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朝の光(聖書の言葉)

マルコの福音書  2018.2.14

マルコの福音書  2018.2.14


著者のマルコは,ペテロの同伴者であった。


実質的には,

ペテロによって語られたイエス伝である。


マルコは,イエスが捕らわれた夜,

「裸で逃げた」若者だろうと

いわれています。



(マルコ14:51,52)

「 一人の若者が,
素肌に亜麻布をまとって
イエスについて来ていた。
人々が捕らえようとすると,
亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」


マルコはこの失敗を深く悔いたでしょう。




福音のはじめ


(マルコ1:3,4)

「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し,
主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに,
バプテスマのヨハネが
荒野に現われて,
罪が赦されるための
悔い改めのバプテスマを説いた。」


マルコの福音書は,

洗礼者ヨハネの登場から始まります。

洗礼者ヨハネは,「福音」を宣べます。

「福音」とは,「良い知らせ」のことです。


マルコの福音書による「福音」とは,

キリストの来臨によって,

神の国が近づくことです。


(マルコ1:14,15)

「ヨハネが捕えられて後,
イエスはガリラヤに行き,
神の福音を宣べて言われた。
『時が満ち,神の国は近くなった。
悔い改めて福音を信じなさい。』」


「悔い改め」とは,

「方向転換」を意味しています。


神に背を向けていた人生から,

神を見上げる人生に向きを変えることです。





(マルコ1:11)口語訳

 すると天から声があった、
「あなたはわたしの愛する子、
わたしの心にかなう者である」。



(マルコ1:17)口語訳

イエスは彼らに言われた、
「わたしについてきなさい。
あなたがたを、
人間をとる漁師にしてあげよう」。




中風の人をいやす


(マルコ2:5)

「イエスは彼らの信仰を見て,
中風の人に,
『子よ。あなたの罪は赦されました。』
と言われた。」


「その人」の中には,

中風の人の信仰も入っているのでしょうか。

イエスによる病のいやしの多くは,

病人の信仰,罪の赦し,いやしが

セットになっているようです。

イエスが中風の人をいやすことによって,


イエスの福音は.

「赦しといやし」をもたらします。




12人を選ぶ


(マルコ3:14,15)

「そこで
イエスは十二弟子を任命された。
それは,彼らを身近に置き,
また彼らを遣わして福音を宣べさせ,
悪霊を追い出す権威を
持たせるためであった。」


イエスが弟子を選んだ理由は,ご自分の身近に置き,

福音を宣べさせ,悪霊を追い出す権威を持たせるためでした。


(マルコ3:15)

「悪霊を追い出す権威を

持たせるためであった。」


ここでのイエスの教えの中心は,

福音を語り,悪霊を追い出すことでした。


人々が悪霊に取りつかれ,

福音(主を信じることによって救いにあずかること)

が分からなかったからです。


この12人は,後に遣わされ,福音を語り,

悪霊を追い出し,病人をいやします。




突風を静める


(マルコ4:35)

「ところがイエスだけは,
とものほうで,
枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして言った。
『先生。
私たちがおぼれて死にそうでも,
何とも思われないのですか。』」


イエスの弟子には漁師がいました。

「とも」(艫)とは,舟の後方のこと,船尾です。

弟子は慌てふためきました,


(マルコ4:39-41)

「イエスは起き上がって,
風をしかりつけ,
湖に『黙れ,静まれ』と言われた。
すると風はやみ,大なぎになった。
イエスは彼らに言われた。
『どうしてそんなにこわがるのです。
信仰がないのは,どうしたことです。』
彼らは大きな恐怖に包まれて,
互いに言った。
『風や湖までが言うことをきくとは,
いったいこの方は
どういう方なのだろう。』」




イエスの服に触れる女


(マルコ5:34)

「そこで,
イエスは彼女にこう言われた。
『娘よ。
あなたの信仰があなたを直したのです。
安心して帰りなさい。
病気にかからず,
すこやかでいなさい。』」


ここでの「直した」は

「救った」という意味です。




イエス,12人を派遣する。


(マルコ6:8)

