哲学日記

出家と在家があまり仲良くし過ぎると……

 

ダンマパダ404偈、出家と在家があまりに仲良くし過ぎると…… - YouTube


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この世の中で正しい人は、

お釈迦様以外には誰もいません。

 

 

ブッダの教えを学び実践し解脱した聖者は古来大勢いるが、

彼等はいずれもまだ癖(個性)が残ってる、と。

信者は聖なる人の癖の部分をからかったり、

仲間のつもりで気安く用を頼んだりすると、

重い罪になる、と。

だから出家と在家が

あまり仲良くし過ぎるのは危険である、と。これは

在家だけに危険なのでなく、解脱に達してない出家にとっても危険だ

とブッダは別の経で説いてる。

河を流れる丸太に修行者を例えた、ブッダの有名な説法に出ている。

(世界の名著1『バラモン教典・原始仏典』 からその個所「人がもち去っていってしまう」場合を引用させていただきます)

 比丘よ、人がもち去っていってしまうというのは、どういうことなのか。比丘よ、この世の中では、家庭をもった者が互いに社会をつくって住み、喜びをともにし、悲哀をともにし、種々の楽しいことにあたって楽しみ、種々の苦しいことにあたって苦しみ、(いっしょに住むことによって)生じてくる種々の義務に対しては、自らそれに参加する。比丘よ、これが人によってもち去られることなのである。(長尾雅人・工藤成樹共訳)

 

意味は極めて明瞭だ。ブッダはいつもこういう風にズバッと核心を突く。
このブッダの教えを次第に守らなくなった弟子たちによって仏教は衰退し、あるいは名前だけ残って中身が別物になった。
たとえば、
「一切衆生病めるを以て、是の故に我病む。…衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ」といった維摩経の菩薩観
このイメージに後世、さらに加上した(=人の隠れた欲を投影しエスカレートさせた)ものとして、
人々と苦しみを共にし救うために、死んでもまたこの世へ還って来る菩薩、といった曇鸞還相回向
この「死んでもまたこの世へ還って来る」ところが、人の隠れた欲です。

これらは優れた文学であって、ブッダの教えとは別物だとおもう。すなわち「さとりに向かい、さとりに流れ込み、さとりに入っていくことに」ならない。

 

ブッダの教えは究極真理。

それに加上すれば、すなわち必ず(発展、改良、革新、向上、新機軸という美名の下)修行の衰退が起きた。

 

 

 

法を守る者は、法に護られる。

 

仏教徒が法を守る意味をこのように知るとき、次のキリスト教徒のことばは新鮮に響く。

(ヒルティ幸福論第二部「キリスト教序説」草間平作・大和邦太郎訳)

より引用させていただきます。

…祝福は、とりわけ次のような点にあらわれる。すなわち、一切の事情がみたところひとりでにそう成っていくように見えながら、常にまことの善が行われ、内的生活が促進され、外的生活が保護され、危険がさけられる…邪路に踏みこんだり悪い行ないをしようとしても決してうまくいかないことである。
悪い行いが成功するということは、むしろ悪人に下される通常の罰であって、彼らはその成功のためにいよいよ頑なになり、回心を妨げられる
……
「もし人が、わたしのおきてを行うならば、これによって生きるであろう」
(レビ記18-5)

(引用終)

 

レビ記18-5は新共同訳では次のようになってる。

わたしの掟と法とを守りなさい。

これらを行う人はそれによって命を得ることができる

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