
浅井忠、あちこちに行く
- 結ばれる人、つながる時代 -
2024年10月30日〜2025年1月19日
千葉県立美術館
会期最後の週末に滑り込み訪問。
千葉県立美術館は、1974年に開館。2024年に50周年を迎えた。

館内には、過去50年間に開催した展覧会のチラシが展示されている。
私が見たのは、今回がようやく3展目。
千葉みなとは、多摩地区からは遠い。
浅井忠(1856-1907)。
明治期に活躍した日本近代洋画の先駆者の一人。
佐倉藩士の子として佐倉藩の江戸屋敷で生まれる。父の死により7歳で家督を相続し、佐倉に戻る。学問や武芸を学ぶなか、絵に興味を持つ。1873年上京。1876年、工部美術学校でフォンタネージに学ぶ。1889年、明治美術会の設立メンバー。1894年、日清戦争に『時事新報』通信員として従軍。1898年東京美術学校教授、1900年から2年間のフランス留学、帰国後に京都高等工芸学校教授。
1967年に東京藝術大学所蔵の《収穫》が、1970年に東京国立博物館所蔵の《春畝》が、重要文化財に指定される。
千葉県立美術館は、開館以来、千葉ゆかりの作家として浅井の作品収集および調査研究につとめ、約200点の作品と約1,500件の関係資料の日本有数の浅井忠コレクションを有しているという。
本展は、開館50周年記念特別展として、350点以上の作品・資料を一挙公開するもの。他館の所蔵作品約10点が加わる。
【本展の構成】
1 プロローグ
2 東京に行く
2-1 工部美術学校
2-2 筑波日記
2-3 旅に出る
3 明治美術会と従軍
3-1 明治美術会
3-2 根岸時代
3-3 従軍日記
3-4 従軍
4 パリに行く
4-1 パリへの旅路
4-2 欧州日記 欧羅巴日記
4-3 パリでの生活
4-4 フォンテーヌブロー日記
4-5 フォンテーヌブローへ
5 グレーに行く
5-1 4度目のグレー
5-2 寒月・水仙
5-3 グレーでの交流
5-4 ヨーロッパ暦遊と帰国
6 京都に行く
6-1 京都高等工芸学校
6-2 武士の山狩
6-3 工芸への取り組み
6-4 写生の旅
6-5 日本画
6-6 大津絵
7 教え子たち
7-1 画集の発行
7-2 弟子たち
浅井忠
《人物立像》
16.8×11.0cm、千葉県立美術館

2-1
工部美術学校時代に描いたと思われる浅井の初期のスケッチ。
後年、浅井はフランス留学時に、絵画制作における人物デッサンの重要性を理解するが、これはフォンタネージが風景画家だったことも関係しているだろう。イタリアから来日した教師が人物画家だったならば、浅井は人物画家となり、後の洋画の様相は大きく異なっていたかもしれない。
浅井の私的イメージは、明治の農業風景を描いた画家。
アントニオ・フォンタネージ
《神女之図》
1876-1878年、146.5×91.0cm
千葉県立美術館

2-1
学校の新校舎建設の際に壁画を制作することが、来日の条件の一つにあった。
本作は新校舎壁画のための下絵である。
新校舎の目処が立たず、体調不良などから職を辞したフォンタネージは、帰国の際に作品を分け与えた。くじ引きで本作を引き当てたのが浅井だった。
「くじ引きで本作を引き当てた」は、大当たりと言いたいのか、単なる事実の説明なのか。
《磐梯山の図》2点
1888年
千葉県立美術館


2-3
浅井は、朝日新聞通信員として、磐梯山爆発後の様子を写生した。
当時の新聞は写真を紙面に掲載する技術がなく、現地の様子はスケッチを図版にして掲載されていた。
日本近代社会が初めて経験する大災害、当時の洋画家が総動員された感。
浅井忠
《ほしかき》
1890-97年、128.8x53.0cm
千葉県立美術館

3-2
ほしかきとは、イワシを干し、乾燥させて肥料にしたものを掻いている様子の意。房総は干しイワシの有数の産地であり、本作を描いた当時は、干しイワシは肥料の主流を占めていた。
働く人物、中でも働く女性を浅井は好んで題材にした。本作で見られる頭巾を被った女性は浅井が好んだ題材である。
日本画も描いた浅井。私的イメージのためか、そのなかでは農業を描いた作品が印象に残る。
浅井忠
《本と花》
1889年、17.1✕24.3cm
千葉県立美術館

