憲法改正反対!国際法違反の現行憲法凍結!大日本帝国憲法再生!

いろいろなブログを貼っていくつもりです。
いわゆる、「他人のふんどしで相撲を取る」他力本願寺ですね。アニメ、特撮

関東大震災記念碑

2017-01-11 14:03:38 | 歴史
そよ風さんのブログです



http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51878852.html


引用



遂に入手、幻の重要書類 その1

このブログをお読み下さっている皆様、私達は、昨日、漸く、
関東大震災朝鮮人碑に関する重要な書類を入手する事が
出来ました。
私達は、今まで、この碑が都立公園に建つに至った経緯が分かる
都庁の文書を入手しようとあらゆる努力をしてきました。しかし、
「そういう書類は存在しない」「古い書類は既に破棄されている」と
の回答ばかりが虚しく返って来ました。それでも、めげずに何度も
足を運んできました。すると、まるで時が満ちたかのように、昨日、
突如として、28枚もの建設にかかわる重要書類が目の前に
現れたのです。
詳しくは明かせない経緯もありますが、それは目に見えない力が
私達を押してくれていると、感じた瞬間でした。
これで、漸く、雲を掴むようだった相手の姿が具体的になりました。
これからしっかり、書類を精査したうえでこのブログでご紹介して
行きたいと思っています。とりあえず、表紙と、碑の建設資金協力の
呼び掛け文をご紹介します。
呼び掛け文には、(関東大震災朝鮮人碑が)千葉、埼玉、群馬、
神奈川には既に建設されているのに、東京はまだないので、
ぜひ東京にも立てよう!と書かれています。
改めて、彼等の、朝鮮人碑に対する運動への意気ごみと、
ただならぬ規模の大きさを思い知ります。
今まで、大半の日本人が朝鮮人を6000人も虐殺をしてしまったと
信じ込んでしまったのには、こういった彼等の、必死の運動が
あったからに他ならないと思えてなりません。

昭和48年9月20日



(上枠の表示(V)で拡大すれば詳しく読めます。)





引用以上



拡散希望します。

ロシアの子供達を救った日本人

2017-01-11 13:31:20 | 歴史
みずきの女子知韓宣言さんのブログです


http://oboega-01.blog.jp/archives/1063394321.html



引用




ロシアの子供800人を救出した日本人

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから井戸の外のバンダービルドさん。

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ロシアの子供800人を救出した日本人

バンダービルド


2011年、ロシア人女性の一人が、ある日本人墓地に献花するために、日本を訪問した。
その女性の名前は「オルガ・モルキナ」で、彼女はこう言った。

「私がこうして生きていることができるのは、おじいさんやおばあさんを救出してくれたある日本人のおかげです。その日本人は、多くのロシア人の命を救ってくれた恩人です。」

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オルガ・モルキナ


過去90年間、これに関連する話は、世の中に知られていなかった。
1873年、愛媛県松山市で生まれた「勝田銀次郎(1873~1952)氏は、18歳の時、今日の青山学園にあたる東京英和学校に入学した。
卒業後は海運業界に飛び込んで仕事を学び、27歳で独立し、「勝田商会」という貿易会社を設立した。
それからしばらくして、ロシアでは革命が勃発する。
そして、北欧バルト海沿岸に位置するロシア第2の都市サンクトペテルブルク(過去名レニングラード)が、革命の渦のため治安が極度に悪化して、食糧不足の事態に直面することになる。
これにより、当時サンクトペテルブルクの多くの親が、子供の安全を心配し、遠く離れた田舎の地方(ウラル地域)へ子供たちを疏開させた。
しかし子どもたちが避難した農村地域にも革命の戦火が押し寄せて、サンクトペテルブルクから避難してきた子どもたちは、事実上、難民と変わらない状態に転落してしまった。
このように困難な立場に陥ったロシアの子供は、約800人だった。

それで米国赤十字社が、800人のかれら児童を戦火から保護するため、児童を一時的にウラジオストクの施設に移動させた。
当時の緊急対策は、ひとまず800人の子供たちを、革命の渦が続く不安なロシアの地から離すことだった。
そして故郷のサンクトペテルブルクに近い安全な国に留まらせた後、ロシアが革命による混乱が完全に鎮静して安定したら、子供たちを親の懐に戻すという計画を、米国赤十字社が策定した。
米国赤十字社は、世界各国の船舶(運送)会社に依頼して、ウラジオストクの一時施設に収容されているロシアの子供800人をヨーロッパに運んでほしいとお願いした。
ところが、世界各国の企業から帰ってきた返事は一様だった。
答えはすべてが「難しい(「NO」)」だった。
米国赤十字社は、最後の希望だと思って、日本の会社にも依頼することにした。
そして、この時に依頼を受けた会社の一つがまさに「勝田商会」だった。

