生きづらかったキミへ。

私の今までとこれからの人生を書いていくブログ。

9歳~11歳の記録。

2023-07-25 00:24:45 | 過去
実は、この頃の記憶がほぼない。
多分、子供なりにいろいろと苦しんだ結果なのだろう。

なので、覚えてる範囲で書いていこうと思う。


9歳。
弟が幼稚園へ通い始めた。
母も仕事に出るようになり、
私は家の鍵を預けられるようになった。

いつも、赤くて太い靴ヒモのようなものに通した自宅の鍵を、首から下げて学校に通っていた。

学校では、「特設クラブ」というものに入れる学年になった。

特設クラブは数種類あった。
①合唱部
②合奏部
③野球部
④サッカー部
私は①の合唱部に入部した。
強制ではなかったが、私はそこに入ることを決めた。

だが、弟が幼稚園から帰宅する時間には家にいなくてはならなかったため、クラブ活動は1時間ほどで終わらせ、途中で帰らなくてはならなかった。

帰宅すると、まずは自分の空腹を満たした。
食パンだったり、炊飯器のご飯を食べて過ごした。
たまに、学校給食から持ち帰ったパンを食べることもあった。

それから30分ほどすると、弟が幼稚園から帰ってくるので、幼稚園バスを待つために外へ出る。
迎えを終えると、帰宅して弟のために大きなおにぎりを作ってあげたりしていた。

弟はたまに、気分で母を迎えに行きたいと望むことがあった。 
その時は、徒歩で30分ほどかけて、母が会社のバスを降りるところまで、手を繋いで2人で向かうこともあった。

この頃から、両親が私達の前で大喧嘩をするようになってきた気がする。
私は弟に、罵詈雑言をお互いに発しながら、どつき合いの喧嘩をする両親の姿を見せたくなかったので、いつも喧嘩が始まると、弟を連れて別の部屋へ避難した。

絵を描いてあげたり、本を読んであげたりして、喧嘩の時間が過ぎるのを待った。


10歳。
9歳の頃と、ほとんど同じ毎日。
弟の面倒を見なくてはならないため、この頃に友人と遊んだ記憶はない。
そのため、特筆すべきことは何もない。

…というよりは、覚えていない。

覚えていることと言えば、弟が帰宅する前に、自宅の電話にいたずら電話がよくかかってきたこと。
受話器の向こうには、息を荒げた大人の男性がいつもいて、おかしなことを言ってきた。
「これからオ○ニーするから、僕の喘ぎ声を聞いててね」
だとか、
「君も一緒にしようよ」
とか。

当時は意味不明だったので、そのまま電話を繋げておき、自分はテレビを見ていたりした。

意味が分かったのは、それからしばらく経ち、私が中学生になった頃。
ふとこの頃のことを思い出して、「あー、あれはエ○チな電話だったんだなあ…」と思った。


11歳。
引き続き、弟の面倒を見る毎日。
それ以外の自宅での記憶は抜け落ちている。
確か、弟と私で1つの部屋を与えられるようになり、食事の時以外は、勉強をすると言って、子供部屋に引っ込んでいたのかも知れない。

学校では、女の子のグループに入るようになり、交換日記などをして交流を深めていた。
5~6人くらいのグループだった。
日曜日は父の仕事が休みだったため、弟の面倒を見なくても良かったので、お友達の家へ遊びに行ったりしていたような記憶はある。

好きな男の子が出来たりなど、ちょっと青春の入り口に立ち始めた時代だった。




今回は🈁まで。
次回から中学時代に入ろうと思います。


6歳~8歳の記録。

2023-03-25 11:41:44 | 過去
6歳
近所の小学校へ入学。
いわゆるマンモス校と呼ばれる小学校。
それはもちろん、マンモス幼稚園からそのまま入学する子供達ばかりなので、マンモス校になるのは当たり前。

1学年は8組まであった。
1クラスは45人くらいだったかな…。
単純計算では、1学年360人。
担任教師は大変だっただろうなぁ…。

プールの授業で溺れたのがこの頃。
それ以降、水が怖くなってカナヅチになったのは言うまでもない。


弟は、私が小学校に入学したばかりの頃に産まれた。



7歳
クラス替えがあった。
新しいクラスの中で、この後にしばらく仲良くする友達が出来た。
私は、彼女を親友だと思っていた。

担任教師はとても厳しい、年配の女性だった。
クラスの全員を名字で呼び捨て。
イベント事などでクラスがザワザワし始めると、怒声を浴びせて沈める教師だった。


8歳
クラブ活動でバスケットボールを始めるが、そこで悪い友達に出会ってしまう。
その友達には、当時16歳のお姉さんがおり、いわゆる昭和のヤンキーみたいな人だったようだ。

彼女の姉と彼女は同じ部屋で過ごしていたようで、部屋に行くとタバコの臭いとシンナーの臭いが入り交じったような空気のため、具合が悪くなるのでリビングで遊ばせてもらうことが多かった。

そして、その友達と遊ぶようになってから、一緒にいる時はコンビニなどで万引きをするようになる


母は、弟の面倒を見るために無職で家にいたが、私が何をしても気に止めることもなく、出掛ける時に「今日は誰と遊ぶの?」とは聞くものの、詳細までは聞いてこなかった。

父は、帰宅すると弟ばかり可愛がり、膝に乗せてご飯を食べたりテレビを見たり、ベッタリだった。

私がいる目の前で、「男の子が欲しかったから、お前が産まれてきて嬉しかったぁ」などと弟に言いながら、恵比寿様のような顔をしていた。
母も、父の発言を咎めることなく、ニコニコとしていた。

