ヨハネ20章
○
イエスの復活
(ヨハネ20:7-9)新共同訳
「イエスの頭を包んでいた覆いは,
亜麻布と同じ所には置いてなく,
離れた所に丸めてあった。
それから,
先に墓に着いたもう一人の弟子も
入って来て,見て,信じた。
イエスは必ず死者の中から
復活されることになっているという
聖書の言葉を,
二人はまだ理解していなかったのである。」
マグダラのマリヤ,ペテロ,ヨハネが
イエスの墓に行き遺体がないことを見た。
☆彡
復活する
(ヨハネ20:1-10)新共同訳
「週の初めの日,朝早く,まだ暗いうちに,
マグダラのマリアは墓に行った。
そして,
墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで,シモン・ペトロのところへ,
また,イエスが愛しておられた
もう一人の弟子のところへ走って行って
彼らに告げた。
「主が墓から取り去られました。
どこに置かれているのか,
わたしたちには分かりません。」
そこで,ペトロとそのもう一人の弟子は,
外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが,
もう一人の弟子の方が,
ペトロより速く走って,
先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと,
亜麻布が置いてあった。
しかし,彼は中には入らなかった。
続いて,シモン・ペトロも着いた。
彼は墓に入り,
亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは,
亜麻布と同じ所には置いてなく,
離れた所に丸めてあった。
それから,
先に墓に着いたもう一人の弟子も
入って来て,
見て,信じた。
イエスは必ず死者の中から
復活されることになっているという
聖書の言葉を,
二人はまだ理解していなかったのである。
それから,
この弟子たちは家に帰って行った。
○
(ヨハネ20:11-13)新共同訳
マリアは墓の外に立って泣いていた。
泣きながら身をかがめて墓の中を見ると,
イエスの遺体の置いてあった所に,
白い衣を着た二人の天使が見えた。
一人は頭の方に,
もう一人は足の方に座っていた。
天使たちが,
「婦人よ,なぜ泣いているのか」と言うと,
マリアは言った。
「わたしの主が取り去られました。
どこに置かれているのか,
わたしには分かりません。」
天使がマグダラのマリヤに
イエスの復活を伝えます。
☆彡
イエスの復活をマタイの福音書では,
次のように述べてあります。
復活する
(マタイ28:1-8)新共同訳
さて,安息日が終わって,
週の初めの日の明け方に,
マグダラのマリアともう一人のマリアが,
墓を見に行った。
すると,大きな地震が起こった。
主の天使が天から降って近寄り,
石をわきへ転がし,
その上に座ったのである。
その姿は稲妻のように輝き,
衣は雪のように白かった。
番兵たちは,恐ろしさのあまり震え上がり,
死人のようになった。
天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。
十字架につけられたイエスを
捜しているのだろうが,
あの方は,ここにはおられない。
かねて言われていたとおり,
復活なさったのだ。
さあ,遺体の置いてあった場所を見なさい。
それから,
急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。
そして,
あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。』確かに,
あなたがたに伝えました。」
婦人たちは,恐れながらも大いに喜び,
急いで墓を立ち去り,
弟子たちに知らせるために走って行った。
○
イエス,マグダラのマリアに現れる
(ヨハネ20:16)新共同訳
「イエスが,『マリア』と言われると,
彼女は振り向いて,ヘブライ語で,
『ラボニ』と言った。
『先生』という意味である。」
復活のイエスが
マグダラのマリヤへに会います。
顕現と言います。
☆彡
(ヨハネ20:14-18)新共同訳
こう言いながら後ろを振り向くと,
イエスの立っておられるのが見えた。
しかし,
それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。
「婦人よ,なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」
マリアは,園丁だと思って言った。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら,
どこに置いたのか教えてください。
わたしが,あの方を引き取ります。」
イエスが,「マリア」と言われると,
彼女は振り向いて,ヘブライ語で,
「ラボニ」と言った。
「先生」という意味である。
イエスは言われた。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。
まだ父のもとへ上っていないのだから。
わたしの兄弟たちのところへ行って,
こう言いなさい。
『わたしの父であり,
あなたがたの父である方,
また,わたしの神であり,
あなたがたの神である方のところへ
わたしは上る』と。」
マグダラのマリアは
弟子たちのところへ行って,
「わたしは主を見ました」と告げ,
また,主から言われたことを伝えた。
●
イエス・キリスト復活する
(ヨハネ20:19)新改訳
「その日,すなわち,
一週の初めの日の夕方,
弟子たちはユダヤ人をおそれて,
自分たちのおる所の
戸をみなしめていると,
イエスがはいってきて,
彼らの中に立ち,
『安かれ』と言われた。」