いつも他人を助けることに積極的だった「勝田」だったが、悩まないわけにいかなかった。
当時は日露戦争が終了てわずか十数年しか経過していない時点で、資本主義の旗を掲げていた日本と、今まさに革命的社会主義が確立されたロシアは、互いに敵対関係になるしかない状況だったからだ。
困難な状況に陥ったロシアの子供たちを救ってあげたかったが、もしこのような事実が日本に知られたら、敵対関係にあるロシアを助けたという理由で非難を浴びて、会社が倒産するかもしれなかった。
「勝田」の悩みは深くなっていった。
さらに、「勝田商会」は、貨物を運搬する海運専門会社だったため、貨物ではなくて、子供たち800人を宿泊させて長期航海するほどの旅行船舶も保有していなかった。
悩んだ末に、「勝田」は結論を下した。

「ロシアの子供800人を助けよう!」

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勝田銀次郎


そしてすぐに会社が保有している最新の貨物船「陽明丸」号を旅行客船に改造する作業に着手した。
長期間の航海中で800人の子供が不快感なく生活できるよう、寝室、洗面設備、トイレなどの生活施設を整えた。
こういった船舶の改造作業に投入された費用は、「勝田」の私財でカバーした。
当時、船の改造費用は、今の貨幣価値で計算すれば数千万円に達した。
船舶の全面改造作業には通常は1年かかるが、急いで1ヶ月で完了させた。
1920年7月、「陽明丸」号は神戸港を離れてウラジオストクに到着し、ロシアの子供800人を乗せて出発した。
子どもたちの故郷のサンクトペテルブルクに近いヨーロッパのフィンランドが目的地だった。
航路は太平洋を東進し、パナマ運河を通過するルートだった。

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陽明丸


「陽明丸」号は途中、北海道の室蘭に寄港した。
そして、「陽明丸」号の船長の「茅原基治」氏は、すぐに室蘭の官庁を訪れて、すべての責任を自分が負うという条件で、ロシアの子供たちの日本上陸の許可を受けた。
そしてロシアの子供たちと一緒に訪れたのは、北海道室蘭小学校だった。
「茅原」氏が官庁にお願いして、ロシアの子供たちと日本の子供たちの交流の機会を設けたのである。
小学校の日本の子供たちは、ロシアの子供たちを温かく迎えた。
お互いに言葉は通じなかったが、両方の子どもたちがお互いに親しくなるのに多くの時間はかからなかった。
以後「陽明丸」号はフィンランドに向けて本格的に運行を開始し、3ヶ月後に目的地のフィンランドに到着した。
子供たちはフィンランドにしばらくとどまった後、最終的にサンクトペテルブルクの親たちの胸に無事に抱かれた。

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茅原基治船長

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この物語は、過去90年間知られていなかった。
しかし、おじいさんとおばあさんからこの話を聞いたロシアの女性「オルガ・モルキナ」氏が2009年にロシアで出会った日本人(「北室南苑」)に、こういった事情を話すようになった。
そして、初めてこの物語が日本に知られるようになった。
帰国した日本人の「北室南苑」氏が、ロシアの女性「オルガ・モルキナ」氏のために、「勝田銀次郞」氏と、船長の「茅原基治」氏の軌跡をうわさをたよりに尽力を尽くして探し、最終的に二人が眠っている墓地を見つけることができた。
そして2011年、「オルガ・モルキナ」氏は日本を訪問し、おじいさんとおばあさんの生前の意思を継いで、恩人だった二人の日本人墓地に感謝の気持ちで献花した。




引用以上



拡散希望します。

日本のシンドラー樋口季一郎

2017-01-11 13:03:24 | 歴史
みずきの女子知韓宣言さんのブログです



http://oboega-01.blog.jp/archives/1063396860.html?p=1



引用



ソ連がマッカーサーに身柄の引渡しを要求した「樋口季一郞」

バンダービルド

1938年3月8日、満州国特務機関長「樋口季一郎」中将にニュースが一つ飛びこんだ。
ナチスドイツの迫害を避け、畜舎のような劣悪な状態の列車にぎっしりと身を寄せた状態で、命をかけてようやく極東地方に避難したユダヤ人が、満州国から入国拒否を受け手、もう身動きができない境遇に陥ったというニュースだった。
気温が氷点下30度まで下がった極限のオトポール駅(ソ連と満州国との間の駅)で足止めされ、ユダヤ人たちは劣悪な環境に放置されてしまった。
これが「オトポール事件」である。
満州国外交部の入国拒否措置について、極東地域のユダヤ人協会会長だった「カウフマン」氏は、日本関東軍諜報機関の首長の特務機関長「樋口季一郞」中将に面会を要請した。
事実上日本の支配下にある満州国で、強大な権限を持つ日本関東軍の核心要職の「樋口季一郞」中将に、入国ビザを発給するよう満州国に命令してほしいと懇願するためだった。

