☆『黒元帥の略奪愛~女王は恋獄に囚われる~』番外編☆
夜風に乗って浮かれた喧騒が聞こえてくる。回廊の端に立ち、ヴラドは軍装の襟元を緩めてホッと息をついた。女王の戴冠を祝う宴は本人が退席すると無礼講となり、ますます盛り上がっている。この騒ぎが安眠の妨げにならなければよいのだが……。
(それにしてもディアドラ様はお美しかったな……)
ヴラドは戴冠式の様子を脳裏に思い浮かべ、しみじみと感慨に耽った。父王の八つ当たりから身を守るため、ディアドラはここ数年ずっと男装していた。あのようなきらびやかなドレスに身を包んだ姿を見るのは実に久しぶりだ。
喪に服している間にディアドラは十七歳になっていた。若く美しい女王は、気さくで飾らない人柄も相まって兵士たちに絶大な人気がある。彼らは正式に戴冠したディアドラの神々しいまでの晴れ姿を見て、ますます忠勤の思いを熱くしたようだった。
これを機に男装などやめてくれればいいのだが、それとなく窺ってみたところ女王にその気はないようだった。戴冠式用の豪奢なドレスが窮屈で仕方がないと、愛らしい薔薇色の唇を尖らせて文句を言っていたくらいだ。
その様もまた非常に可愛くてたまらなかったが、ディアドラは自分がどれほど容姿に恵まれているかさっぱりわかっていないのがどうにももどかしい。凛とした美貌のディアドラは確かに男装も似合う。だが、できればそういう危うげな魅力を無防備に振りまかないでほしいものだ。
「――ここにいたのか。捜したぞ」
聞き慣れた声に振り向くと、ラドゥがご機嫌な様子で近づいてきた。ひとつ年上の彼は将軍である父の副官を務めている。元帥のヴラドに対し公式な場では敬語で接するが、私的な会話は幼なじみゆえくだけたものだ。相当飲んでいるはずなのに、足取りにまったく乱れはなかった。
「何かあったのか?」
即座に気を引き締めて尋ねる。ラドゥはほろ酔いかげんのゆるんだ表情のままかぶりを振った。
「んにゃ。陛下が、ちょっと来てくれってさ。ミハイが呼びにきたんだが姿が見えないんで捜してた」
「そうか。ではすぐに伺おう」
ヴラドは襟を直すとミハイに一声かけ、足早にディアドラの居室へ向かった。
応対した侍女はヴラドを通すと即座に引き下がった。広々とした居間にはディアドラとヴラドだけが残された。人払いするほど重要な話があるのだろうかとヴラドはにわかに緊張した。
ディアドラは白い夜着の上に刺繍の施された薄手のガウンをまとい、長椅子にゆったりと座っていた。美しいプラチナブロンドの髪が背中をうねうねとなだれ落ちている。
一見して湯上がりとわかるしどけない姿にヴラドはドキッとした。こんなくつろいだ恰好を見せつけて平然としているのは、とことん自分を信用しきっているのか、それとも家具調度品か犬猫程度にしか見ていないのか、どちらだろう? おそらく前者ではあろうが、それはそれで若干の物哀しさを覚えなくもなかった。
もちろんそんな内心の葛藤などおくびにも出さず、ヴラドは鉄壁の無表情を装った。幼い頃から妙に表情に乏しい子だと母親に心配されていたが、ディアドラはそんな波立ちにくいヴラドの感情をいともたやすく揺さぶることのできる唯一の人物だ。それなのに己の美貌同様まるで無自覚だから困ってしまう。
「――何かご用でしょうか、陛下」
かなり努力して普段どおりの平淡な声で尋ねると、ディアドラは何故かかすかに頬を染めた。
「うん……」
曖昧に呟き、うつむいて迷うようにガウンのリボンを弄っている。肩が下がっているせいか、いつになく悄然として頼りなく見えた。幼い時分のようにぎゅうと抱きしめてあげたくなったが、さすがにそのような気の置けないスキンシップはディアドラが十歳を越えた頃からできなくなった。
「あの……。これからも……よろしくな……」
恥ずかしそうにディアドラが呟くのを聞いて、ヴラドはぽかんとした。それをどう取ったのか、ディアドラはますます赤くなって申し訳なさそうに眉を垂れた。
「あ、いや、一度きちんと言っておきたくて……。す、すまん。わざわざ呼び出して言うほどのことでもなかったな」
