コリント人への手紙 第1 (3)
7-16章 解説
○
自由人
(1コリント7:22,23)
「奴隷も,主にあって召された者は,
主に属する自由人であり,
同じように,自由人も,
召された者は
キリストに属する奴隷だからです。
あなたがたは,
代価をもって買われたのです。
人間の奴隷となってはいけません。」
イエス・キリストを信じる者は,
主に属する自由人
(罪・死・律法・
人への恐れ等から解放された者)
となっています。
そして,イエス・キリストの奴隷
(イエス・キリストに仕えて生きる者)、
イエス・キリストご自身の命である
血の代価を払って
買い取られました。
もはや人の奴隷
(身分ではなく霊的に人に支配される者)
になるべきではありません。
人の奴隷から、自由にされ、
神に仕える者にされています。
○
唯一の神, わたしたちの存在
(1コリント8:6)
「私たちには,
父なる唯一の神がおられるだけで,
すべてのものはこの神から出ており,
私たちもこの神のために
存在しているのです。
また,唯一の主なるイエス・キリストが
おられるだけで,
すべてのものはこの主によって存在し,
私たちもこの主によって
存在するのです。」
父なる神は,唯一の神であり,
天地を造られた方です。
イエス・キリストは父なる神と共に,
天地を造られました。
私たちは,
このイエス・キリストにおいて,
存在しているのです。
○
自由
「私はだれに対しても自由ですが,
より多くの人を獲得するために,
すべての人の奴隷となりました。」
(1コリント9:22)
「弱い人々には,弱い者になりました。
弱い人々を獲得するためです。
すべての人に,
すべてのものとなりました。
それは,何とかして,
幾人かでも救うためです。」
○
イエス・キリストに従う
(1コリント9:27)
「私は自分のからだを
打ちたたいて従わせます。
それは,私がほかの人に
宣べ伝えておきながら,
自分自身が
失格者になるようなことの
ないためです。」
主の服従のために
生きることを勧めています。
○
霊的な岩
(1コリント10:1-4)
「そこで,兄弟たち。
私はあなたがたにぜひ次のことを
知ってもらいたいのです。
私たちの父祖たちはみな,
雲の下におり,
みな海を通って行きました。
そしてみな,雲と海とで,
モーセにつくバプテスマを受け,
みな同じ御霊の食べ物を食べ,
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。
というのは,
彼らについて来た御霊の岩から
飲んだからです。
その岩とはキリストです。」
「私たちの先祖」(10:1)とは,
イスラエル民族のことです。
私たちは,
新しいイスラエル民族なのです。
「雲の下におり」(10:1)の雲は,
主の臨在のしるしです。
(出エジプト13:21)
「彼らについて来た御霊の岩」
(10:4)は,
泉を出したメリバの岩
(出エジプト17:1-7)のことです。
神は,
イスラエルの民と旅路を
共にして水を与え続けました。
私たちは,
岩なるイエス・キリストを信じ,
内に聖霊を受けて,
生きているのです。
○
試練
(1コリント10:13)
「あなたがたのあった試練は
みな人の知らないようなものでは
ありません。
神は真実な方ですから,
あなたがたを耐えることのできないような
試練に会わせるようなことは
なさいません。
むしろ,耐えることのできるように,
試練とともに,
脱出の道も備えてくださいます。」
○
神の栄光をあらわす
(1コリント10:23,24)
「すべてのことは,
してもよいのです。
しかし,
すべてのことが有益とはかぎりません。
すべてのことは,してもよいのです。
しかし,
すべてのことが
徳を高めるとはかぎりません。
だれでも,自分の利益を求めないで,
他人の利益を心がけなさい。」
(1コリント10:31)
「こういうわけで,
あなたがたは,
食べるにも,飲むにも,
何をするにも,
ただ神の栄光を
現わすためにしなさい。」
イエス・キリストを信じる者は,
自由にされました。
その自由は徳をたかめるために,
用いるべきだといいます。
そして,「他人の利益を心がけなさい」
と言います。
まとめるなら,
「何をするにも,
神の栄光をあらわすために」
するべきだとパウロは言います。
聖餐式
(1コリント11:23-29)
「私は主から受けたことを,
あなたがたに伝えたのです。
すなわち,主イエスは,
渡される夜,パンを取り,
感謝をささげて後,
それを裂き,こう言われました。
『これはあなたがたのための,
わたしのからだです。
わたしを覚えて,
これを行いなさい。』
夕食の後,
杯をも同じようにして言われました。
『この杯は,
わたしの血による新しい契約です。
これを飲むたびに,
わたしを覚えて,
これを行いなさい。』
ですから,
あなたがたは,このパンを食べ,
この杯を飲むたびに,
主が来られるまで,
主の死を告げ知らせるのです。」
聖餐式(主の晩餐)の制定を
書いています。
イエスの最後の晩餐を受けたものです。
イエス・キリストは
つぎのように言っています。
(マタイ26:26-29)
「彼らが食事をしているとき,