3-2
秀作揃いの浅井の水彩画の中でも優れた出来栄えを見せる。革の装丁や四隅の補強の様子、しっかりとした厚みの本に置かれた赤い花と緑の葉は、瑞々しく、色彩が輝いている。
本作と《グレーの塔》1901年が、千葉県立美術館所蔵の浅井の水彩画の2大作品となるようだ。
浅井忠
《グレーの塔》
1901年、35.5×24.8cm
千葉県立美術館

4-5
浅井のフランス留学期間は、1900年4月〜02年3月の2年。最初の1年半はパリに、最後の6か月はグレー=シュル=ロワンに滞在する。
本作は、グレーの長期滞在前、1901年4月の数日間の小旅行時に制作。
浅井忠
《編みもの》
1901年、64.3×48.7cm
京都国立近代美術館

5-1
和田と二人で雇ったモデルが、12月3日から訪れた。
このモデルはホテルのオーナー、ポールが幹旋してくれた人物で、浅井たちが投宿していたホテルの1軒おいた隣りに住んでいた。以降、12月17日まで午前中モデルをつとめた。その後、浅井たちの要請を受けて12月19日からは、ポール夫人がモデルをつとめた。
浅井忠
《農婦》
1902年、33.0 × 31.9cm
千葉県立美術館

5-1
本作は、1902年2月にホテルのオーナー、ポールの母を描いた作品である。
この人物は昔話を始めては、次第に気持ちが沈みがちになったようである。
人物が縦に伸び、頭部に向けて上すぼみになるのは浅井のクセである。本作ではそれが顕著で、頭部に比べ腰回りが著しく大きいが、あえてそのままにしたのであろう。
人物画は不得手?
浅井忠
《ナポリ》
1902年、24.1×35.0cm
千葉県立美術館

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浅井の留学期間は、1900年4月から1902年3月までであったが、ヨーロッパ諸国視察のため、留学期間延長を要請する。4ヶ月間の延長が認められ、費用は学費として補助されることになる。
3月21日 グレーからパリに戻る。
5月12日、パリを夜行電車で発つ。
5月13日、トリノ着。
5月15日、ローマ着。友人で建築・建築史家の塚本靖のところに身を寄せて半月ほど滞在。
*ローマ滞在時に描いた唯一の作品が東博所蔵の水彩画《ノメンターノ橋》(本展には12/8までの出品)。
6月2日、ナポリへ4泊5日の旅行。
6月9日、ローマ発。
6月10日、フィレンツェ着。
6月14日、ヴェネツィア着。
6月19日、ウィーン着。2泊。
6月21日、ミュンヘン着。その日のうちに夜行電車で発つ。
6月22日、ドレスデン着。1泊。
6月23日、ベルリン着。
6月25日、パリに一旦戻る。
6月29日、ロンドン着。夏目漱石の部屋に世話になる。
7月4日、ロンドンから「阿波丸」に乗船して帰国の途に着く。
8月19日、神戸港着。
ローマ滞在以外は、あわただしい旅だったようだ。
《絵葉書[明治35年6月1日付塚本靖宛]》

《絵葉書[明治35年6月2日付浅井安子宛]》
《絵葉書[明治35年6月14日付浅井安子宛]》
その表面



浅井忠
《絵葉書[明治38年7月20日付浅井安子宛]》
《絵葉書[明治38年7月22日付塚本靖宛]》
1905年、千葉県立美術館


6-4
旅行初日に妻の安子へ送った葉書と、その翌日に友人の塚本へ送った葉書。
自分たちだけ楽しそう。
浅井忠については、学生時代に教科書を通じてその名前を知ったときからずっと変わらず、重要文化財《収穫》の画家程度のイメージしかなかった私。
本展は、千葉県立美術館コレクション中心で、重要文化財2点など全国から作品を集めるというタイプではないが、日本近代洋画初期を代表する一人の画家の活動に触れることができた。本展出品作を見る限り、フランス留学後に洋画の道に邁進、というわけではなさそうなのが興味深い。アール・ヌーヴォーに影響を受けて工芸・デザインに力を入れたり、日本画の制作が増えたり、後進の育成に努めたり。留学で自らの洋画の限界を感じたのだろうか。