ヴラドは大股に歩み寄り、さっと跪いた。目を瞠るディアドラの手を恭しく取り、そっとくちづける。ディアドラの頬に綺麗な朱が散った。
「……もちろんです、陛下。私は生涯ディアドラ様のお側でお守りいたします」
息をのんでいたディアドラが、かすかに目を潤ませて微笑んだ。
「ありがとう……」
それはまるで夜露に濡れた薔薇が曙光に浮かび上がるようで……。いつまでも賛美していたい気持ちと、摘み取って唇を押し当てたい気持ちがせめぎ合う。ヴラドは己の気持ちを振り切るように立ち上がり、深々と礼を取った。
「――では、失礼いたします」
あえてディアドラの顔は見ずに踵を返す。だが、扉に行き着く前に、軽い足音が聞こえ、ほとんど同時に背中にやわらかな感触が押しつけられた。
「……ッ! 陛下……!?」
「おかしくなかった?」
「……何がです……!?」
硬直したまま訊き返すと、ディアドラはヴラドの背に無自覚に胸を押しつけたまま恥ずかしそうに呟いた。
「戴冠式でのわたしの恰好……。ドレスなんて着たの久しぶりで……」
「お、おかしいわけないでしょう! よくお似合いでした! 物凄く!」
「本当?」
「もちろん本当です!」
背中に押しつけられるふよふよした絶妙のふくらみに気を取られるあまり、不本意にも怒ったような声音になってしまう。
「……そう」
寂しそうなディアドラの声に歯噛みしそうになる。絶対誤解された。だが、それを力説する前に、ディアドラはスッと身体を離してしまった。
「くだらぬことを訊いてすまなかった。おやすみ、ヴラド。また明日」
「……おやすみなさいませ」
低声で呟き、ヴラドは茫然としたまま部屋を出た。翌日、これまで以上にそっけない男装姿のディアドラを見て、ヴラドは昨夜の失言(?)を死ぬほど後悔した。そして密かに決意したのだった。
ドレスを贈ろう! ディアドラ様に似合いそうな華麗な衣装を!!
こうしてディアドラの衣装箪笥には、様々なデザインの美しいドレスが当人のあずかり知らぬうちに増え始めたのだった。
夜風に乗って浮かれた喧騒が聞こえてくる。回廊の端に立ち、ヴラドは軍装の襟元を緩めてホッと息をついた。女王の戴冠を祝う宴は本人が退席すると無礼講となり、ますます盛り上がっている。この騒ぎが安眠の妨げにならなければよいのだが……。
(それにしてもディアドラ様はお美しかったな……)
ヴラドは戴冠式の様子を脳裏に思い浮かべ、しみじみと感慨に耽った。父王の八つ当たりから身を守るため、ディアドラはここ数年ずっと男装していた。あのようなきらびやかなドレスに身を包んだ姿を見るのは実に久しぶりだ。
喪に服している間にディアドラは十七歳になっていた。若く美しい女王は、気さくで飾らない人柄も相まって兵士たちに絶大な人気がある。彼らは正式に戴冠したディアドラの神々しいまでの晴れ姿を見て、ますます忠勤の思いを熱くしたようだった。
これを機に男装などやめてくれればいいのだが、それとなく窺ってみたところ女王にその気はないようだった。戴冠式用の豪奢なドレスが窮屈で仕方がないと、愛らしい薔薇色の唇を尖らせて文句を言っていたくらいだ。
その様もまた非常に可愛くてたまらなかったが、ディアドラは自分がどれほど容姿に恵まれているかさっぱりわかっていないのがどうにももどかしい。凛とした美貌のディアドラは確かに男装も似合う。だが、できればそういう危うげな魅力を無防備に振りまかないでほしいものだ。
「――ここにいたのか。捜したぞ」
聞き慣れた声に振り向くと、ラドゥがご機嫌な様子で近づいてきた。ひとつ年上の彼は将軍である父の副官を務めている。元帥のヴラドに対し公式な場では敬語で接するが、私的な会話は幼なじみゆえくだけたものだ。相当飲んでいるはずなのに、足取りにまったく乱れはなかった。
「何かあったのか?」
即座に気を引き締めて尋ねる。ラドゥはほろ酔いかげんのゆるんだ表情のままかぶりを振った。
「んにゃ。陛下が、ちょっと来てくれってさ。ミハイが呼びにきたんだが姿が見えないんで捜してた」
「そうか。ではすぐに伺おう」
ヴラドは襟を直すとミハイに一声かけ、足早にディアドラの居室へ向かった。
