東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

アルチンボルドとカラヴァッジョ、(付)アルチンボルドメーカー

2017年07月18日 | アルチンボルド

アルチンボルド展
2017年6月20日~9月24日
国立西洋美術館

 

   アルチンボルドは、1562年以来宮廷画家として3代の皇帝に仕えてきたが、1587年、宮廷画家を辞して、故郷ミラノに戻る。
   ミラノでは、《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像》や《フローラ》を描いて皇帝ルドルフ2世に送るほか、本展出品作では《紙の自画像》やワシントンNG所蔵の《四季》などを制作。
   1593年7月11日にミラノで没する。



   アルチンボルドの後期ミラノ時代は、1587年から1593年の約6年間である。

 

   その時期、ミラノには、後に西洋美術史の大巨匠の一人となる青年が修業時代を送っている。

   そう、カラヴァッジョである。

 

   カラヴァッジョは1571年生まれであるから、アルチンボルドの後期ミラノ時代、およそ16歳から22歳にあたる。

 

   ところで、2016年のカラヴァッジョ展図録によると、カラヴァッジョがローマにやってきたのは、従来は1592年夏頃と推測されてきたが、近年発見された史料により、1595年後半から1596年初頭であるらしいことが分かる。

 

   このことは、カラヴァッジョ業界にとっては大変なことらしい。
   史料による裏付けの一切ない初期の風俗画について、今まで1600年までの8年間のなかでその展開を配置してきたが、今後は5年間のなかで配置し直さなければならないということ。「聖マタイ伝の制作順番」問題の再来なのかもしれない。

 

   1595年にローマにやってきたとして、ミラノから直接やってきたのか、ヴェネツィアなど他の都市で過ごしてからやってきたのかは不明である。

 

   しかし、アルチンボルドの後期ミラノ時代、青年カラヴァッジョがミラノにいて、ハプスブルク家の宮廷画家であったアルチンボルドの活動に注目していた可能性はある。

 

1584年 カラヴァッジョ13歳

・ミラノでペテルツァーノ(1535-1599)の工房に入り、4年間の徒弟契約を結ぶ。


1587年 カラヴァッジョ16歳

・アルチンボルドがプラハを去り、ミラノへ帰郷する。《紙の自画像》を描く。


1590年 カラヴァッジョ19歳

・10月、母ルチア死去。
・アルチンボルドがこの頃《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像》と《四季》を描く(✳︎前者の絵は、ミラノの工房で展示会を行ったらしい。カラヴァッジョも観たかも)。


1592年 カラヴァッジョ21歳

・5月、弟、妹と遺産を分配相続。


1593年 カラヴァッジョ22歳

・7月、アルチンボルド死去。


1595年 カラヴァッジョ24歳

・おそらくこの年の後半から翌年初頭にかけての頃、活動拠点をローマに移す。

 


  さて、本展非出品作だが、アルチンボルドの上下絵の一つに次の作品がある。


アルチンボルド
《果物籠のある上下絵の頭部》
個人蔵

 

   本作はアルチンボルド作として一般に認められているようだが、アルチンボルド展図録によると、ある研究者から本作品をカラヴァッジョ作とする仮説が提示されているらしい。

   凄いなあ、カラヴァッジョ業界。図録論文の筆者は当然?否定的。

   でも、カラヴァッジョ作だとすると面白い。《果物籠を持つ少年》ボルゲーゼ美、《果物籠》アンブロジアーナ絵画館、あるいは《バッカス》ウフィツィ美と同時代に描かれたとする仮説なのだろうか。

 

 

 

(付) 

   さて、唐突だが、ここで私の「アルチンボルドメーカー」の画像を掲示したい。

   たまたまガラガラだったので、まず右の機械で、次に左の機械でと2回挑戦。


1回目

  


2回目

 

 

   気分は静物画。次の瞬間には崩れゆく。



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