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幕末太陽傳
から[ストーリー]を引用させていただきます。
佐平次と高杉
(※タイトルバックにおいて、製作当時の品川宿=京浜国道・八ツ山橋周辺および、品川橋通りの様子が紹介され、ナレーションで「今は、北品川カフェー街と呼ばれる16軒の特飲街。売春防止法施行のため、閉鎖を余儀なくされている」と、舞台の歴史的経緯が伝えられる。)
文久2年(1862年)末。品川宿の妓楼「相模屋」前で、イギリス人と長州藩士が小競り合いとなる。その際に藩士・志道聞多のふところから金装の西洋式懐中時計が落ち、通りかかった佐平次という町人の男がそれをたまたま拾う。佐平次は仲間を連れ、懐中時計を使って金持ちを装い相模屋に入り、派手に遊んで飲み食いし、仲間を帰してそのまま居座る。
一方、売れっ子の遊女・こはるの部屋にもうひとりの居残り男がいた。長州藩士で攘夷の志士・高杉晋作であった。高杉は志道ら仲間とともに、御殿山に建設中の英国公使館の焼き討ちを計画していたが、建物の間取りがわからないために頓挫しかかっていた。高杉は佐平次が懐中時計を持っているのを見かける。時計はもともと高杉の私物で、金策のために志道に渡していたものだった。時計が売れなかったことを志道から聞いていた高杉は、時計をそのまま佐平次に贈る。
ある夜佐平次は、勘定を取りに来た妓夫の喜助に「無一文だ」と明かす。楼主の伝兵衛は怒り、佐平次に「居残り」を言い渡し、代金支払いの目処がつくまで行灯部屋(物置)に押し込めた。佐平次は給仕や幇間のまねごとをして座敷から座敷を渡り歩いて金を稼ぎ、彼が客をあしらう間に体を休める女郎たちに感謝されるようになる。
年の暮れ(西暦では年が明けて1863年)。佐平次は掃除のために高杉らの部屋に入り、たどんを片付けようとするが、激しい調子で止められる。それはたどんではなく、焼き討ちのために用意された手製の焼き玉であった。佐平次は盗み聞きによって彼らの計画をなんとなく知るようになる。
おひさと徳三郎
英国公使館の建設に従事する大工・長兵衛は、相模屋に借金をしており、担保として娘・おひさを預けていたほか、仕事を終えるたびに大工道具を相模屋に置いて帰ることを決められていた。おひさは飯炊きや風呂焚きといった女中仕事に専念していたが、期日までに借金を返すことができず、おひさは女郎になることが決まる。おひさに惚れていた相模屋の息子・徳三郎は、女郎になる前に婚約すればすべてが帳消しになると考え、佐平次に十両を渡し、仲立ちを頼む。佐平次は高杉からもらった懐中時計を徳三郎に渡し「これを質入れすれば身請けするだけの大金になる」と吹き込む。徳三郎は店を出た途端に伝兵衛と鉢合わせし、さらに時計の蓋が開いて内蔵のオルゴールが鳴ってしまう。時計のことを以前から知っていた伝兵衛は徳三郎の魂胆を見抜いて怒り、徳三郎を土蔵の座敷牢に閉じ込めてしまう。おひさは父親の大工道具を使って救出を試みるが露見し、ともに座敷牢に閉じ込められる。
ここまでの様子を見届けた佐平次は長兵衛にかけ合い、おひさの解放を約束するのと引き換えに、英国公使館の絵図面を手に入れる。佐平次は高杉らに絵図面を売り、またも儲ける。高杉らが小舟で焼き討ちに出発する夜、佐平次は徳三郎とおひさを連れてきて船に同乗させ、駆け落ちさせる。
佐平次と杢兵衛
御殿山に火が上がり、女郎や客たちが鈴なりになって見物するのを尻目に、佐平次は「ここらが潮時だ」と逃げるための荷造りを始める。そこへ喜助が飛んできて「こはるの客・杢兵衛お大尽が『こはるを呼べ』と大騒ぎしている」と報告し、佐平次に対応を頼む。嫌気が差した佐平次は杢兵衛に「こはるは急死した」と告げ、座敷を去る。
寝静まる女郎や妓夫たちを見届け、佐平次は相模屋を出る。すると提灯を持った杢兵衛が待ち受け「墓に案内しろ」と佐平次に言う。佐平次はしかたなく近くの墓地に杢兵衛を連れて行き、適当な石塔を指して「こはるの墓だ」と教えた。杢兵衛は一心に拝むが、ふと顔を上げると、「享年二歳」となっていた。「墓石を偽ると地獄に落ちねばなんねえぞ」と怒る杢兵衛を尻目に、佐平次は「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ」と捨て台詞を吐き、東海道の松並木を駈け去って行った。
映画をたくさん観てると、冒頭数分観て
(これ名作だ)
って、確信する映画がたまにある。
この「幕末太陽傳」なんかが、まさにそれだ。
天性の若きスター石原裕次郎、小林旭も圧倒する、主役フランキー堺の溌溂たる怪演が素晴らしい。
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