神に生きる (1)
(ガラテヤ2:19,20)
「私は,神に生きるために,
律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった
神の御子を信じる
信仰によっているのです。」
イエスを信じたとき,
古い私は死に,
キリストが生きるのです。
新しい人生が始まります。
この言葉は,
パウロの個人的な体験です。
わたしたちが,
イエス・キリストを信じて歩むことは,
わたしたちが主と共に死に,
主の復活と共に生きることです。
この業は聖霊によってなされます。
「私はキリストとともに
十字架につけられました」とは,
古い罪の力に支配された生活に死に,
キリストの復活の命に生かされることです。
パウロは,ローマの手紙では
次のように表現しています。
(ローマ6:6)
「わたしたちは,この事を知っている。
わたしたちの内の古き人は
キリストと共に十字架につけられた。
それは,この罪のからだが滅び,
わたしたちがもはや,
罪の奴隷となることがないためである。」
(ローマ6:11)
「このように,
あなたがた自身も,
罪に対して死んだ者であり,
キリスト・イエスにあって
神に生きている者であることを,
認むべきである。」
イエス・キリスト御自身は,
次のように言います。
(マタイ16:24-26)
「イエスは弟子たちに言われた。
『だれでも
わたしについて来たいと思うなら,
自分を捨て,自分の十字架を負い,
そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い,
わたしのためにいのちを失う者は,
それを見いだすのです。
人は,たとい全世界を手に入れても,
まことのいのちを損じたら,
何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには,
人はいったい
何を差し出せばよいでしょう。』」
パウロが,
イエス・キリストの内にある
恵みを語りますが,
そのためには,
イエス・キリストと共に死に,
共に生きることが必要です。
(1コリント1:30)
「しかしあなたがたは,
神によって
キリスト・イエスのうちにあるのです。
キリストは,私たちにとって,
神の知恵となり,
また,義と聖めと,
贖いとになられました。」
☆
十字架につけられる (2)
(ガラテヤ2:19,20 新改訳)
「しかし私は,神に生きるために,
律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった神の御子を
信じる信仰によっているのです。」
パウロの個人の体験です。
また,イエス・キリストを信じる者の
生き方でもあります。
パウロは律法のもとにある古い命が,
キリストへの信仰に基づいた
新しい命に変わったことを意味します。
「神の子なるイエス」(新聖歌342)
1
神の子なるイエス わが心に
住まわせ給もう 妙なるかな
(折り返し)
わが内に主は在す
奇しくも妙なり
わが内に在す主は
来るべき王なり
2
かくも主は悩み かくも愛し
主の花嫁と われをなしぬ
3
されど幾たびも 主を苦しめ
畏き御旨 われは裂きぬ
4
全て主は赦し 前のごとく
御胸に抱き 愛し給う
5
イエスはわが持てる
全てなれば
乏しきことも 弱きもなし
※妙なる=すぐれてすばらしい・天来の美しさ
※奇(くす)しくも=不思議で
※裂きぬ=痛めた
☆
十字架につけられる (3)
(ガラテヤ2:20)
「生きているのは,
もはや,わたしではない。
キリストが,
わたしのうちに生きておられるのである。
しかし,わたしが
いま肉にあって生きているのは,
わたしを愛し,
わたしのために
ご自身をささげられた神の御子を
信じる信仰によって,
生きているのである。」
イエス・キリストを信じる者は,
イエス・キリストと共に十字架につけられ,
共によみがえるのです。
そして,聖霊に導かれた歩みをします。
ペンテコステに注がれた,
聖霊は信じる者のうちに宿り,
御霊の実を結びます。
1.
(ガラテヤ5:24)
「キリスト・イエスに属する者は,
自分の肉を,その情と欲と共に
十字架につけてしまったのである。」
2.
御霊に生きる
(ガラテヤ5:25)
「もしわたしたちが
御霊によって生きるのなら,
また御霊によって進もうではないか。」
3.
御霊の実
(ガラテヤ5:22,23)
「御霊の実は,
愛,喜び,平和,
寛容,慈愛,善意,
忠実,柔和,自制であって,」
☆
もはや,わたしではない (4)
(ガラテヤ2:19,20 口語訳)
「わたしは,神に生きるために,
律法によって律法に死んだ。
わたしはキリストと共に
十字架につけられた。
生きているのは,
もはや,わたしではない。
キリストが,
わたしのうちに生きておられるのである。
しかし,わたしが
いま肉にあって生きているのは,
わたしを愛し,
わたしのためにご自身をささげられた
神の御子を信じる信仰によって,
生きているのである。」
パウロの体験から生じている言葉です。
イエス・キリストを信じる者の実態も
この言葉と同じです。
イエス・キリストとわたしたちが,
チェンジ(交換)しているのです。
♪ 「生くる甲斐もなしと」
(新聖歌111)
1.
いくるかいもなしと一人
さだめたりし者を
死をもとして救いませる
深きイエスの愛よ
十字架!十字架!そこにきみは
つきて死にたまえり
十字架!十字架!そこにわれの
罪もともに死せり
2.
罪をそこにつけし今は
いかで罪に問われん
神にありてつねにきよく
いくる身にしあれば
十字架!十字架!そこにきみは
つきて死にたまえり
十字架!十字架!そこにわれの
罪もともに死せり
3.
きみのみ手に支えられて
道をあゆむわれに
み名をほむる讃え歌の
たゆる時はあらじ
十字架!十字架!そこにきみは
つきて死にたまえり
十字架!十字架!そこにわれの
罪もともに死せり
☆
内なるキリスト (5)
(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに
十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく,
キリストが私のうちに
生きておられるのです。
いま私が,この世に生きているのは,
私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった
神の御子を信じる
信仰によっているのです。」
「私はキリストとともに
十字架につけられました」とは,
キリストが十字架の上で,
わたしの代表者として死んだのですから,
キリストが死んだとき
わたしも死んだのです。
「キリストが私のうちに生きておられる」とは,
わたしがキリストの支配の下にあることを
示しています。
わたしたちが
イエス・キリストを信じるなら,
わたしたちのこころのうちに
キリストが入り住むのです。
(ローマ5:23-25)
「『義と認められた』と書いてあるのは、
アブラハムのためだけではなく、
わたしたちのためでもあって、
わたしたちの主イエスを死人の中から
よみがえらせたかたを信
じるわたしたちも、
義と認められるのである。
主は、わたしたちの罪過のために
死に渡され、
わたしたちが義とされるために、
よみがえらされたのである。」
(ローマ6:6)
「 私たちの古い人がキリストとともに
十字架につけられたのは,
罪のからだが滅びて,
私たちがもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを,
私たちは知っています。」
♪ (新聖歌342)
「神の子なるイエス
わが心に
住(す)まわせ給う
妙(たえ)なるかな
わが内に主は在(い)ます
奇(くす)しくも妙なる
わが内に在す主は
来るべき王なり」
(コロサイ1:27)
「神は聖徒たちに,
この奥義が異邦人の間にあって
どのように栄光に富んだものであるかを,
知らせたいと思われたのです。
この奥義とは,
あなたがたの中におられるキリスト,
栄光の望みのことです。」
2023-01-08