*** june typhoon tokyo ***

宇多田ヒカル『初恋』


 特段に美少女ではないけれど利発そうな少女が黄色いソファーの前でチルするヴィデオとともにその歌唱力と楽曲性の高さで世間に衝撃を与えた「Automatic」から20周年。“宇多田ヒカル”としてのデビュー・シングル「Automatic / time will tell」、翌年の1stアルバム『First Love』で一躍時代の寵児となった宇多田ヒカルが、デビュー20周年に放つ前作『Fantôme』から1年9ヵ月ぶりとなる7枚目のオリジナル・アルバムは、その衝撃的な1stアルバムのタイトルを日本語にしたものに。レーベルをソニーへ移した後、第1弾となった「大空で抱きしめて」をはじめ、CMやドラマ、映画などのタイアップが7曲と揃った話題性十分の12曲。いや、宇多田ヒカルがアルバムをリリースするというだけで既に最重要トピックといっていい。

 前作『Fantôme』は、正直なところ個人的には“落胆”させられたアルバムだった。その落胆の意味は自身のCDレビュー(→「宇多田ヒカル『Fantome』」)を参照してもらいたいが、そう感じたのは簡潔に言えば“従来有していた黒い要素やグルーヴが徐々に希薄になったことを実感してしまったから”に他ならない。そして、このアルバムを耳に触れる前に考えていたのは、もし今作が『Fantôme』を継承するような路線であれば、もうこれからの新しい宇多田ヒカルを聴くことはなくなるかもしれないということだった。誤解を招くかもしれないが、『Fantôme』のレビューでも述べている通り、前作は駄作という意味ではなく、寧ろ宇多田ヒカルが重ねた成熟を凝縮した、人間活動の成果に満ちた彼女でしかなしえない佳作だ。その認識はありながら、やはり宇多田ヒカルに欲していたものとは異なっていた違和感は最後まで拭えずにいたのも事実だ。



 そんな不安と期待が入り混じりながら、冒頭の「Play A Love Song」からいつも以上に耳をそばだてて聴いていく。前作が首や肩にズシリとのしかかるどうにも逃れられそうにない重さや憂いが伝わってきたのに対し、晴天ではないけれどもパッと前が明るく開けたような希望や活力が窺えるサウンド。エモーションズ「ベスト・オブ・マイ・ラヴ」にも出てきそうなコーラスや終盤に連れて顔を出すゴスペル・クワイア、階段をステップアップしていくような軽やかなコードなど、何かが動き出す能動性を帯びていた。この一曲で、これだ、これを待っていたんだ、とは思わなかったが、終わりと始まりの両方を見据える1月を司るローマ神話のヤヌス(“1月=January”の由来)ではないが、人間活動からの復帰の際の迷いの時を終え、真の意味で再び先へ歩みを進める転機となる作品としようという思いも感じられた。

 次に「あなた」、そしてタイトル曲「初恋」と続くが、もうこれは宇多田ヒカルにとっての永遠の、逃れることのできないテーマ、すなわち、今となっては亡き人となってしまった母親、藤圭子へのラヴレターといっていいか。1stアルバム『First Love』の時にはおぼろげに意識の下にあった母への恋慕やわだかまりを、結婚や出産を経験し、人間として女性として成長して大人になった彼女の視点から改めて母へ送るメッセージと捉えたがどうか。“I need you”のリフレインで終え、メランコリックなストリングスと鍵盤のコードから始まる「誓い」の“運命なんて知らないけど この際 存在を認めざるをえない”という出だしには、自らに課された宿命(離すことが不可避な母親との関係性)に諦観しながらも、どこか意欲的な感情も垣間見える。



 以降ももの憂げで哀愁が漂う旋律を軸としながらも、生命力が漲り、希望への活力を感じる楽曲が続くが、この曇天ながらもところどころで光が差し込むような感覚はなんだろうと考えると、おそらく12曲中8曲でドラムやパーカッションを叩いているクリス・デイヴの存在が大きい。特に中盤の「Forevermore」では、派手さはなくとも静かに脳裏に焼き付くビートが刻まれるドラミングと流麗なストリングスが、“愛してる”と連呼する直接的なリリックも重なって、宇多田のヴォーカルのパッションを予想以上に高め、ジャズのアプローチを介してポップスとR&Bを行き来するソウルネスも横溢させていた。そして、英・ノースウエストロンドンを拠点とするラッパー、ジェイヴォンをフィーチャーした「Too Proud」では、クールなトラックをベースにした新世代のヒップホップ/ヒップホップ・ソウルを展開。喜怒哀楽さまざまなテクスチャを持つトラックを重ねたサウンドプログラミングには前作の「ともだち」に客演した小袋成彬が力を貸し、宇多田ヒカルが元来有しているグルーヴをコンテンポラリーなR&Bにフィットさせることに成功させている。

