『歎異抄』朗読 現代語訳と原文(第1章~第10章) - YouTube
(第四条より)
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
ここで親鸞聖人は、浄土教特有の表現ながら、自分が溺れている身で人を助けることはできないというブッダの本来の正しい教えに見事に回帰してるとおもう。
(第五条より)
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々
「まず有縁を度すべきなり」の解釈について。
これは「父母を真っ先に救う」という意味だと思っていたが、すこし違うようだ。
次のような話を以前読んだことがある。
複数の人が溺れている場に遭遇したら、誰から先に助けるべきか。
(答)自分の近くで溺れている人から助けるべきである。
「まず有縁を」も同じで、自分の近くで迷い苦しんでいるものから、という意味になる。
もし父母が自分の一番近くにいれば、父母から救うだろう、くらいの意味になる。
(第九条より)
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべき ことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審あ りつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、 いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをお さへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろ しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。
信心安心が定まらないと悩む弟子 唯円房の問に、正解を自らの存在で示現する親鸞(しかも懇切丁寧な説明付き)
(90分)『歎異抄を味わう』現代語訳 全編 桜嵐坊 - YouTube
(後序より)
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり
親鸞は、阿弥陀仏の存在と本願は、親鸞一人のためだったと知る。
多くの日本人の深層心に、比較的親しい消息だとおもう。
日本人の多くは、親鸞聖人の教化を陰に陽に受けてきた。その余薫は、幼稚化した現代人のメンタルにも、いまだ強く残ってる。そのせいで、悪人正機的消息に対する日本人の受容力は、世界的にみて相当高いとおもう。