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大正5年、女四人の会 -【その2】 「決定版!女性画家たちの大阪」(大阪中之島美術館)

2024年01月31日 | 展覧会(日本美術)
決定版!女性画家たちの大阪
2023年12月23日〜2024年2月25日
大阪中之島美術館
 
 
 明治から大正、昭和時代にかけて活動した大阪ゆかりの女性日本画家59名による作品186点を紹介する展覧会。
 
 
【本展の構成】
第1章 先駆者、島成園
第2章 女四人の会 - 島成園、岡本更園、木谷千種、松本華羊
第3章 伝統的な絵画 -南画、花鳥画など
第4章 生田花朝と郷土芸術
第5章 新たな時代を拓く女性たち
 
 
 第2章は、「女四人の会」。
 
 「女四人の会」は、大正5年(1916年)5月に三越呉服店大阪店で開催された、四人の女性画家による、井原西鶴の『好色五人女』をテーマとした展覧会である。
 
左から、
岡本更園(1895-没年不詳)
木谷千種(1895-1947)
島成園 (1892-1970)
松本華羊(1893-1961)
 
 20代前半の、既に文展入選実績のある彼女たちは、それぞれ自作品の前に立っている。
 本展には、それら作品のうち、島成園《西鶴のおまん》と岡本更園《西鶴のお夏》が出品される。
 
 
 以下、岡本更園、木谷千種、松本華羊の出品作から1点ずつ。
 
 
岡本更園(1895-没年不詳)
《秋のうた》
大正3年、個人蔵
 
 大正3年の第8回文展入選作。当時19歳。本作は長らく所在不明であり、久々の公開だという。
 
 窓辺に座り何かを見つめながら歌う若い女性。
 当時、女優の松井須磨子を描いたのではと噂されたが、画家は「モデルといって別にありませんが自分で自分の顔を鏡に寫して描いて見たのです」と述べているとのこと。
 
 現兵庫県西宮市生まれの岡本は、姉が嫁いだ日本画家・岡本大更の家に寄寓し、16歳からその画塾で学ぶ。大正後期に結婚した模様。没年不詳だが、昭和40年代までは阪神間にて活動した模様。
 
 
木谷千種(1895-1947)
《をんごく》
大正7年、大阪中之島美術館
 
 大正7年の第12回文展入選作。当時23歳。
 
 その年の初夏に3歳で亡くなった異母弟の追福のために描いた作品。
 盂蘭盆会に祖霊を迎える遊戯歌を歌いながら列になって練り歩く子どもたちを、格子の内から見ている商家の娘。
 
 千種の作品は、あやしい系の《芳澤あやめ》や《化粧(原題・不老の願い)》なども出品されるが、一番驚いた作品は、所在不明なのだろう、本作の絵葉書および本作の前に立つ画家の写真が掲載された『アサヒグラフ』の写真パネルで紹介される《眉の名残》。
 黒い薄着物から太ももや乳房が透けて見える、化粧中の女性を描く。
 大正14年の第6回帝展入選作であるが、警視総監から今後かかる挑発的な画は制作しないようにと警告を受け、撤去を免れたといういわくつきの作品であるとのこと。
 
 大阪の裕福な商家に生まれ、12歳から2年間洋画を学ぶため米シアトルに留学したという千種。大正2年、女学校卒業前に上京し、池田蕉園に師事、翌年帰阪し、北野恒富などに師事。大正9年、25歳のとき、18歳年上の近松門左衛門研究家の木谷蓬吟と結婚。作品制作、画塾運営・後進指導に育児と奮闘し、大阪女性画壇を支える。
 
 
松本華羊(1893-1961)
《殉教《伴天連お春》》
大正7年頃、福富太郎コレクション資料室
 
 大正7年の第12回文展落選作。当時25歳頃。
 
 棄教を拒否し処刑を待つ切支丹の遊女朝妻。
 
 東京生まれで、幼年期の転落事故で足が不自由となった華羊は、池田蕉園などから絵を学ぶ。
 大正4年に銀行家である父親の大阪勤務に伴い転居し、大阪画壇で活動する。大正9年に新聞記者で翻訳家の男性と結婚。昭和10年代前半までは活動していたようである。
 
 
 「女四人の会」の展覧会は、結局、大正5年の1回限りであったが、芸術新潮の特集記事によると、「大阪画壇の女性たちは、顔見知りも多く、ライバル関係や上下関係が希薄で、互いに仲良く切磋琢磨するといったチーム意識が強かった」とのこと。一方で、「女性ゆえ、人気ゆえの苦労と批判」(誹謗中傷も)が絶えなかったようだ。
 
 
 第3章の南画、花鳥画などの章はスルーするが、そのなかで1点目に留まった作品が、波多野華涯(1863-1939)の《西洋草花図》(大正14年、大阪中之島美術館蔵)。三幅対の画面いっぱいに描かれる草花の極彩色。
 
 
 第4章「生田花朝と郷土芸術」。
 2023年の東京ステーションギャラリー「大阪の日本画」展で初めて名を知った生田花朝(1889-1978)。同展では、師の菅楯彦とともに大阪の歴史風俗を描いた作品が紹介された。
 本展でも、異様に横長の《泉州脇の浜》(昭和11年、個人蔵)の再見のほか、《四天王寺聖霊会図(原題・四天王寺曼荼羅)》(昭和2年、大阪城天守閣蔵)などを楽しむ。
 大阪生まれの花朝は、3歳年下の島成園の活躍に発奮して官選入選を志す。初入選は36歳を迎える大正14年と比較的遅かったものの、その翌年には第7回帝展で女性として初の特選となる。その後、大阪で女性画家を代表する存在として、晩年まで現役を貫く。
 
 
 
【参照】
・本展図録
・芸術新潮2024年1月号、第2特集「なにわ女子のきらめき 近代大阪画壇ものがたり」


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