父なる母なる神~本物の神と出会える場所~

神世界へと行ける光の道を、神の姿を書き現して、神宿る文章をお届けしています。

私を見た者は神を見たのである

2021年05月19日 | よもやま話
今回は、イエス・キリストが「私を見た者は神を見たのである」と語っていた真意をお伝えしたいと思います。

私は、「浅見帆帆子さん」タイプな人間で、「イエス・キリスト」タイプな人間なので、この2人に関しては、かなり詳細に解説できます。

書籍「あなたは絶対!運がいい」(2001年出版)(著者:浅見帆帆子)の124ページと125ページから引用させていただきます。


~~~ 以下、引用 ~~~

「迷っていたことの答えが人の口を借りて伝わってくる」(目次)

情報は、人の口を借りて伝わってくることもあります。

友だちとおしゃべりをしている時に、その時自分が考えていることの答えとなるようなことを、友だちが突然ペラペラと話し出すことがあります。

話している友だちのほうは、なんの気なしに言っていることで、わたしがそれについて考えていたことも知りませんし、相手にとっては全くたわいのない話なのです。

でもそれについて考えていたわたしにしてみれば、「え?彼女はわたしが迷っていたことは知らないはずなのに、なんで、突然こんなこと話し出すんだろう?」と、とても不思議な気分になります。

これは、自分の考えている問題そのものズバリのことを相手が話し出すということではありません。

全く違う内容の話なのに、今のわたしに向けられているような言葉がその中に出てきたりするのです。

それに気付くか気付かないかも精神レベルの高さによりますが、自分への情報に気付く時というのは、これが答えなのかなあとぼんやりわかるのではなく、「あ、これだ、絶対そうだ」とはっきりわかります。

頭にサッと光が入るような感じです。

~~~ 以上、引用終了 ~~~


まさに、私のケースでは、「迷っていたことの答えが母親の口を借りて伝わってくる」ことが多い。

母親は、「一般的な主婦」タイプの人間で、私と同様、どこかの宗教に属している人間ではなく、宗教的な組織にも加入していなくて、どこにでも居るような「普通の人」なのです。

ですが、私に対して、急に、意味があるシンクロニシティー的な発言を連発したりして、私から見たら、かなり「不思議な人」となっています。

おそらく、この「シンクロニシティー」というのは、神が、この世を創造した時に作り出した法則の1つであり、神が積極的に関与して見ている状況下ならば、運命を操作して、いとも簡単に起こせる事象なのでしょう。

そんな体験を何度もしている内に、イエス・キリストは、この不思議な現象の元が「神」であることに気付いて、だんだんと、神を身近な存在と感じてきて、ついには、明確に「神の存在」へと辿り着くことが出来た、ということなのでしょう。

もう1つ、「シンクロ(同化)」という「神の技」があり、イエス・キリストは、神との、かなりシンクロ率が高い状態で、言ったり、書いたり、行動したりしていたので、それで、「私を見た者は神を見たのである」と語っていたのだと思います。

神が教育係となり、「神の教え」や「神の真理」は、神が預言者とシンクロして、人々に伝えられるケースが多いのです。

もちろん、誰でも預言者になれる訳ではなく、「神の言葉」を語れるようになるためには、いくつかの苦行を体験して、「神からの通信を受け取るのに邪魔となるカルマ」をクリアして解消しておく必要がある。

「神の言葉を預かる」預言者というのは、苦しんでいる人に対して、ある程度、理解を示せる者じゃないといけないのです。

だから、預言者の人生は、だいたい、「様々な苦しみを味わう」ことが必須の人生となっていて、それは、「生まれる前から計画されていたこと」であり、「使命を果たすために、あらかじめ運命として組み込まれていたこと」なのです。

私が、普通の脳ではなく、「コミュ障」や「軽い発達障害」などで普通の人生が送れない、ずっと社会の底辺に居るような「みじめな人生」だったのは、そのためなのでしょう。

私の人生は、「この世を楽しむ」という観点から見たら「みじめな人生」ですが、「神の言葉を伝える」という観点から見たら「最適な人生」となっているのです。

そして、今の私は、「脳」だけじゃなく「体」の方も普通じゃない感じで、一通り、ちょっとずつですが、「体の悩みで苦しんでいる人の気持ちもある程度汲み取れる体」となっているみたいです。

