(ショーペンハウアー「幸福について」2 橋本文夫訳)より引用させていただきます。
種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。…
陽気な人には常に陽気であるべき原因がある。その原因とは、ほかでもない、彼が陽気だということなのだ。他のどんな財宝にも完全に取って代われるという点で、この長所に匹敵するものはない。…
朗らかさがやって来たときには、どんな場合にでも、門扉を開くがよい。朗らかさが今来ては困るという時はない。
(引用終)
もっと言えば、我慢できる程度のひとときを、意識的に享楽すべきだ。
過去を悔恨し未来を憂慮する事は人間だけの能力だが、これは近代人にとってもはや脅迫神経症にまで劣化してる。
この避けがたい悪癖には、一定の時を当てれば十分だ。
作り物に過ぎない過去と未来のために、唯一の現実の時である「今」を台なしにしてはならない。
続けて(同「幸福について」)より引用させていただきます。
朗らかさにとって富ほど役にたたぬものはなく、健康ほど有益なものはない。…
われわれの幸福の九割まではもっぱら健康に基づいている。…
およそ愚行中の最大の愚行は、何事のためにもせよ、自己の健康を犠牲にすることである。利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のために、健康を犠牲にすることである。むしろ健康よりも一切を軽く見なければならない。
(引用終)
ところで、ショーペンハウアーは
幸福論を書き上げるには、私の本来の哲学が目標としている一段と高い形而上学的・倫理的な立場を全く度外視しなければならなかった
と、彼の幸福論の緒言で述べてる。
(幸福論は単なる処世術。人生とは関係ない)という意味だとおもう。それで人生の問題が解決するということは一切ないからだ。
では、ショーペンハウアーはなぜ幸福論を書いたのか?
ショーペンハウアーの幸福論は、
無駄な苦労はするなよ。
損と分かってることもなるべくするなよ。
というやさしい賢者の親切心だ。
脅迫神経症の悔恨と憂慮は最小限に止めて、自覚的に「今」を生きよと説いてるんだとおもう。
これで、人々のこころに余裕を作り、単なる幸福感を超えて、生死を明らめる次のステージに導きたいという意欲が、ショーペンハウアーの幸福論執筆のモチベーションだとおもう。
彼の意欲が報われることはほとんどなかったが。
ブッダが、これと似たやさしい対応を、仏道修行に専念できない在家信徒たちにしてるようにおもう。
ブッダ最後の旅の記録である大パリニッバーナ経第5章で、次のように言ってるからだ。
( [禅の視点-life-]から引用させていただきます)
アーナンダはさらに訊ねた。
「ブッダ。
もしブッダが亡くなってしまったら、ブッダのご遺体をどのようにしたらいいのでしょうか」
「アーナンダよ。そなたたちは私の亡骸についてまであれこれ考えなくていい。
そなたたちは修行を続けていなさい。努力を中断させないようにしなさい。
正しい目的を忘れず、そこにだけ向かうよう修行に専念していなさい。
私の亡骸は、王族の人々や、祭司のバラモン、あるいは資産家の方々のなかで、私のことを気にかけてくれている人々の手によって葬られることになるだろう」
(引用終)
たとえブッダの亡骸の場合であろうと葬式にかかわるな。修行者にとってそれは正しいことではない。修行者は正しい目的を忘れず修行に専念すべきであると、ブッダはここで明解に説いてる。
別の個所で、それこそがブッダに対する唯一の正しい供養であるとさえ明言してる。
しかし、アーナンダは在家信者が葬式の具体的対応に困らないように、在家信者になりかわってさらに訊ねる。
同引用。
「わかりました。
弔いの儀式はその方々に委ねます。その様式はどのようにすればいいのでしょうか」
「私の亡骸は、たとえば王の亡骸を扱うのと同じような方法で処理してくれればいい」
「それはどのような方法なのでしょうか」
「亡骸を布で包み、次に綿で包み、また布で包むという処理を繰り返し、鉄の油槽に入れ、香木の薪を積んで荼毘に付す。
そして四つ辻にストゥーパ(墓)を建てる。およそそのようなものだ。
アーナンダよ。信の篤い人々はそうしてできたストゥーパに向かって礼拝することだろう」
(引用終)
これもまた在家信者のための、ブッダの「幸福論」なのだ。
在家信者は、天界に生まれ変わって永遠と思えるほどの寿命を得て、あらゆる苦労と無縁な幸福な暮らしを望んでる。
具体的には、名声と権力を持った幸福な金持ちになりたいと思ってる。たとえば若きブッダ・ゴータマ・シッダールタがすべて捨てた、贅沢の限りを尽くした王子のごとき生活をなんとしてでも体験したいと切望してる。
修行者の目指す、二度と生まれ変わらずに済む解脱など全然望んでない。
むしろそんなものは、虫唾が走るほど大嫌いなのだ。
ショーペンハウアーが
幸福論を書き上げるには、私の本来の哲学が目標としている一段と高い形而上学的・倫理的な立場を全く度外視しなければならなかった
と、述べたように、
ブッダもここで在家信者の望む幸福実現の道を、修行者の目指す真の幸福への唯一の道を度外視して述べてる。
人々のこころに余裕を作り、単なる幸福感を超えて、生死を明らめる次のステージに導きたいからだとおもう。
とはいえ実際は、ここからストゥーパ信仰が始まり、
それと並走するように、のちの
正しい修行以外なら何でもする様々な在家信者主導「新仏教」
の残念な大迷走が始まったようにもおもえるのだが……………
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