「カウフマン」氏の懇願に接した「樋口」中将は、すぐには返事をしなかった。
当時、日本はドイツと同盟関係だったので、ドイツから逃れてきたユダヤ人たちを救済すると、ドイツから激しい抗議を受けるなど外交問題に飛び火する可能性があった。
併せて、満州国に対し、ユダヤ人に入国ビザを発給するよう「樋口」中将が命令するのは、明らか行き過ぎに該当する。
「樋口」中将が悩んだもう一つの理由は、過去「樋口」がロシアに赴任したとき、周囲の人々のほとんどが有色人種だという理由で差別してきたとき、ユダヤ人だけは「樋口」を差別しないで接してくれたという点を忘れることができなかったからである。
「樋口」中将はしばらく悩んでから「カウフマン」氏に対して言った。

<カウフマン博士、ユダヤ人難民を要求されたとおりに受け入れましょう。これによるすべての責任は私が負います。>

「カウフマン」博士は、その時、その場で泣いてしまった。
「樋口」中将は、その後一気に必要な措置を取った。
彼は満州国外交部に指示を出して、ユダヤ人難民に入国ビザを発行するよう措置した。
そして満州鉄道社本社の「松岡」総裁に電話をかけて、ユダヤ人を追加輸送するための列車を緊急に手配するよう要請した。
またユダヤ人に衣類や食品を提供し、患者には治療措置をしてあげた。
当時、この「樋口」中将のビザ発給措置で命を救われたユダヤ人は数千人に達するといわれている。
「樋口」中将の措置を知ったドイツ当局は激怒した。
日本政府に向かって激しく抗議して、「樋口」中将の即時処罰措置を要求した。
これについて「樋口」中将は関東軍本部から出頭命令まで受けた。
しかし関東軍の司令部は、人道的措置によるものだということを勘案して、特別な責任を問わなかった。

以来、本土に人事発令を受けた「樋口」は、北海道札幌に本部を置く北部地域の防衛司令官として赴任した。
そして、その状態で終戦を迎えることになる。
ところが、終戦直後にソ連軍が北方領土を侵略してきた。
ソ連軍は両国間の中立協定を一方的に破棄し、当時日本の領土だった南サハリンと北方の島々を侵略して占領していった。
ソ連の意図は、すみやかに日本本土(北海道)に侵入するというものであった。
終戦後、日本政府の機能が麻痺した状態で、「樋口」司令官は独自の判断で、一戦不辞の覚悟で戦いに出る決断を下す。
そして北方地域に散らばった日本軍を急いで再整備し、ソ連軍の大々的な攻勢に対抗して戦った。
そして、最終的にソ連軍の侵攻部隊を壊滅させることになる。
これにより、ソ連軍の日本本土上陸の願いは失敗に終わる。
激怒したソ連は、「樋口」司令官を戦犯と規定して、日本を軍政統治していた米国に対して、「樋口」司令官の身柄を引き渡すよう要求した。
マッカーサーはソ連のこの要求を断固として拒否した。

以後開かれた東京裁判では、日本軍の核心要職にあった主要指揮官であったにもかかわらず、「樋口」は裁判にかけられなかった。
「樋口」自身が裁判にかけられなかった具体的な理由を知ったのは、1950年に日本を訪問したアインシュタイン博士を介してだった。
当時、来賓としてユダヤ人のパーティーに招待された「樋口」は、パーティーの幹事の役割を引き受けた「ミハエル・コーガン」というユダヤ人から、今まで自身をめぐって行われた出来事を初めて知ることになる。
ソ連が「樋口」の身柄引渡しを強く要求したとき、きっぱりと拒絶した連合軍総司令部(マッカーサー)の背後には、米国国防総省があった。
そして、このような米国の国防総省の後ろで影響力を行使していたのは、ニューヨークに本部を置いている世界ユダヤ人協会だった。

「樋口季一郎」が満州国の国境オトポールで身動きできなかったユダヤ人たちを救済してくれたおかげで、この時命を救われたユダヤ人のうち何人かが、ニューヨークの世界ユダヤ人協会で働くようになっており、後にユダヤ人協会は、「今こそオトポールで受けた恩を返す時だ!」という内容で、世界各地に散らばっているユダヤ人たちを対象にして、「樋口救命運動」を繰り広げたのだ。
そして、このようなユダヤ系の努力が、最終的に米国国防総省を動かし、国防総省が連合軍総司令部(マッカーサー)を動かしたものである。
「樋口」がソ連に身柄が引き渡されなかったこと、東京裁判にかけられなかったこと、すべてが凍土の地オトポールで「樋口」から恩恵を受けたことを決して忘れなかったユダヤ人たちが見せてくれた報恩だった。
以後「樋口季一郎」(1888~1970年)は、複数の機関と企業から顧問就任などの要請を受けたが、すべてを断って隠居して、82歳で生を終えた。