 と、ここまでは当初の不安を消してくれそうな展開だったのだが、「Good Night」と「パクチーの唄」はあまり耳に合わなかったか。「Good Night」はやや凡庸なロック・バラードで、あまり装飾を施さないシンプルな作りに行間を読むような美しさが見て取れなくもないが、段々早くなるチャイムのような音色から“こーりゃなんだぁ? コリアンダー!”で幕を開ける「パクチーの唄」は、楽曲構成の意味でせめてボーナス・トラック扱いで収録して欲しかった。『HEART STATION』に収録の「ぼくはくま」にも同じ感想を抱いたが、アルバムを一つの物語として捉えたとすると、やはり異質感は否めない。“パクチー ぱくぱく”と繰り返すリリックや「ぼくはくま」同様に童謡的なところも前後の流れにそぐわないし、タイトルが初作の日本語を綴ったという深い意味を持つアルバムならなおさらだ。
 そう思う一方で、トラック自体に耳を注力すると、あまりグルーヴは感じられないが、ハートウォームなポップスとしての完成度は決して低くない。こういう楽曲をしれっと組み込めてしまえるのも宇多田の懐の深さであるし、宇多田ファンにとってはそれほど気になることではないのかもしれない。



 後半は、ファルセットと“I miss you”や“肩を探す”のフレーズが艶やかな「残り香」、“必ず必ず いつか終わります”というナイーヴなフレーズや黄昏が満ちるスキャットが印象的な「夕凪」と、やるせなさやもどかしさ、喪失を捉えた漂流感が伝わる曲が連なるところは前作の重厚さを受け継いだようにも思えるが、その間に軽快で晴れやかに展開する「大空で抱きしめて」を配するあたりが、宇多田のバランス感覚の真骨頂というところか。悲壮のままで終わらせない、人生の浮き沈みのように悲喜こもごもを楽曲構成にも反映させているよう。終盤にかけての競り立つようなストリングスの波は、愛や欲の陽なる躍動となって胸を揺らせる。

 そして最後は、アルバム『初恋』の意図するほぼ全てを語っているといっても過言ではないだろう、意味深なタイトルの「嫉妬されるべき人生」。変則的で這うようなボトムと麗しいストリングス、清らかな鍵盤とエスニックなコーラスといった組み合わせが胸騒ぎを呼び起こす、このアルバム随一の渾身の一曲だ。ストーリーテラー的なアプローチによるスケールの大きなシアトリカルな作風で、“あなたに出会えて誰よりも幸せだったと嫉妬されるべき人生だったと言えるよ”という究極の愛のメッセージを吐露する。ドラマティックで創作的でもあるが、“母の遺影に供える 花を替えながら思う”“あなたに先立たれたら あなたに操を立てる”などのフレーズからは、やはり決して拭い去れない母親の幻影が見て取れる。『First Love』で少女ならではの視点で語ったおぼろげに感じた初恋という機微は、時を経て成熟を重ねた『初恋』でその対象をさらに明確にしたといえよう。もちろん母へのメッセージが意図するところの全てではないが、とどのつまり、作品の中で、生まれてから最初に寄り添い触れていたはずの感触を追い求める旅をし続けているのではないか、そう感じるのは穿ち過ぎだろうか。



 個人的にはあまり詞世界に没頭しないタイプではあるが、彼女の作品は何故かその詞に引き込まれてしまう魔力がある。です・ます調ながら稚拙にならず見事に心情を浮かび上がらせるリリックや、彼女ならではの譜割りなどのテクニックももちろんだが、歌唱の圧や声色とはまた違った、スッと耳に入ってくる訴求力には唸らされるばかり。前作では落胆した曲風も、一部前作の流れを引き継いでいる楽曲もあるが、前作も参加したペット・ショップ・ボーイズやサム・スミスらを手掛けるスティーヴ・フィッツモーリスのエンジニアリングがより浸透性を高め、奥行きや懐を深めたことでレンジが広がり、柔軟になった印象。そして、なんといってもクリス・デイヴをはじめとする演奏陣が前作にはあまり感じなかったグルーヴを生み出し、ポップネスとともに活力をもたらしたことが、前作とは大きな違いを創り出している。

 初めて心を揺るがせる経験(=初恋)を生命力やさまざまな形のエモーションに添えて綴った35歳の“First Love”は、“初恋”と名を変えて音像化された。前作とは似て非なる重厚さとエナジーを帯びた本作は、宇多田ヒカルを聴くのを止めるという自分の選択肢をものの見事に消し去ってくれた。自分にとってはまだ彼女に求めたいものの途上ではあるが。
 ちなみに、本作をiPodで聴くためにiTunesにインポートした際、ジャンルに表示されたのは“R&B”の文字。これを見て、安堵が宿ったことも事実、ということも付け加えておこう。


◇◇◇

宇多田ヒカル『初恋』(2018/6/27)

01 Play A Love Song
02 あなた
03 初恋
04 誓い
05 Forevermore
06 Too Proud featuring Jevon
07 Good Night
08 パクチーの唄
09 残り香
10 大空で抱きしめて
11 夕凪
12 嫉妬されるべき人生


◇◇◇




















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