『みずほ、迷走の20年』という書籍の紹介記事。2003年頃のみずほの状況を取り上げています。
「発足当初から多額の不良債権を抱えていたみずほは、大衆の熱狂的な支持を受けていた小泉純一郎政権における竹中平蔵金融担当相の「金融再生プログラム」(竹中プラン)によってさらに混迷を深めることになる。自己資本比率を高めないと、銀行の存続さえ困難になる状況に陥った。」
「当時の前田晃伸みずほホールディングス社長がプロジェクトチームを発足させ、アイデアマンとして知られた小崎哲資コーポ銀経営企画部長らが具体策を練った。できあがったのは旧第一勧銀、旧富士、旧興銀の取引先を相手に、合計1兆円分ものみずほの優先株を引き受けてもらう仰天するようなプランだった。本来は産業界に成長資金を供給する銀行が、自らの生き残りのために産業界にリスクマネーの拠出を求める前代未聞の策だ。」
「斎藤氏は取引先に「なんとかみずほを助けてほしい。きちんと恩には報います」と頭を下げて回り、JFEホールディングスや東京電力などから優先株の引き受けを取りつけていく。なかでもみずほに情報システムを提供している富士通や日立製作所は早々に資金拠出を決めた。
みずほは最後には、旧財閥の枠を超えて三菱グループなど主力取引先ではない企業にも増資の引き受けを頼んで回った。その手法は極めて異例で、みずほの支店長が預金獲得キャンペーンのごとく自社株を取引先に売りさばいていく。融資先へのこうした依頼は独占禁止法の「優越的地位の乱用」ととられかねない法規制上すれすれの策だった。」
「当時の金融担当相だった竹中平蔵氏は、みずほの1兆円増資に対して「あのとき何というか、かなり無理をして資本増強したというイメージがある。あのやり方は企業とのもたれ合いになる」と今でも批判的にみている。実際、優先株の引受先となった取引先企業には、金利引き上げなどの条件交渉が緩み、メインバンクとしての発言力も落ちていく。みずほ自身も増資で発行済み株式数が大きく膨らんで、多額の配当負担が財務をむしばんでいくことにもなった。」
こういうところに、大きなシステムトラブルが減らない背景があったとは...。
会計基準的には、貸倒引当金と税効果会計の会計基準が、バブル崩壊前までにきちんとしたものであれば、もっと早くから対策が打てて、竹中氏に引っかき回されることもなかったことでしょう(税効果会計は時期的にはバブル崩壊後の銀行を助けるために導入されたようなものです)。
(電子書籍版)