イエスはパンを取り,
祝福して後,
これを裂き,
弟子たちに与えて言われた。
『取って食べなさい。
これはわたしのからだです。』
また杯を取り,感謝をささげて後,
こう言って彼らにお与えになった。
『みな,この杯から飲みなさい。
これは,わたしの契約の血です。
罪を赦すために
多くの人のために流されるものです。
ただ,言っておきます。
わたしの父の御国で,
あなたがたと新しく飲むその日までは,
わたしはもはや,
ぶどうの実で造った物を
飲むことはありません。』
○
聖霊の賜物
(1コリント12:8-10)
「ある人には御霊によって
知恵のことばが与えられ,
ほかの人には同じ御霊にかなう
知識のことばが与えられ,
またある人には同じ御霊による
信仰が与えられ,
ある人には同一の御霊によって,
いやしの賜物が与えられ,
ある人には奇蹟を行なう力,
ある人には預言,
ある人には霊を見分ける力,
ある人には異言,
ある人には異言を解き明かす力が
与えられています。」
イエス・キリストを信じる者には,
愛を中心とした
御霊(聖霊)の実が与えられます。
そして,神のために働くために
御霊の賜物が与えられています。
「御霊の賜物」(12:4)とは,
イエス・キリストを信じる者が
教会での奉仕のために
聖霊によって受けたものです。
イエス・キリストを信じる者には,
愛を中心とした御霊の実が
与えられると共に
神のために働くために
御霊の賜物が与えられています。
○
愛 - 最高の道
(1コリント12:31b)
「あなたがたは,
よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。
また私は,
さらにまさる道を示してあげましょう。」
パウロは12章で,
霊の賜物について述べました。
そして,その賜物を生かす道は,
愛であるといいます。
愛は聖霊の実でもあります。
(ガラテヤ5:22,23)
「御霊の実は,愛,喜び,平安,
寛容,親切,善意,
誠実, 柔和,自制です。
このようなものを禁ずる律法は
ありません。」
○
愛
(1コリント13:4-8)
「愛は寛容であり,愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず,高慢になりません。
礼儀に反することをせず,
自分の利益を求めず,
怒らず,人のした悪を思わず,
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし,すべてを信じ,
すべてを期待し,すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。」
愛はギリシャ語ではアガペーです。
13章は「愛の章」と呼ばれています。
ここでは,愛の不滅性を示しています。
ここでの愛(アガペー)は神の愛です。
そして,キリスト者が,
他者に自分を与える愛です。
○
御霊の賜物
(1コリント14:12)
「あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を
熱心に求めているのですから,
教会の徳を高めるために,
それが豊かに与えられるよう,
熱心に求めなさい。」
コリントの教会は,
問題が多かったのですが,
聖霊は働いていました。
パウロは,教会を作り上げるために,
霊の賜物を
求めるように言います。
○
祈りと預言について
(1コリント14:15)
「ではどうすればよいのでしょう。
私は霊において祈り,
また知性においても祈りましょう。
霊において賛美し,
また知性においても賛美しましょう。」
(1コリント14:31)
「あなたがたは,
みながかわるがわる
預言できるのであって,
すべての人が学ぶことができ,
すべての人が勧めを
受けることができるのです。」
聖霊の賜物である,
異言での祈りと,
預言について宣べています。
聖霊の賜物は,教会の中で,
人の徳を高め,
神の栄光を現すために用いるべきです。
最もたいせつなこと
(1コリント15:3-5)
「私があなたがたに
最もたいせつなこととして伝えたのは,
私も受けたことであって,
次のことです。
キリストは,聖書の示すとおりに,
私たちの罪のために死なれたこと,
また,葬られたこと,
また,聖書の示すとおりに,
三日目によみがえられたこと,
また,ケパに現れ,
それから十二弟子に現れたことです。
その後,キリストは五百人以上の
兄弟たちに同時に現れました。
その中の大多数の者は
今なお生き残っていますが,
すでに眠った者もいくらかいます。」
(1コリント15:1)
「兄弟たち。
私は今,
あなたがたに福音を知らせましょう。
これは,
私があなたがたに宣べ伝えたもので,
あなたがたが受け入れ,
また,
それによって立っている福音です。」
ここでの福音(15:1)とは,
イエス・キリストが
十字架に架かり復活したことであり,
わたしたちが罪と死に打ち勝つためであった
という良い知らせのことです。
このパウロが
最も大切なこととして伝えたことは,
イエス・キリストの
十字架と復活でありました。
十字架と復活は,
聖書の中の最も大切なことであり,
わたしたちの信仰の
最も大切なことでもあります。
