木(たかほぎ)の谷間で、弥生式土器片を含む「野たたら」跡が発見されているのです。これは弥生時代に、既にこの地で製鉄が行われていた可能性を示すものです。稲作が始まった時期は弥生時代からというのが学校の教科書で習う知識ですが、この稲作技術の発展の陰にも製鉄による農具の普及があったのかもしれませんね。余談ですが、稲作は縄文時代から行われていた説もあります。学校で習う定説では、「弥生時代に朝鮮半島から稲作技術が伝わった」という説が一般的ですが、それを覆す説ですね。本当のところはどうだったのか、今後の研究の成果に期待したいです。

さて残念ながら、宍粟市千種町には金屋子神をお祭りする神社は残っておらず、現在、金屋子神を伝えるものは道端に立てられた石碑のみとなっています。しかし、近くの山の中には金屋子神をまつる小さな祠が残っており、安来の金屋子神社からは毎年お祭りの日にはお供え物が届いているそうです。

現在では、たたら製鉄の遺跡は島根県に多く残っているので、島根県(東部)は「たたら製鉄」で有名です。島根県にたたら遺跡が多く残っている理由は、藩の管轄だった島根県のたたらは藩からの手厚い保護を受けて、近年まで残ってきたようです。しかし、宍粟市のたたらは天領(幕府直轄)だったにも関わらず、十分な保護が受けられず、江戸末期からどんどん衰退していったようです。

この金屋子神ですが、調べてみると奇妙な伝承を持つ神様です。そのせいか「たたら製鉄」技術の伝承にも奇妙な伝承が残っています。たとえば、たたら場のトップのことを村下と書いて「むらげ」と呼ぶのですが、村下が亡くなると、たたら場の横に置いておく習わしの伝承などです。人間も死んでしまえば神や仏にしてしまう文化が日本にはありますが、死体そのものについては忌み嫌う・穢れを感じる文化が日本の主流だと思うのですが、金屋子神ではそのような感じが全くないどころこか、死体を好んでいるような雰囲気さえあります。面白いですねぇ。いずれにせよ、ジブリ映画のような風景が、この時代に見られたのでしょう。その他、いろんな伝承が残っているのですが、それはまたの機会にしたいと思います。 

本家の宍粟市千種町には何も残っていないと書きましたが、現在見学できる場所としては「たたらの里学習館」があります。興味がある方は石碑の見学とともに訪れられてはどうでしょうか。

石碑は金屋子神が降臨された宍粟市千種町岩野辺、たたらの里学習館は千種町河内(こうち)です。車で30分ほどの距離があります。

 

たたらの里学習館

 

金屋子神 石碑