「杖一本のほかは,
何も持って行ってはいけません。
パンも,袋も,胴巻きに金も
持って行ってはいけません。」


(マルコ6:12,13)

「こうして十二人が出て行き,
悔い改めを説き広め,
悪霊を多く追い出し,
大ぜいの病人に油を塗っていやした。」


イエスは12人の弟子を派遣するにあたって,

自分の持っているものに頼らないで,

イエスの与える権威のみに頼るように言います。

その結果は,つぎのようでした。


(マルコ6:12,13)

「こうして十二人が出て行き,
悔い改めを説き広め,
悪霊を多く追い出し,
大ぜいの病人に油を塗っていやした。」




5千人にパンを与える


(マルコ6:41,42)

「するとイエスは,
五つのパンと二匹の魚を取り,
天を見上げて祝福を求め,
パンを裂き,
人々に配るように
弟子たちに与えられた。
また,二匹の魚もみなに分けられた。
人々はみな,食べて満腹した。」


パンは,旧約聖書のマナを思い浮かべます。

イエスは,次のように言いました。


(ヨハネ6:35)

「イエスは言われた。
『わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は
決して飢えることがなく,
わたしを信じる者はどんなときにも,
決して渇くことがありません。』」




湖の上を歩く


(マルコ6:48)

「イエスは,弟子たちが,
向かい風のために
漕ぎあぐねているのを
ご覧になり,
夜中の三時ごろ,
湖の上を歩いて,
彼らに近づいて行かれたが,
そのままそばを通り過ぎようとの
おつもりであった。」


イエスは湖の上を歩くことができました。

モーセの紅海の渡航を思い浮かべます。

イエスは,私たちを導く神です。




人から出てくるもの

(マルコ7:20-23)

また言われた。
「人から出るもの,
これが,人を汚すのです。
内側から,すなわち,
人の心から出て来るものは,
悪い考え,不品行,盗み,
殺人,姦淫,貪欲,よこしま,
欺き,好色,ねたみ,そしり,
高ぶり,愚かさであり,
これらの悪はみな,
内側から出て,人を汚すのです。」


イエスは,人の心にあるものが

人をけがすといいました。


わたしたちは,

イエスの十字架の血によって

きよめられます。



(1ヨハネ1:7)

「しかし,
もし神が光の中におられるように,
私たちも光の中を歩んでいるなら,
私たちは互いに交わりを保ち,
御子イエスの血は
すべての罪から私たちをきよめます。」


イエスのささげた命によって,

わたしたちの罪は贖われました。


そして,イエスを信じる者に

聖霊の実が与えられます。


(ガラテヤ5:22,23)

「御霊の実は,愛,喜び,平安,
寛容,親切,善意,
誠実, 柔和,自制です。」




ペテロの信仰告白


(マルコ8:29)

「するとイエスは,
彼らに尋ねられた。
『では,あなたがたは,
わたしをだれだと言いますか。』
ペテロが答えてイエスに言った。
『あなたは,キリストです。』」


イエスは,弟子たちに

「あなたがたは,わたしをだれだと言いますか」と質問します。

ペテロは「あなたは,キリストです」と答えます。

「キリスト」とは,「救い主」という意味です。

正しい答えでした。


しかし,ペテロは,自分達をローマの圧制から救い出してくださる,

民衆のリーダーとしての姿でした。

ですから,イエスは,次のように言いました。


(マルコ8:33)

「人の子は必ず多くの苦しみを受け,
長老,祭司長,律法学者たちに
捨てられ,殺され,
三日の後に
よみがえらなければならないと,
弟子たちに教え始められた。」




自分の十字架を負うて

(マルコ8:34-37)口語訳 

「それから群衆を弟子たちと
一緒に呼び寄せて、
彼らに言われた、
『だれでも
わたしについてきたいと思うなら、
自分を捨て、
自分の十字架を負うて、
わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと
思う者はそれを失い、
わたしのため、
また福音のために、
自分の命を失う者は、
それを救うであろう。
人が全世界をもうけても、
自分の命を損したら、
なんの得になろうか。
また、人はどんな代価を払って、
その命を
買いもどすことができようか。』」