バンダービルド

引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=139627&table=TNTRCGJ&sub_table=TNTR01CGJ&cPage=1


*どこかモヤモヤした気持ちになるお話です。
もちろん樋口季一郎氏に対してじゃないです。
彼が助かったのは「たまたま」ですよね。
東京裁判と、その裁判で殺された多くの「戦犯」と呼ばれる人は、その「たまたま」の恩恵を受けなかった人ですが、その中にきっと樋口季一郎氏と同じようなまっすぐな人もたくさんいたんだろうなと考えると、本当に胸が痛みます。そういう意味でのモヤモヤです。

杉原千畝氏ほど知られていない、語られないのは何故でしょうね。
こっちの話は関東軍を美化してしまいかねないから語りたくないのでしょうか。
樋口季一郎氏は「軍人」としてがっつり戦ったからでしょうか。
あるいは東京裁判でのエピソードなど、後日談も語りにくさがあるからでしょうか。

ちなみに私は杉原千畝氏の「美談」については、ちょっとしたモヤモヤがあります。
ステキな人道主義者だという思いは変わらないんですが、そのときに大日本帝国政府を単純な「悪役」に設定して善悪二元論的に語る話が多いことに違和感を感じるんです。

違和感を説明するために、たとえ話をしますね。
今、私たち日本国民の多くが、中東の難民の受け入れを拒否してますよね?
仮にもし今、中東の難民を、派遣された一外交官が、「命のビザ」を書きつつじゃんじゃん日本にフリーダムに送りつけてきたらどう思いますか?
もちろん中央政府の政策をあえて無視した一外交官の独断です。
日本政府側は独断でそういうことをしたその外交官を厳重注意しつつも、送られてやってきた中東の難民のことは、想定外といえど、受け入れて国費で衣食住の面倒を見ることにしました。
仮定の話ですが、仮に今こういうことがあった場合、日本政府は「悪」でしょうか?私たち国民はどう思うでしょうか?

もちろん当時のユダヤ人と今の中東の難民では、置かれてる状況も経緯もまったく違うわけだから、一律に語るべきじゃないというのは分かってます。
分かっててあえて言いたい。
私は杉原千畝氏の「美談」については、ちょっとしたモヤモヤがあります。
ステキな人道主義者だという思いは変わらないんですが、そのときに大日本帝国政府を「悪役」に設定して善悪二元論的に語ることに違和感を感じるんです。
善悪二元論で対立軸を作って語るのは楽チンだけど、そんな単純な話にしてはいけないと思います。



引用以上



拡散希望します。


余命2017/01/11アラカルト②

2017-01-11 10:20:34 | 拡散希望
余命三年時事日記さんのブログです



http://yh649490005.xsrv.jp/public_html/2017/01/11/1468-20170111%e3%82%a2%e3%83%a9%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88%e2%91%a1/



引用



.....内部情報で公開できないものが提供されている。今回の返戻書面画像公開でも、細かな注意点の指示があった。いずれどこかで公開されることになるだろう。




引用以上


過去の外患罪について余命氏のコメントですね。いずれどこかで公開される事を期待します。

余命2017/01/11アラカルト

2017-01-11 09:48:11 | 拡散希望
余命三年時事日記さんのブログです



http://yh649490005.xsrv.jp/public_html/2017/01/11/1467-20170111%e3%82%a2%e3%83%a9%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88/




引用




.....戻り始めた振り子は中央では止まらない。大きく反対側に触れる。どこまで触れるかわからない。しかし、途中で止まることはない。
 女性軍団の蓮舫刑事告発とは花時計のことだと思うが、世の中の半分以上は女性である。
馬鹿にすると女性パワーは恐ろしいぞ(笑い)
 感じとしては検察審査会までは行きそうだね。不起訴不当。再捜査と来て、起訴猶予というシナリオだろうが、うまくいくかなあ。潮目が変わっているからな。








.....発送は25日すぎになる予定なので、それをめどにしていただきたい。こちらから送付後、返送していただいて告発するには最低10日以上はかかるだろう。予定は2月10日である。


引用以上



蓮舫氏への告発は今の所不発に終わってしまいました。しかし、余命氏が言うように検察審査会からの不起訴不当はあり得ます。それから起訴→有罪も可能性があります。