見返りを当てにしてないふりをして無償の善行のように見せたがると、これは無知による偽善になるとおもいます。(ただする)は大唯作心が働く解脱者にしかできないからです。
いいかげんな世間では、母親が我が子に注ぐ愛情は無償の行為だといわれてますが、違います。
未解脱者の善行を、大唯作心の行為のようにおもってしまうのは無明が作用しているからで、正しい結果をはっきり意識すれば智相応になり、より清浄な善行にレベルアップできるとおもいます。
「人のため」じゃなく「自心を清浄にするため」なら、正しく因果を自覚してることなり、智慧の働いたレベルの高い善行為になる。
もちろん偽善じゃない。
因果を自覚しないでする善行為は一段劣ります。
この教えは世間と真逆です。
しかし、大多数の人々は因果の自覚なしの善行為と大唯作心の行為を迂闊に混同してるだけですから、こっちが正しいとおもいます。
無償の善行為であるべきだというのは、事実上無いものねだりで、かえって人に可能な善行を妨げて偽善に導くとおもいます。
ちなみに、偉大なカントがかの有名な「すべし道徳論」においてこの過ちを犯してるとおもいます。
ショーペンハウアーはこれを「カントが世間にひろめているのは道徳的なペダンテリー(衒学趣味)である」と批判してます。
※大唯作心 行為のみで結果をつくらない心。
人間以外の生きものは人間に役立つために用意されていると強弁して、大多数の人達は食べてるので、バランスはとれてます。
インチキですから居心地悪いですが。
感謝して残さず食べましょうといったバランスのとり方もインチキです。
生きものは人間が食べるように神が用意したんだとか、「食べてごめんね」と言えばいいんだとかの屁理屈に共感できません。
(釈尊の教えを)聞いても聞けない状態に自分でしてます。
「邪な心は、他人がするどんな酷いことより、もっと酷いことを自分自身にする」(法句経)というのは本当です。
大多数の人々は、自分たちの妄想を仏法だとおもってますね。
そして、人々に迎合する宗教ビジネスは常に繁盛し、互いに補完して、日々自分たちの共同妄想を増強している。
自分で自分の首を絞めていく。
さあいよいよ死ぬというその瞬間
「好きでも嫌いでも」とか「言いたいけど言えない」とか「見れるものなら見てみたい」とか、あれこれ思う自分が雲散霧消してますよ。
「自分」という欺瞞は、もともと生きてる間に作った錯覚ですから、消えて当然です。
でもみんな、この事実を蛇蝎のごとく嫌ってるみたいです。
「全てのものが全ての瞬間に変わり続けている」と認めるしかないんですが、何時でも口先で「認めてるよ」って言って、その都度話を打ち切って終わりにしてるんですよ。
気に入らない状況の時だけ「明日は良くなる」と信じようとする。
しかし整合性はなくていいんだと平気で思っている。
つまりは、心の底で、永遠に変わらず死なない「魂の自分」を後生大事に抱きしめてる。
もうむちゃくちゃな精神状態!
なにが言いたいかというと…
人間は、多かれ少なかれ常に自分で自分を騙しているということ。
のんきに生きるためには、本気モードで絶望を感じないようにする必要がある。
その必要に迫られて、人は本能的かつ無意識的かつ自動的に
自己欺瞞という戦略
をとってしまう。
しかし、この戦略の代償がものすごく深刻で広範囲におよんでペイしていないことに、まったくといっていいほど気づいていない。
欲に呆けた人間は、こういうとこのカンの鈍さが、絶句するほどのすかたんですわ。
自己欺瞞は、人間にとって、理性が獣性の下僕に成り果てた状態で、良い結果はひとかけらも得られない。
たとえば、魚が目の前の鉤餌に食いついて破滅するように、
餌を一噛みした一瞬だけ、見せ掛けの成功と喜びが得られるが、
その後は吊り上げられて、解決不能の混乱と悲惨のみとなる。
スマナサーラ長老のことば
私たちはいつでも目先の楽しみや刺激を追い求め、結局はそれらに釣られて苦しんでいます。ものごとに引っ掛かって執着すれば、あらゆる苦しみを味わう羽目になります。これが私たちの最大の問題なのです。しかし、客観的に事実を観察して「ものごとはすぐに消え去る儚いもの」ということを理解するなら、欲望や執着は生まれませんし、苦しみを味わうこともないのです。
(My Favorite Songs)
Canción Del Mariachi - Antonio Banderas, Los Lobos • Desperado - YouTube
(過去記事増補編集再録)