いちばん偉い者


(マルコ9:37)

「だれでも,
このような幼子たちのひとりを,
わたしの名のゆえに受け入れるならば,
わたしを受け入れるのです。
また,
だれでも,
わたしを受け入れるならば,
わたしを受け入れるのではなく,
わたしを遣わされた方を
受け入れるのです。」


天の御国では,

一番偉い方はイエス・キリスト御自身です。


イエスは人々のしんがりとなり,

人々に仕えました。


私たちは,

このイエスを模範として生きるのです。


そして,

力のない子どもを受け入れることが,

イエスを受け入れることであると,




盲人バルテマイをいすや


(マルコ10:47)

「ところが,
ナザレのイエスだと聞くと,
『ダビデの子のイエスさま。
私をあわれんでください。』
と叫び始めた。」



(マルコ10:51,52)

「そこでイエスは,
さらにこう言われた。
『私に何をしてほしいのか。』
すると,
盲人は言った。
『先生。
目が見えるように
なることです。』
するとイエスは,
彼に言われた。
『さあ,行きなさい。
あなたの信仰が
あなたを救ったのです。』
すると,
すぐさま彼は見えるようになり,
イエスの行かれる所に
ついて行った。」


わたし達が自分自身を正直に見つめ,

自分の弱さ,罪深さを知るなら,

プライドを捨てて,この盲人と同じように

「イエスさま。

私をあわれんでください」と叫ぶでしょう。


イエスは,

イエスを叫び求める者を救ってくださいます。


パウロも「主の御名を呼び求める者は,だれでも救われる」

(ローマ10:13)と言います。



(ローマ10:12,13)

「ユダヤ人とギリシヤ人との
区別はありません。
同じ主が,すべての人の主であり,
主を呼び求めるすべての人に対して
恵み深くあられるからです。
『主の御名を呼び求める者は,
だれでも救われる。』のです。」


「主の名を呼ぶ者は救われる」は,

ヨエル2:32を引用しています。


(ヨエル2:32)
「主の名を呼ぶ者はみな救われる。
主が仰せられたように,シオンの山,
エルサレムに,
のがれる者があるからだ。
その生き残った者のうちに,
主が呼ばれる者がいる。」


(詩篇50:15)
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。」




(マルコ10:14,15)口語訳 

それを見てイエスは憤り、
彼らに言われた、
「幼な子らをわたしの所に
来るままにしておきなさい。
止めてはならない。
神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。
だれでも幼な子のように
神の国を受けいれる者でなければ、
そこにはいることは決してできない」。




(マルコ10:45)口語訳 

「人の子がきたのも、
仕えられるためではなく、
仕えるためであり、
また多くの人のあがないとして、
自分の命を与えるためである」。




宮きよめ


(マルコ11:17)

彼らに教えて言われた。
「『わたしの家は,
すべての民の祈りの家と呼ばれる。』
と書いてあるではありませんか。
それなのに,
あなたがたは
それを強盗の巣にしたのです。」


「すべての民の祈りの家」は,

神殿について述べたものですが,

イエスは,商売によって礼拝を妨げている

神殿の指導者たちを見て非難しました。




信じる


(マルコ11:23)

「だれでも,
この山に向かって,
『動いて,海にはいれ。』と言って,
心の中で疑わず,
ただ,
自分の言ったとおりになると
信じるなら,
そのとおりになります。」


イエス・キリストの言葉です。

困難を乗り越えるために,

神の約束を信じたいものです。

信じるとおりになると言います。

そして,信じたことは,

受けたと信じましょう。




大切な命令


(マルコ12:29,30)

イエスは答えられた。
「一番大切なのはこれです。
『イスラエル世。聞け。
われらの神である主は,
唯一の主である。
心を尽くし,思いを尽くし,
知性を尽くし,力を尽くして,
あなたの神である主を愛せよ。』」


すべての命令の中で一番大切なのは,

「神である主を愛せよ」ということです。

そして,神を愛することは,

「あなたの隣人を

あなた自身のように愛せよ」

という命令が続きます。


(マルコ12:31)