今の私は、精神的にモロいし、体も弱々しい。

でも、だからこそ、「弱者の気持ちを理解できる者」となっている。

そして、勉強しても、運動しても、「ポンコツな脳」と「ポンコツな体」だから、かなり見返りが少ない感じになっていて、「努力しても報われない者の気持ちを理解できる者」となっているのです。

でも、だからこそ、これを肯定的に捉えるなら、「釈迦がやりたくても出来なかった苦行」をやり続けている、ということになり、私は、今、釈迦が辿り着いた「真理」以上の「究極の真理」へと辿り着くことが出来ている。

預言者的な「使命」を持って生まれてきた人は、だいたい、「宿命」や「運命」で苦行を強制的に課せられているケースが多くて、私の場合だと「コミュ障」や「軽い発達障害」が、それに相当し、その障害は「かなり強固」に作られていて、私の周りには常に「壁」みたいなものが存在していて、私は、何度も何度も、その壁を壊して突破しようと試みたけど無理だった。

私の人生は、「普通に生きたくても生きられない」という運命、「ずっと社会的な底辺で生き続けてその苦しみを十分に思い知る」という運命が、「生まれた時から決められていた」ということなのでしょう。

神から「預言者的な使命」を期待されている人は、まず、「運命的な苦行」を経て、それから「使命」を果たす、という流れになっているから、その運命的な苦行は、「使命を果たすために必要不可欠だった」ということなのです。

おそらく、イエス・キリストも、そういう流れの人生だったのでしょう。

だから、イエス・キリストは、「自分が歩んだ人生」そのものが「神の教え」を知る手がかりとなっていて、自分の人生で培った「悟り」を元として、苦しみを乗り越えて培った「神を感じられる心」と照らし合わせて答えに辿り着く感じで、かなり正確に「神の教え」を人々に伝えることが出来ていたのだと思います。

イエス・キリストが歩んだ人生は、「神が教育係となって作成した教科書」みたいな人生となっていた。

そして、神が、イエス・キリストとシンクロして、言わせたり、書かせたり、行動させたりしていたから、そのことに気付いたイエス・キリストが、「私を見た者は神を見たのである」と語っていたのです。


Author:神描人(かみえがきびと)

読んでいただいてありがとうございます^^
私自身、まだまだ未熟な人間であるため「自分も一緒に更生させちゃおう」という勢いで書いてます。
「こういう人間になれたらいいな」という理想形を描いているので、ご理解よろしくお願いしますm(__)m

著者のホームページ:http://www002.upp.so-net.ne.jp/kami/

2018年4月からブログ記事を書き始める前の、2009年5月からホームページに書き始めた記事が載っているので、もし、よろしかったら、読んでみてください。
たいした人間じゃないのにビッグマウスで書いてる理由とかも書いてあるので、口調が凄く気になって平常心で読めない人は、是非、一読してみてください(^^;)

全記事をパソコンにダウンロード(無料):https://www.vector.co.jp/soft/data/edu/se517755.html

2021年1月28日にso-netが無料でホームページを提供するサービスを終了しました。
それに伴い、今はホームページを表示できない状態となってしまっています。
NTTのフレッツ光で、プロバイダをso-netに選択してインターネット回線に繋いでいて、そのso-netの無料ホームページサービスを利用する形で、そこに記事を載せたり、トップページから全記事をダウンロードできるようにしていたのですが、それが出来なくなってしまいました。
なので、新たにホームページ先を見つけるまでは、一時的に、ソフトダウンロードサイトであるVectorのみから全記事をダウンロードできる形をとっています。
多くの人にダウンロードしてもらって多くの人に読んでもらえるのが、これから私が文章を書く意欲にも繋がると思うので、今は、まだ、読むつもりがない人であっても、とりあえずダウンロードしてもらって、パソコンの片隅にでも残しておいてもらえると嬉しいです。
Vectorさんは大手のダウンロードサイトなので安心してダウンロードしてもらえるかと思います。