哲学日記

持戒なしの救いはない

釈尊はこのように説かれた。

 

(かい)あらば(すなは)()あり。慧あらば則ち戒あり。戒()く慧を(きよ)め、慧能く戒を浄む。…人の手を洗ふに左右相須(さいうあひま)つがごとし。左は能く右を浄め、右は能く左を浄む。(これ)亦是(またかく)(ごと)し。慧あらば則ち戒あり。戒あらば則ち慧あり。戒能く慧を浄め、慧能く戒を浄む。

 

 

 つまり、

 

持戒なしに救いはありえない

 

と明言している。

これは変えようがない事実だ。

 

 

 

 

 

にもかかわらず、
法然上人は

本願の念仏には、ひとりだちをさせて(すけ)をささぬなり。

 

つまり、念仏者に持戒の努力は必要ないと明言している。





ということは、どういうことか。

念仏者は、本願の念仏さえとなえれば持戒はおのずと成立してくるということだ。念仏三昧の生活者は、知らん間に戒が身についてくる。

 

 

さらにこれを言い換えると、自然に持戒状態になってこない念仏者は、まだ救われてないということだ。

(対偶「AならばB」と「BでないならAでない」の真理値は等しい

 

 

※上記
釈尊の言葉は「種徳経五」より
法然上人は「黒谷上人語燈録十五」より

それぞれ引用させていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs)

スティービーワンダー。
「サーデューク」…なんていい曲なんだろう。人の気持ちをやさしくさせる。 
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