応対した侍女はヴラドを通すと即座に引き下がった。広々とした居間にはディアドラとヴラドだけが残された。人払いするほど重要な話があるのだろうかとヴラドはにわかに緊張した。
ディアドラは白い夜着の上に刺繍の施された薄手のガウンをまとい、長椅子にゆったりと座っていた。美しいプラチナブロンドの髪が背中をうねうねとなだれ落ちている。
一見して湯上がりとわかるしどけない姿にヴラドはドキッとした。こんなくつろいだ恰好を見せつけて平然としているのは、とことん自分を信用しきっているのか、それとも家具調度品か犬猫程度にしか見ていないのか、どちらだろう? おそらく前者ではあろうが、それはそれで若干の物哀しさを覚えなくもなかった。
もちろんそんな内心の葛藤などおくびにも出さず、ヴラドは鉄壁の無表情を装った。幼い頃から妙に表情に乏しい子だと母親に心配されていたが、ディアドラはそんな波立ちにくいヴラドの感情をいともたやすく揺さぶることのできる唯一の人物だ。それなのに己の美貌同様まるで無自覚だから困ってしまう。
「――何かご用でしょうか、陛下」
かなり努力して普段どおりの平淡な声で尋ねると、ディアドラは何故かかすかに頬を染めた。
「うん……」
曖昧に呟き、うつむいて迷うようにガウンのリボンを弄っている。肩が下がっているせいか、いつになく悄然として頼りなく見えた。幼い時分のようにぎゅうと抱きしめてあげたくなったが、さすがにそのような気の置けないスキンシップはディアドラが十歳を越えた頃からできなくなった。
「あの……。これからも……よろしくな……」
恥ずかしそうにディアドラが呟くのを聞いて、ヴラドはぽかんとした。それをどう取ったのか、ディアドラはますます赤くなって申し訳なさそうに眉を垂れた。
「あ、いや、一度きちんと言っておきたくて……。す、すまん。わざわざ呼び出して言うほどのことでもなかったな」
ヴラドは大股に歩み寄り、さっと跪いた。目を瞠るディアドラの手を恭しく取り、そっとくちづける。ディアドラの頬に綺麗な朱が散った。
「……もちろんです、陛下。私は生涯ディアドラ様のお側でお守りいたします」
息をのんでいたディアドラが、かすかに目を潤ませて微笑んだ。
「ありがとう……」
それはまるで夜露に濡れた薔薇が曙光に浮かび上がるようで……。いつまでも賛美していたい気持ちと、摘み取って唇を押し当てたい気持ちがせめぎ合う。ヴラドは己の気持ちを振り切るように立ち上がり、深々と礼を取った。
「――では、失礼いたします」
あえてディアドラの顔は見ずに踵を返す。だが、扉に行き着く前に、軽い足音が聞こえ、ほとんど同時に背中にやわらかな感触が押しつけられた。
「……ッ! 陛下……!?」
「おかしくなかった?」
「……何がです……!?」
硬直したまま訊き返すと、ディアドラはヴラドの背に無自覚に胸を押しつけたまま恥ずかしそうに呟いた。
「戴冠式でのわたしの恰好……。ドレスなんて着たの久しぶりで……」
「お、おかしいわけないでしょう! よくお似合いでした! 物凄く!」
「本当?」
「もちろん本当です!」
背中に押しつけられるふよふよした絶妙のふくらみに気を取られるあまり、不本意にも怒ったような声音になってしまう。
「……そう」
寂しそうなディアドラの声に歯噛みしそうになる。絶対誤解された。だが、それを力説する前に、ディアドラはスッと身体を離してしまった。
「くだらぬことを訊いてすまなかった。おやすみ、ヴラド。また明日」
「……おやすみなさいませ」
低声で呟き、ヴラドは茫然としたまま部屋を出た。翌日、これまで以上にそっけない男装姿のディアドラを見て、ヴラドは昨夜の失言(?)を死ぬほど後悔した。そして密かに決意したのだった。
ドレスを贈ろう! ディアドラ様に似合いそうな華麗な衣装を!!
こうしてディアドラの衣装箪笥には、様々なデザインの美しいドレスが当人のあずかり知らぬうちに増え始めたのだった。
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