2.幸い (空の鳥,野の花)
マタイ5:1-6(幸い)
「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は,幸いである,
その人たちは慰められる。
柔和な人々は,幸いである,
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は,幸いである,
その人たちは満たされる。」
(マタイ5:3-6)
Ⅰ
(マタイ5:1-6 幸い)
今日の福音書の日課は
4つの祝福を告げています。
「心の貧しい人々」,「悲しむ人々」,
「柔和な人々」,
「義に飢え渇く人々」に対する
4つの祝福が告げられています。
わたしたちにとって,
「柔和な人々」と「義に飢え渇く人々」
に対する祝福は理解できます。
「心の貧しい人々」と「悲しんでいる人々」
が祝福されることについては,
すぐには納得することができません。
「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである」
(マタイ5:3)と,
「悲しんでいる人々は,
幸いである,その人たちは慰められる」
(マタイ5:4)
との意味を調べてみましょう。
○
(心の貧しい人々)
.
「心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。」
(マタイ5:3)
ここで語られている「貧しい人々」とは,
どういう人々のことでしょうか。
新約聖書は,
旧約聖書の言葉に基づいて書かれています。
旧約聖書で「貧しい人々」は
「謙遜である」とか,
「柔和である」とかを示す言葉と
同じである。
民数記には
モーセの人となりが示されています。
そこでは
「モーセという人は
この地上のだれにもまさって謙遜であった」
(民数記12:3)
とあります。
この文章の中の「謙遜」という言葉は,
「貧しい」という意味も,
「柔和」という意味も持った言葉が
使われています。
新共同訳聖書では
「謙遜」となっていますが,
口語訳聖書では
「柔和」となり次のようになっています。
「モーセはその人となり柔和なこと,
地上のすべての人にまさっていた。」
(民数記12:3 口語訳)
イエスさまから直接,
御言葉を聞いているイスラエルの人々は,
「貧しい」という言葉は,
物がなくて貧しいことだけでなく,
謙遜とか柔和を意味する言葉として
受け取っていたことになります。
そのように受け取るため,
「貧しい」という言葉の前に
「心の」という言葉が
付け加えられています。
この「心の」(プニューマティ)
という言葉は,
「風において」とか「息吹において」とか
「霊において」という
意味の言葉が使われています。
ですから,
イエスさまからこの祝福の言葉を
聞いた人々は,
素直に次のように
受け入れたと思います。
「霊において柔和な人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである。」
(マタイ5:3)
○
(マタイ5:4 悲しむ人々)
「悲しむ人々は,幸いである,
その人たちは慰められる。」
(マタイ5:4)
次に「悲しむ人々」のことです。
すでに「心の貧しい人々」の祝福が
「霊において」貧しい謙遜な人々として
受け取りました。
同じように,
ここでの「悲しむ人々」というのは,
「霊において」悲しむ人々として
受け取ることができます。
霊において悲しむとは,
「信仰において」悲しむことです。
神様の御心が現れないでいることを
悲しむことです。
悲しむ人々とは,
神様の御心が現れるのを待つ人々です。
○
(ルカ2:22-38 シメオン)
「悲しむ人々」,すなわち
「神様の御心が現れるのを待つ人たち」
の一人として,
シメオンを上げることができます。
ルカによる福音書では,
このシメオンを次のように記しています。
「エルサレムにシメオンという人がいた。
この人は正しい人で信仰があつく,
イスラエルの慰められるのを待ち望み,
聖霊が彼にとどまっていた。」
(ルカ2:25)
このシメオンこそ,
イエスさまが
「悲しむ人々は,幸いである,
その人たちは慰められる」
(マタイ5:4)
という祝福の言葉を
受け取った人であります。
シメオンは神殿に両親と共にやってきた
幼子イエスさまを腕に抱き,
神様をたたえて,
次のように言っています。
「主よ,今こそあなたは,お言葉どおり,
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目で
あなたの救いを見たからです。」
(ルカ2:29,30)
わたしたちも今日,
「心の貧しい者」,「悲しむ者」,
「柔和な者」,「義に飢え渇く者」として,
神様の祝福を十分に受け,
「恵みのみ,信仰のみ,聖書のみ」
の力強い信仰生活を
続けていきたいと思います。
(松隈貞雄牧師)
(2007年10月28日)
(宗教改革主日)