「密教」は危険な教えなのか? 真理は公開されてこそ光り輝く|ブッダの智慧で答えます(一問一答)字幕あり - YouTube
ブッダのことば
わたしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。
……………………
「わたしは修行僧の仲間を導くであろう」とか、あるいは、「修行僧の仲間はわたしに頼っている」とか思うことがない。
(「大パリニバーナ経」ブッダ最後の旅 中村元訳 第二章より。強調処理は私です)
〔感想〕
密教は「衆生秘密」と「如来秘密」を主張する。
「衆生秘密」とは、聞いても聴けず、見ても観えずのいわゆる「バカの壁」状態で、これは当然ある。だから「衆生自秘」ともいう。
しかし
「如来秘密」は、大日如来に、ブッダも知らない秘密の握拳の教えが存在するという主張で、あからさまに愚かな妄想だ。これは当然ありえない。
この瑕疵から、加持祈祷など世俗demandの侵入を許して世間に阿り栄えたが、肝心の仏法は衰退した。
国民のdemandに乗る。
demandに乗ったら、もう
あまり意味が無いんです、
気をつけなくちゃいけない。
(スマナサーラ長老)
商売してんじゃないんだから
世俗demandには
ほんとに気をつけなくてはいけない。
取扱要注意!
なのに、
注意が圧倒的足りてない。
ブッダの次のことば、
「わたしは修行僧の仲間を導くであろう」とか、あるいは、「修行僧の仲間はわたしに頼っている」とか思うことがない。
これも、悟った人だけが達する、
透き通った境地だと思う。
ちなみに日本には、
親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
という聖言がある。(歎異抄より)