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児童虐待被害からの回復の戦いを制する 其の58

2021-03-28 10:01:54 | 日記
此の頃ほとんど寝てばかりいる。原因は金欠で缶ジュース1本すら買えないでいる。これも自業自得だが今の生活では活動費が出ない。働くと言っても週に3日は通院日だ。コロナの時期は電車も空いていたので、それも幸いして外出する日が多かった。けれど今は電車もバスも混んでいる。今のアパートに移り住んで20年以上経つが、一度だけ父親が訪れたことがある。難病で寝込んでいて動けないのに駐輪場に原付が放置してあり、連絡が実家に行った時だ。寝込んでいる僕を連れ出し原付を移動するよう口出ししてきたが、僕は歩くのもやっとなのに父は原付を移動しないと処分されると、そんな時だけアパートを訪れた。結局移動できず父は僕の病状には一切触れず、とっとと帰っていった。僕の心配など一切しない。これもアスペルガー独自の認知の歪みなのだろうか。そんな薄情者なのに死ぬ間際は僕にああしろこうしろと煩かった。結局自分の事しか考えていなかった。

そして母親だがそんな父とべったりした関係にあり、2度の交通事故で両足に金属が入っていて痛みで苦しがっていた。けれど自分で出来る事もあるのに父に甘え、風呂でも父に体を洗ってもらい、すべての事を父に依存していた。そして晩年二人が食事にも困って僕の所に電話して寄こし、3日分の食料の買い物の度に僕が実家に戻っていた。けれど僕に対する両親の依存はますます強くなり、仕方なく役場の地域包括センターに相談に出かけた。それからは社会資源を利用し何とか生活を立て直したが、両親は有難うすら言わなかった。

その後症状が酷い母親が認知症と偽り病棟に入院したが、何度もわざと転倒し頭を強打して脳内出血を起こし総合病院に搬送された。けれど父のもとに戻りたい母は看護師さんを殴り実家に帰ろうとしたが、それは叶わずベッドに拘束された。その頃父は大腸がんが進行していて或る日大量の下血があり集中治療室に入ることになった。僕も立ち会ったが体重が25キロと衰弱していて、ほんの二言三言言葉を交わしただけだった。

このように両親は苦しんで亡くなった。自業自得と言えばそれまでだが両親に対して僕には良い思い出がない。とにかく我が家の家族関係は他に例がない様なもので、僕の苦しみも深い。でも依存症治療院の精神科医はおおよその状況を話しただけで、すべてを理解したので依存症と言い流石だと思っている。これからは自分の人生を生きていきたい。

児童虐待被害からの回復の戦いを制する 其の57

2021-03-28 05:48:11 | 日記
僕の異常な家族についてもう少し書いてみる。取り合えず父親は働いてはいた。人と関わらず機械相手にする仕事だったので続いたと思うが、職場でも一切誰とも口を利かなかったようだ。そのくせ口癖は人は皆裏切ると言うものだった。後は行動だが人と関わる自動車免許は取れず、僕が原付免許を取ることを薦めた。何とか免許は取れたが運転がでたらめで、一時停止を怠り3度交通事故を起こし手術もしている。バックミラーも見ないし運転は無謀な行為だった。言動も狂っているし僕は何も父から学んでいない。

母親はどうか、境界型人格障害で何一つ判断が出来ず、晩年介護施設に入院したが実家に帰りたいと自傷行為をしたり、挙句の果てに看護師さんを殴ったりしていた。こんな両親を持つ僕は今平常心を保っているだけで奇跡に近い。父も母も友人がいなくて二人だけで支え合っていた。父は亡くなる少し前に遺言状を書いていたが、そこには母に何かあれば棺を蘭の花で埋め尽くしたいと書いてあったが、晩年母が寝たきりになると見舞いにも行かなかった。全てが出鱈目だった。

こんな生活を強いられているのに、以前有名と言われる精神科医に掛かっていたが何故君が良くならないか分からないと、薬だけが増えて行った。そんな状態だったが今の依存症治療院で回復し全ての事柄が理解できた。精神科医もいい加減な奴が沢山いる。けれどこうして回復したのは自分の努力も大きいと思うし、また主治医の治療も的を得ていたと思う。10代の頃の注射の打ちすぎで難病にもなり踏んだり蹴ったりの人生だ。けれど今その体験を生かすことを考えている。応援してくれる人も多く成果を挙げて皆を見返してやりたい。歳も重ねたし直ぐにでも行動に移したい。

児童虐待の回復からの戦いを制する 其の56

2021-03-28 04:57:31 | 日記
僕は今まで生き残って来たが、両親には何もしてもらっていない。せっかく都会でアルバイトを始めた時も父親は僕が仕事に就けなくなる田舎に一戸建てを購入し引っ越してしまうし、その後もお前にはお金が掛かると言いながら、仕事について一緒に考えてくれることなど一切なかった。おまけに親なら仕事について少しは考えてくれてもいいのではないか、と話したら父親は両掌で耳を塞ぎ僕の訴えを無視した。これがアスペルガーの反応だとずいぶん経ってから理解したが、人格障害の母とアスペルガーの父すべてが狂っていた。

そのくせお金がお前のためにどれだけ掛かると思っているのだと、僕をさんざん責めた。父親は僕を責める癖にとんでもない田舎に引っ越してしまい、仕事など見つからなかった。以後交通事故でバイクに乗っていて普通自動車にはねられ、お金を得るまで都会に出ることが出来なかった。けれど都会には仕事が沢山あり慰謝料を元手に仕事についた。けれど仕事はワーカホリックで頑張りすぎて長続きせず、また実家に戻ることになった。けれど残った慰謝料で普通自動車免許を取り、行動範囲が広がり以前より実家に居ても仕事が見つかる様になった。でもこの生活も綱渡りで、僅かな給料しか貰えずやはりその日を送るだけの生活だった。以前と同様両親、精神科医は何の力にもなってくれなかった。

こんな生活で唯一の救いが、共依存関係にある友人たちだった。その後この概念を知ってからは完全に共依存は断ったが、それまでは共依存が真の友情だと思っていた。今のクリニックを受診し人間関係の再構築を目指すのだが、共依存は過去の自分には必要であり、他の依存症にも何らかの必要性があると思っている。でもこれらの事は自分で本を読み漁ったりして理解したのであって、クリニックで教えられたわけではない。すべて自分で学んだものだ。だからこれからもこのやり方は変わらないだろう。

話したい事はいくらでもある。これからどんどん書いて行きたい。