☆
イエス・キリスト次のように
弟子に話していたことは,
そのまま実現しました。
(マタイ16:21)
「その時から,
イエス・キリストは,
ご自分がエルサレムに行って,
長老,祭司長,律法学者たちから
多くの苦しみを受け,殺され,
そして三日目によみがえらなければ
ならないことを弟子たちに
示し始められた。」
○
再臨のときの復活
(1コリント15:20-23)
「しかし,今やキリストは,
眠った者の初穂として
死者の中からよみがえられました。
というのは,
死がひとりの人を通して来たように,
死者の復活もひとりの人を
通して来たからです。
すなわち,
アダムにあって
すべての人が死んでいるように,
キリストによって
すべての人が生かされるからです。
しかし,
おのおのにその順番があります。
まず初穂であるキリスト,
次にキリストの再臨のとき
キリストに属している者です。」
キリストは復活の第一の人です。
次に,イエス・キリストを
信じる者の復活があります。
終末のとき,
イエス・キリストを信じる者は,
復活が希望となります。
○
再臨
(1コリント15:51,52)
「聞きなさい。
私はあなたがたに
奥義を告げましょう。
私たちはみな,
眠ることになるのではなく
変えられるのです。
終わりのラッパとともに,
たちまち,一瞬のうちにです。
ラッパが鳴ると,
死者は朽ちないものによみがえり,
私たちは変えられるのです。」
イエス・キリストを信じる者は,
再臨のとき,死んでいた者は復活し,
生きている者も変えられるといいます。
再臨について,
イエス・キリストは生きているとき
次のように話しています。
(マタイ24:31)
「人の子は大きなラッパの響きとともに,
御使いたちを遣わします。
すると御使いたちは,
天の果てから果てまで,
四方からその選びの民を集めます。」
○
復活の体
(Ⅰコリント15:49)
「私たちは土で造られた者の
かたちを持っていたように,
天上のかたちをも持つのです。」
わたしたちは,
イエス・キリストがもう一度来られるとき,
新しい体を受け取ります。
その体は「天上のかたち」だといいます。
(1コリント15:42-49)
「死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ,
朽ちないものによみがえらされ,
卑しいもので蒔かれ,
栄光あるものによみがえらされ,
弱いもので蒔かれ,
強いものによみがえらされ,
血肉のからだで蒔かれ,
御霊に属するからだに
よみがえらされるのです。
血肉のからだがあるのですから,
御霊のからだもあるのです。
聖書に
『最初の人アダムは生きた者となった』
と書いてありますが,
最後のアダムは,
生かす御霊となりました。
最初にあったのは血肉のものであり,
御霊のものではありません。
御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て,
土で造られた者ですが,
第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな,
この土で造られた者に似ており,
天からの者はみな,
この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者の
かたちを持っていたように,
天上のかたちをも持つのです。」
○
「死は勝利にのまれました」
(1コリント15:54)
「朽ちるものが朽ちないものを着,
死ぬものが不死を着るとき,
『死は勝利にのまれた』
としるされている,
みことばが実現します。」
死の解決は,
イエス・キリストを信じたときです。
わたしたちのからだの,
完全な救いは,再臨のときです。
再臨のときに,
わたしたちが変えられることにより
与えられます。
「球根の中には」
(讃美歌21 575)
1
球根の中には 花が秘められ,
さなぎの中から いのちはばたく。
さむ ふゅ なか はる
寒い冬の中 春はめざめる。
その日,その時を ただ神が知る。
2
沈黙はやがて 歌に変えられ,
深い闇の中 夜明け近づく。
過ぎ去った時が 未来を拓く。
その日,その時を ただ神が知る。
3
いのちの終わりは いのちの始め。
おそれは信仰に,死は復活に,
ついに変えられる 永遠の朝。
その日,その時を ただ神が知る。
○
主に結ばれる
(1コリント15:58)
「わたしの愛する兄弟たち,
こういうわけですから、
動かされないようにしっかり立ち、
主の業に常に励みなさい。
主に結ばれているならば
自分たちの苦労が
決して無駄にならないことを、
あなたがたは知っているはずです。」
わたしたちが主に結ばれるということは,
素晴らしいことです。
○
マラナ・タ (主よ,来てください)
(1コリント16:22-24)
「主を愛さない者は,
神から見捨てられるがいい。
マラナ・タ(主よ,来てください)。
主イエスの恵みが,
あなたがたと共にあるように。
わたしの愛が,
キリスト・イエスにおいて
あなたがた一同と共にあるように。」
パウロは,
手紙の最後に
「主よ,来てください」と叫び,
祈っています。
2017.9.16 台風接近の日