そんな若草山の山焼き(^_^)/この山焼きの起源は東大寺と興福寺の境界争いが始まりだとするのが定説です。宝暦10年(1760)、奈良奉行所が調停して(笑)、若草山を5万日の預かりにしたことだと言われています。おもしろい事に・・・山焼きはそれより前から記録に登場するそうです。村井古道と言う方が元文5年(1740)に書いた!南都年中行事には「この山を焼かざる時は牛鬼という妖怪出るという。これより正月丑の日に放火すといえど、近年元旦より三日をへず是を放火す。往古より誰人その事を掌るということもなし。毎春行人など放火すと見えたり。云々」と見える。
若草山の山頂には、五世紀頃とされるの前方後円墳があるそうです。鶯塚とも呼ばれていて、全長103m、前方部幅50m、後円部径61mもあります。古墳はかつてウシ墓と呼ばれ気味悪がられていたそうです。山焼きが文献に最初登場するのは南都年代記の建長7年(1255)2月12日。若草山は葛山・葛尾山または九十九山と表記されていました。どれも、つづらやまと呼ぶそうです。東大寺東南院の僧が葛山山上にお堂を建てたので、興福寺の衆徒がこれを破却した。さらに山を焼くときに両寺の公人たちが衝突して刃傷沙汰に及んだと記録に残っているそうです。
葛山は、東大寺山界四支図にも描かれているように東大寺の境内に含まれるそうです。この絵図では樹木はまだ茂っている状態だとか。しかし、興福寺がこの地域にも進出を図るようになり、紛争が繰り返され・・・・。両寺の土地をめぐる争いが実力行使に及んで、山にもたびたび火が放たれたのだろう・・・・。ほんで今の状態に・・・ん~深い歴史( `ー´)ノ
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