「心のきれいな人」って、どんな人?【仏教の教え】 - YouTube
親鸞聖人は、以下のごとく自ら反省せよというのだが…いささか自虐的に過ぎるのではと、ちらっとおもってしまいます。
外に賢善の相を現してはならぬ。内に虚仮を懐いている身である。貪瞋、邪偽、奸詐の端さまざまで、その悪性の止め難きこと蛇蝎の如き我等である。
かかる身に於ては、善というも雑毒であり、行というも虚仮である。真実の業とはいわれない。
それ故にその安心、起行は、たとえ晝夜を分たず、恰も頭上の火を拂うように心身を苦励しても、すべては雑毒の善である。
(以上、口語訳親鸞 教行信証付領解 金子大栄訳より引用させていただきました)
<原文>(教行信証・信巻)
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。
三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。
(以上引用終)
自ずと出てくる反省でこうならない限りなんの役にも立たないとおもいます。
それのみか、親鸞聖人の表白を、ものまねで受け入れるのは非常に危険です。もし同時に仏智の光をリアルに感じることが伴わなければ、ただ底なしの絶望しかないからです。
おれは正直まだそこまで踏みこめないので「自虐すぎる」と揶揄することで心理的バリアをはっているのかもしれません。
(以下、真宗聖典 仏説無量寿経巻下 曹魏天竺三藏康僧鎧訳より引用させて頂きます)
仏、阿難に告げたまわく、「…あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん、心を至し回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」
(引用終)
ブッダは『大無量寿経』(下)で十八願成就の文を明かしている。
つまり、全四十八願のうちで、信者にとって一番重要なのは十八願だと、誰が読んでもすぐ気づくように書いてある(とおれは思う)。
では、それを百も承知二百も合点していたはずの親鸞聖人は、なぜ「三願転入」という苦労の多いまわり道をしなければならなかったのか?
いきなり十八願を信じて救われる人が、本当にいるのか…正直、おれには分からない。
「三願転入」することによって、初めて十八願にたどりつく可能性が開けるタイプの人がおおぜいいて、このタイプの人にとって「まわり道」は実はまわり道ではなく、必然的な一本道なのだと思う。
おれには、十九願的な修行から入っていく道だけが与えられている気がする。(しかも、その入り口辺りでうろうろしているのが現状だ。やがて二十願の世界に移るとか、さらに十八願の世界に至るとか言われても、全くリアリティーがない)
【大無量寿経】
浄土三部経の一つ。
「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」(教行信証・教)
親鸞聖人は『大無量寿経』を、三部経の中心に据えていたことは、この宣言から明らかだと思う。
【三願転入】
十九願から入って→二十願→十八願に到達した親鸞聖人の宗教体験。
【十九願】
たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。(修諸功徳の願)
【二十願】
たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。(不果遂者の願)
【十八願】
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(至心信楽の願)
親鸞聖人『教行信証』化身土巻に「涅槃経」の気になる教えが引用されている。
四つの善事あり、悪果を獲得せん。
悪い結果になる善行が四つある、というのである。
(青字は経典引用文、黒字はおれの試訳)
一つには勝他のためのゆえに経典を読誦す。
相手を言い負かしてやろうと思って、仏教を勉強すること。
二つには利養のためのゆえに禁戒を受持せん。
金と名誉のために、立派な修行者をまねること。
三つには他属のためのゆえにして布施を行ぜん。
ひとを自分に靡かせるために、布施をすること。
四つには非想非非想処のためのゆえに繋念思惟せん。
真の悟りでない「洗練を極めた煩悩」を目的に修行すること。こういう善を実行してはつまらない。
経典を読誦す、禁戒を受持せん、布施を行ぜん、繋念思惟せん
仏教を勉強する、立派な修行者をまねる、布施をする、専心瞑想する
これらの善行は、とにかくまず実行すべき事なのだ。
動機が不純だろうと、ちっともかまうことではない。
ブッダは
もしどこかのお坊さんが悟りを開いたと聞いたなら、
悔しくなってでも、慢心を持ってでも、自分も悟れるように精進しなさい。
と、教えている。
やれるだけ、実際に全力でやる
ことが決定的に大事だ。
始めのうちは
「俺・俺のもの」を後生大事に温存したまま懸命に努力することになり、ブレーキを踏んだままアクセルを吹かすような具合にな
っても、かまわず続ければ、ブレーキを踏む足が、ふと緩むことだって起きるかもしれない。
そして、他ならぬブッダが、このことを保証してくれてるとおもうのだ。
「毒まじりの善」と言いたい奴には言わせておけ。
行いの伴わない「高級な信仰」は嫌いだ。
不純な動機の善行も、なんもせんよりはずっとまし。
そう思うようになった。
(過去記事統合編集再録)