東京でカラヴァッジョ 日記

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生誕140年 吉田博展(損保ジャパン日本興亜美術館)

2017年07月19日 | 展覧会(日本美術)

生誕140年 吉田博展
山と水の風景
2017年7月8日~8月27日
損保ジャパン日本興亜美術館

 

   吉田博(1876‐1950)。
   風景一筋の風景画家。高山を愛する。木版画作品が特に知られる。

 

   混んでいる会場内。たいへんな人気。確かに吉田博の木版画作品は魅力的だろうけど、他にも魅力的な木版画家はいるはず。何故こんなに人気なのか、やはり日本におけるダイアナ妃人気を感じる。

 

1  ダイアナ妃

   ケンジントン宮殿の中にある執務室のダイアナ妃の写真。1987年5月発行の英国皇室専門誌「Majesty」に掲載された。
   後ろの壁に吉田博の2点の木版画が掛けられている。《猿澤池》(1933年)と《瀬戸内海集 光る海》(1926年)である。


   ダイアナ妃は前年1986年に国賓として初めて来日した際、《猿沢池》と長男・遠志の作品《箱根神仙郷 竹のお庭》を購入している。《光る海》は帰国後に購入したと言われる。執務室にしつらえるのだから、確かにお気に入りだったのだろう。


   本展には、《瀬戸内海集 光る海》が出品されている。

 


2  夏目漱石『三四郎』


《ヴェニスの運河》
明治39年、油彩
個人蔵


 長い間外国を旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。
   「ベニスでしょう」
 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片きれとをながめていた。すると、
   「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。
   「兄さんとは……」
   「この絵は兄さんのほうでしょう」
   「だれの?」
 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。
   「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」
 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色けしきをかいたものが幾点となくかかっている。
   「違うんですか」
   「一人と思っていらしったの」
   「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、
   「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

 

《ヴェラスケス作《メニッポス》模写》
明治39年、油彩
個人蔵

プラド美術館での模写作品。


   うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬ほおの肉が落ちている。
   「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。

   「その代りここん所へかけるつもりです」
 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
   「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。
   「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
   「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」
 原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。

 


3  3度の欧米外遊


【その1】

   明治32年(1899年)、借金で調達した片道切符と一か月分の生活費、それに描きためた水彩画を抱えて、友人・中川八郎と渡米する。訪れたデトロイト美術館で館長に作品を絶賛され、急遽同館で二人展を開催し成功する。翌年、ボストン美術館でも二人展を開催して成功。
   金持ちとなった二人は、欧州へ。英仏独瑞伊などを周り、パリ万博の日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状受賞し、米国に戻ったあと、明治34年(1901年)に1年9ヶ月ぶりに帰国する。

 

【その2】

   明治36年(1903年)には、義妹(のちの妻)ふじを を伴って渡米する。「兄妹展」を次々と成功させる。セントルイス万博に作品を出品し、銅賞牌を受賞する。欧州に移り、欧州各国やモロッコ、エジプトを巡り、明治40年(1906年)、3年2ヶ月ぶりに帰国する。


【その3】

   関東大震災後、三度目の米欧に旅立つ。若い日本人画家が描く異国の風景画という物珍しさで大々成功した時代は過ぎ去ったことを知る。一方で、日本の浮世絵版画の人気、明治に入ってからの粗雑で野暮な作品でさえも、欧米人が好んで購入し収集していることを知る。大正14年(1925年)の帰国後、本格的に木版画に取り組む。

 


4   戦中の油彩画


急角度で飛行する戦闘機内から見える風景

《急降下爆撃》
昭和16年、油彩
個人蔵
第4回新文展出品

《空中戦闘》
昭和16年、油彩
個人蔵

 

働く若者たち

《軍需工場》
昭和18-19年頃、油彩
個人蔵

 

高熱のオレンジ色

《精錬》
昭和18年、油彩
個人蔵
生産美術展出品

《溶鉱炉》
昭和19年、油彩
福岡市美術館

 


5   美しき欧州


広場に人と鳩が一杯。鳩の餌売りも。

《サンマルコ広場》
大正14年頃、油彩
個人蔵

 

ツェルマットの昼と夜の風景

《マタホルン山 欧州シリーズ》
《マタホルン山 夜 欧州シリーズ》
大正14年、木版画
個人蔵

 

 

おまけ 

   トーハクで時々見かけるこの油彩画(本展非出品)は、吉田博の作品だったのですね。

《精華》
明治42年(1909年)
東京国立博物館(吉田ふじを氏寄贈)



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