佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その25」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ) - YouTube
〔感想〕
聞法学習による慧解脱だけでは危ない。
あと一歩、されど一歩。
瞑想修行による心解脱だけでも危ない。
あと一歩、されど一歩。
慧解脱なしに心解脱は完成できず、
心解脱なしに慧解脱は完成できない。
学習だけ、修行だけ、は両方ともアウト。
それさえわからん者はセンスなさすぎ。
まず見こみないとおもう。
学何パー、行何パーが正解です
なんて話もありえない。
根底に信がなければ行学もないが、
行学なしの信だけではおぼつかない。
行も学も、
自分が納得いくまで力の限りやる。
これしかないとおもう。
(ブッダのことば スッタニパータ724~727 中村元訳)
より引用させていただきます。
苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの止滅に達するかの道をも知らない人々、──
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅せしめることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起を知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの止滅に達するかの道を知った人々、──
かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅せしめることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
(引用終。強調は私です)
後世、「四つの尊い(聖なる)真理」〔四聖諦〕
として定型化されたブッダの説法です。
十二支縁起は集諦滅諦に含まれます。
ブッダは一生かけて
四聖諦だけ
を説き続けた。手を替え品を替え、ありとあらゆる工夫で《対機説法》
ブッダは弟子達に
四聖諦だけが役に立つ。四聖諦以外のことはなにも考えるな。話すな。
と何度も言っている。
ブッダその人によって四聖諦の教えこそ全分の一切であると、これほどはっきりと(くり返し)説かれているのに、ブッダ入滅後100年頃から信者達はブッダに仮託して作った枝葉末節のうすぼんやりした大量の教えをその上に次から次へと覆い被せて宝を隠してしまった。
それで焦点のズレた決め手にならない修行やあいまいな信仰が次々流行り廃れたあげく、仏法は衰退した。なんのためにそんな愚行がなされたか。
四聖諦
苦の原因(集諦)によって苦は生じている(苦諦)。
苦を滅する原因(道諦=八正道)によって苦は滅することができる(滅諦)。
この世界は、古今東西隅々まで嘘とデタラメで満ち満ちている。
唯ひとつ、四聖諦だけが真実だ。
ブッダはこの世で比べるもののない四聖諦の価値を例えて、
百歳まで寿命がある人に百歳まで寿命がある人が、「あなたが百歳になるまで、毎日三百の槍で刺された後でなら四聖諦を教えよう」と言われたら、当然受け入れるべきだ
と説いている。(相応部マハーヴァーラヴァッガ)
ブッダに過言はない。ブッダの発言は常に精妙無比だ。
四聖諦には凡夫の想像が及びもつかない値打ちがあるとわかる。
ブッダに最も信頼された弟子サーリプッタの証言が今に残っている。
友よ、たとえば歩行する動物のどんな足跡もすべて象の足跡のなかに収まってしまい、象の足跡はその大きさのゆえに、それら諸動物の足跡のなかで最上といわれるのとちょうど同じように、友よ、どんなよい法もすべて
四つのとうとい真実
のなかにふくまれてしまう。
(中部第28経、大象跡喩経 桜部健訳)
四つのとうとい真実とは、もちろん四聖諦のことだ。
キリスト教もイスラム教も儒教も道教もギリシャ哲学もインド哲学も大乗仏教の多種多様な法も、すべて四聖諦のなかにすっぽり入ってしまう。
そして、それは苦聖諦から始まるものなのだから、自分でじゅうぶん調べて、実験して、確認して
「一切皆苦」
が眼前の事実だと納得して受け入れなければ、仏法理解はのっけにつまずく。
「苦聖諦」が仏教の入口だ。一切が苦とあなたの心が知らないうちは、仏教の門は開かず、修行しても形だけ、滅苦もない。
「苦諦」はたんなる入口にすぎず、「集諦」「滅諦」「道諦」が得られる保証はないのであろうか。
幸いなことに、そうではない。「苦諦」さえ得れば他の三つも得ることができるのだ。
ブッダは「苦が見える人は、当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える」と明言している。
(ブッダが一番に苦諦を説いたのにも深い意味がある。次に集諦、その次に滅諦、最後に道諦という「順序を正しく記憶しなさい」と、ブッダはわざわざ注意しているからだ)
動物は苦を楽と錯感覚して、夢中で苦を欲しがる。
賢いつもりの人間もその点さしたる違いはない。
苦に夢中の人が苦から解脱できるわけがないとブッダの説法にある。
全くもってごもっとも。
だから世界中いつもどこもおぞましいことになっている。
ブッダは「白衣をまとった在家で梵行をしている私の弟子である清信女の中で、サンヨージャナ(十結)の下の五つがなくなって、次の有で涅槃があり当然戻って来ない不還である人は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく、五百人でもなく、実にたくさんいます」と当時の事実を証言している。
昔も今も、人間のクオリティに変化はない。
昔の男女ができた事は、今の男女も当然できる。
「今は末法だから、ブッダの教えは実行できない」は、ボンクラの妄語だ。
仏教の目的は滅苦。
滅苦のためには、四聖諦を完璧に知る必要がある。
四聖諦を完璧に知るためには、深い禅定を得る必要がある。
深い禅定を得るためには、ブッダお勧めのアーナーパーナサティ(入息出息気づき)瞑想がもっとも良いとおもう。
「出入息念経」(アーナーパーナッサティスッタ,中部118経)は、呼吸の観察だけで自動的に悟りまで達する可能性を持つゆえに、ブッダ一押しの教えだ。この真理中の真理、真理の王を自力で完璧に発見したのは古今東西ブッダ唯一人。ブッダ以前の教えは不完全だ。他のすべての者はブッダの教えを伝え知ることで、この偉大な真理の『存在に』初めて気づく。
100億円の宝くじに当選して100歳まで長生きするよりも、この教えを1回聴くほうが得だ、とおれはおもう。
1回でも聴いておけば、その人はいつかは実践し、いつかは成就する可能性をもつから。
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だから、あなたは自分の呼吸にたどり着くだけでいい。
ピクニックは、目的地に行く道中も楽しい、テント張りも楽しいでしょう、労役だと感じないでしょう。同じように平和、幸福、成功にたどり着く道中の「今ここ」のサティも楽しく行えるのですとティク・ナット・ハン師は教えてくれる。
これは、出入息念経で今もはっきりと確認できる釈尊の獅子吼に導く、至適の教えです。
また、師は呼吸へのサティをどちらかというとヴィパッサナー瞑想の一部として説いています。しかし、呼吸瞑想に導く至適の教えとして聴くこともできるとおもいます。
これはサティのことだとおもいます。
世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。
と教えている。
これは、ブッダでなければ
決して言えない言葉だ。
え?気をつける…それだけ?
「気をつけて」なんてみんな普通に言う陳腐なアドバイスだろ。ブッダも案外平凡だなと思うかもしれない。最初は!
しかし、学び進めば、やがてこの
気をつける(サティ)
は、ブッダ以外誰も発見できなかった教えだとわかる日が来る。
これは、
ヴィパッサナー実践の勧めなのだ。
外道スシーマの逸話の続きです。