「次にはこれです。
『あなたの隣人を
あなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、
ほかにありません。」




(マルコ12:33)口語訳 

「また『心をつくし、
知恵をつくし、
力をつくして神を愛し、
また自分を愛するように
隣り人を愛する』
ということは、
すべての燔祭や犠牲よりも、
はるかに大事なことです」。





終末の前兆


(マルコ13:4)

「お話しください。
いつ,そういうことが
起こるのでしょう。
また,それがみな
実現するようなときには,
どんな前兆があるのでしょう。」


イエスは終末の前兆を

偽キリストの出現,

戦争,地震,飢饉,迫害など

だと言います。




世の終わりの前兆と迫害


(マルコ13:13)

「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」


 聖霊が語らせる福音とは,

イエス・キリストが

神と世を和解させるものです。

聖霊はキリストを明かしします。


 聖霊は私たちが,

イエス・キリストについて語る

能力を与えます。

 



再臨


(マルコ13:24-27)

「だが,その日には,
その苦難に続いて,
太陽は暗くなり,
月は光を放たず,
星は天から落ち,
天の万象は揺り動かされます。
そのとき,人々は,
人の子が偉大な力と栄光を帯びて
雲に乗って来るのを見るのです。
そのとき,
人の子は,御使いたちを送り,
地の果てから天の果てまで,
四方からその選びの民を集めます。」


イエスが十字架にかかる前に,

オリーブ山で弟子たちに終末について語ります。


イエスは,終末において人の子(イエス・キリスト)

の到来(再臨)と神の国の成就を預言します。




「夕べ雲焼くる」 

新聖歌148番(聖歌622)

「夕べ雲焼くる 空を見れば
主の来たり給う 日のしのばる
ああ神の前に われ勤しまん
業終むる時の 間近き今」




主の晩餐


(マルコ14:22-26)

「それから,
みなが食事をしているとき,
イエスはパンを取り,祝福して後,
これを裂き,彼らに与えて言われた。
『取りなさい。
これはわたしのからだです。』
また,杯を取り,感謝をささげて後,
彼らに与えられた。
彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。
『これはわたしの契約の血です。
多くの人のために流されるものです。』
まことに,あなたがたに告げます。
神の国で新しく飲むその日までは,
わたしはもはや,
ぶどうの実で造った物を
飲むことはありません。」


「パン」とは,イエス・キリストの体です。


イエス・キリストは,

「いのちのパン」であると言われました。


イエス・キリストは十字架で,

体が引き裂かれました。


杯のぶどう酒は,

イエス・キリストの血のことです。


(マルコ14:24)

「これはわたしの契約の血です。
多くの人のために流されるものです。」



ここでの契約とは,

イエス・キリストが十字架の血によって,

一方的に罪を赦すというものです。


「主の晩餐」は,

「過ぎ越しの食事」の中でのことであると

記しています。




イエスの十字架


(マルコ15:34)

「そして,
三時に,イエスは大声で,
『エロイ,エロイ,
ラマ,サバクタニ。』
と叫ばれた。
それは訳すと
『わが神,わが神。
どうして
わたしをお見捨てになったのですか。』
という意味である。」


罪のないイエス・キリストが神に見捨てられました。


それは,イエス・キリストは私たちに代わって,

わたしたちの罪をその身に負ってと言う事であり。


そのため,イエス・キリストは

罪の罰とのろいのすべてを受け取って,

神に見捨てられたということです。


イエスが十字架に架けられたのは,

「贖いの代価」となるためでした。




イエスの復活


(マルコ16:6)

「青年は言った。
『驚いてはいけません。
あなたがたは,
十字架につけられた
ナザレ人イエスを
捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。
ここにはおられません。
ご覧なさい。
ここがあの方の
納められた所です。』」


イエスの復活は,

わたしたちが永遠のいのちを

与えられる保証となります。



(ヨハネ11:25,26)

「イエスは言われた。
『わたしは,よみがえりです。
いのちです。
わたしを信じる者は,
死んでも生きるのです。
また,生きていてわたしを信じる者は,
決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。』」



2018.2.14


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