まるで、2人には私が見えていないような気になったことを覚えている。
「どうせ私は女の子だよ。好きで女の子に産まれた訳じゃないのに」って、心の中で思っていた。

私は、この頃から何となく、家族の中で疎外感を感じ始めていたように思う。





今日は🈁まで。
最後まで呼んでくださった方、ありがとうございました。


次回予告
覚えている範囲で、9歳からの記録を淡々と綴ります。


5歳の記録。

2023-03-16 07:59:25 | 過去
5歳
社宅から県営住宅団地に移り住む。

近所の幼稚園に通い始めた。
幼稚園はバス通園であった。
黄色いバスの絵に、マジックで「3」と書いたバッジを左肩に付けて登園する。

この頃の時代、いわゆる「団塊の世代」の子供達がそれぞれ成長し始めていた頃で、子供がとても多かった。

私が通っていた幼稚園は、近所では「マンモス幼稚園」と言われるほどのとても大きい幼稚園であり、団地内の子供達はこぞってこの幼稚園に通っていた。

園内では、普通に子供らしく過ごしていたと思うが、初めての団体生活のせいか、この頃から少し病気がちになる。
「ふじぐみ」の一員として、1年間過ごした。


弟を妊娠していた母は身体がしんどいのか、よく家で寝ていた気がする。
遊んで欲しくて側に行くが、いつも「あっちへ行っていなさい」とか、「外で遊んできなさい」と突き放された。

自我が芽生え始め、甘えたい盛りではあったが、「お姉ちゃんになるんだから、しっかりしなさい」と言われるので、出来るだけ母に寄り付かないようにした。


団地の敷地内には、大きな公園があった。
公園内に子供はたくさんいたが、この頃から内気だった私は、自分で話しかけて仲間に入れてもらうことは得意ではなかった。
話しかけてくれるのを待ちながら、いつも一人で遊んでいた気がする。

トンボを追いかけたり、ツツジの花の蜜を吸ってみたり、アリの巣を小枝で襲撃したり…😁


その私の姿を遠くから見ていたと思われる、近所のアパートに住む男子大学生がいた。

ある日、その大学生が私に話しかけてくるようになる。
何度か公園で一緒に遊んだ。
いつも一人で遊んでいた私は、いつの間にかその大学生が話しかけてくれるのを待つようになった。

子供の恐ろしいところは、何度か遊んだら、その相手が誰であろうと「友達」と認識してしまうところだろう。

「くまだ」と名乗っていたその大学生は、ある夏の暑い日に、とうとう行動を起こした。

「いっぱい遊んで汗かいたし、お兄ちゃんのお家で冷たいオレンジジュースを飲まない?」
私はその提案を快諾し、独り暮らしをしていると思われるその大学生の家に足を踏み入れてしまった。

言葉巧みにお風呂に誘われ、お湯の中でイタズラをされ、その後は…。
まあ、書くのもおぞましいが、いわゆる○的虐待を受けた。
幼児○愛者だったのか、それともただの興味本位だったのかは分からないが、その日は家に帰してもらえた。
もちろん、「お父さん、お母さんには内緒にしてよ?」と言われ、私はそれを頑なに守って大人になった。

その後、あの大学生がどうなったのかは知らないけれど、私が誘われたのはその1度だけだった。





次回予告
6歳からの記録を淡々と残していきます。


最後まで読んで頂いた方、ありがとうございました。




0~4歳の記録

2023-03-15 09:10:11 | 過去
0歳
雨の降りしきる、寒い冬の丑三つ時。
東北のとある工業団地内社宅で暮らす夫婦の元に、逆子で産まれ落ちる。

父→24歳
母→23歳

実家に残っている写真を見るに、まるで男の子のような見た目で産まれたようだった。
腕に赤くただれたようなアザと、お尻に青アザが大きく現れていたという。


3歳
病気もなく、順調に成長。
家族で海に行って、「やよい丸」という名前の大きな漁船の前にて、可愛いポーズを取っている写真が残っている。


4歳
翌年の春から幼稚園に通うため、秋頃に母と幼稚園まで面接に行った。
その面接の帰りに、交通事故に遭う。

母の後ろを歩いていた私は、ふと足元にフワフワと揺れている「ネコジャラシ」に目を奪われた。
それに夢中になっている間、母は私を置いて、横断歩道の向こう側に渡ってしまう。
信号は赤になってしまっていた。

「置いていかれる❗」
そう思った私は、母を呼びながら道路に飛び出してしまった。
その時❗青になったので動き出した白いセダンに轢かれ、空中を舞った私の身体は地面に叩きつけられた。

加害車輌の夫婦に病院に連れていってもらったところ、背中にアザが出来たくらいで、骨折などの大怪我はなかった。

後に「運が良かった…」と母は胸を撫で下ろしたという。




今回は🈁まで。


次回予告
私が5歳の時に弟が産まれ、そこから両親の毒親ぶりが徐々に出てきます。

最後まで御覧いただいた方、ありがとうございました。