佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その11」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ) - YouTube
大金持ちの主人をすっかり信用させた
忠実な召使が、実は殺人者だというたとえ話
について。
殺人者=五蘊
自分の手足のように忠実に働く五蘊を
「俺、俺のもの」と妄想すれば、
即、悪魔の虜になる。
(あ、この悪魔も擬人法的たとえです、念のため)
生きとし生けるもの誰もが悪魔の支配下にある。
この世の一切が悪魔のものだということは、
ブッダも初転法輪の初めから、明確に認めてる。
(そのうえで、こうしたら悟れたという唯一の道を発見し、説き広めた)
言うまでもなく、悪魔もこれを認め、誇っている。
悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ 中村 元訳 第2章第9節「耕 作 者」
より引用させていただきます。
(悪魔・悪しき者は、このようにブッダに語った)
修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
嗅覚作用はわたしのものだ。香りはわたしのものだ。嗅覚作用が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
舌はわたしのものだ。味はわたしのものだ。舌が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
身体はわたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
心はわたしのものだ。心で考えられるものも、わたしのものだ。心の接触から起こる識別領域は、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか。
(相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項)HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版『五蘊は知り尽さなければならないもの』より引用させていただきます。
比丘のみなさん。形に夢中になっている人は、
その人は苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。受に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。想に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。識に夢中になっている人は、
苦であるものに夢中になっているのと同じです。
私は「苦であるものに夢中になっている人は、
その人は当然苦から解脱できない」と言います。
※この衝撃的事実を深く理解するために、
五蘊と十二処の関係等の基本知識
で認知の解像度を上げることが、極めて有益です。
この稀有の分析知識をブッダの助けなしに自得するのは、
マルティン・ハイデッガーのごとき天才哲学者でも、不可能です。
Wikipedia「三科」より
では、
ブッダも認め、
悪魔も認めてることを、
いったい、だれが認めないのか?
たとえ話の「大金持ちの主人」
=悪魔の策略に気づかず
信頼しつづける世間の人々
だけが、頑なに認めないのだ。
悪魔の支配下で
どれだけもだえ苦しんでも、
その苦を愛し夢中になってる。
やがて必ず自分を殺す刺客を、
恋人のように慕ってるのだ。
彼らは
自分を信じてないから、
誰一人悪魔から脱れられない。
自分を信じられないのは、
心の底に恐れがあるのに、
それを不誠実な態度でごまかしてるからだ。
心の恐れを、ごまかさずにいられないのは
「人は死んでも、自分だけは死なない」
と思ってるからだ。
嘘を信じようと無理をするから、
自信がもてなくなり、
ブッダの勧める自灯明の人生を歩む
ことが根底的にできなくなってる。