イエス・キリストが
十字架につけられた後,
弟子たちは恐れていました。
弟子たちに
復活したイエス・キリストが現れます。
そして,
イエスは「聖霊を受けよ。」
と言います。
☆彡
(ヨハネ20:19-23)新改訳
「その日,すなわち,
一週の初めの日の夕方,
弟子たちはユダヤ人をおそれて,
自分たちのおる所の
戸をみなしめていると,
イエスがはいってきて,
彼らの中に立ち,
『安かれ』と言われた。
そう言って,手とわきとを,
彼らにお見せになった。
弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスはまた彼らに言われた,
『安かれ。
父がわたしをおつかわしになったように,
わたしもまたあなたがたをつかわす』。
そう言って,
彼らに息を吹きかけて仰せになった,
『聖霊を受けよ。
あなたがたがゆるす罪は,
だれの罪でもゆるされ,
あなたがたがゆるさずにおく罪は,
そのまま残るであろう』。
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聖霊を受けなさい
(ヨハネ20:22,23)新共同訳
「そう言ってから,
彼らに息を吹きかけて言われた。
『聖霊を受けなさい。
だれの罪でも,
あなたがたが赦せば,
その罪は赦される。
だれの罪でも,
あなたがたが赦さなければ,
赦されないまま残る。』」
復活したイエスが弟子たちに現れ,
言いました。
「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)
イエスは以前に約束した通り
弟子たちに聖霊を遣わした
(ヨハネ14:16,26)
(ヨハネ16:7)
誰の罪でも
聖霊を受けたことで
イエスは弟子たちに罪を赦す
力と権威を与えた。
神のみが罪を赦すと
信じられていたが
イエスはこれからは,
イエスに従う者たちが
それを担うという。
(ヨハネ20:21)新共同訳
「イエスは重ねて言われた。
『あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように,
わたしもあなたがたを遣わす。』
☆彡
イエス,弟子たちに現れる
(ヨハネ20:19-23)新共同訳
その日,
すなわち週の初めの日の夕方,
弟子たちはユダヤ人を恐れて,
自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ,イエスが来て真ん中に立ち,
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。
そう言って,
手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは,主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように,
わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから,
彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも,
あなたがたが赦せば,
その罪は赦される。
だれの罪でも,
あなたがたが赦さなければ,
赦されないまま残る。」
○
復活のイエス,トマスにあう
(ヨハネ20:28,29)新共同訳
「トマスは答えて,
『わたしの主,わたしの神よ』
と言った。
イエスはトマスに言われた。
『わたしを見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は,
幸いである。』」
トマスは復活したイエスに会います。
(ローマ6:9)新共同訳
「死者の中から復活させられた
キリストはもはや
死ぬことがない,と知っています。
死は,もはやキリストを支配しません。」
☆彡
イエスとトマス
(ヨハネ20:24-31)新共同訳
「十二人の一人で
ディディモと呼ばれるトマスは,
イエスが来られたとき,
彼らと一緒にいなかった。
そこで,ほかの弟子たちが,
「わたしたちは主を見た」と言うと,
トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見,
この指を釘跡に入れてみなければ,
また,
この手をそのわき腹に入れてみなければ,
わたしは決して信じない。」
さて八日の後,
弟子たちはまた家の中におり,
トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに,
イエスが来て真ん中に立ち,
『あなたがたに平和があるように』
と言われた。
それから,トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて,
わたしの手を見なさい。
また,あなたの手を伸ばし,
わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく,
信じる者になりなさい。」
トマスは答えて,
「わたしの主,わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は,幸いである。」
ヨハネの目的
(ヨハネ20:31)
「これらのことが書かれたのは,
イエスが神の子キリストであることを,
あなたがたが信じるため,
また,あなたがたが信じて,
イエスの御名によって
いのちを得るためである。」
この書(ヨハネの福音書)
の書かれた目的です。
人として生まれたイエスが神の子であること
(ヨハネ1:14),
そしてイエスがキリスト(救い主)であること
を示すためでした。
それは,このイエスを信じることによって
いのち(永遠の命)を受けるためでした。