哲学日記

人はみな、なぜこんなにも孤独なのか


人間の最奥の心の悩みは、たとえ
どれほど親しい家族にも打ち明けることはできない。大多数の人々はこの事実に気づこうとさえしたがらない。その意味で人と人とのコミュニケーションは、ほぼ不可能だ。

しかしいかに意識下に抑圧しようとも、相手と本当の意味でコミュニケーションがとれてないという辛く寂しい孤独感は各自に明々白々なので(自分の心に、静かに、問うてみて)

その慰撫策として「いい天気ですねえ」「ほんといい天気」と言い合う微温的共感から始まって、神を信じる者同士の一体感まで、実に様々な方法が発明されたのだとおもう。

 

残念ながら、どれも解決策にはほとんどなってない。少なくともおれは日々そう感じる。おれは相手を本当には理解できないし、相手も同様だろうと感じてる。

 

いやいや、十分でなくてもそのつど必要な程度には理解しあってるよ、その証拠に社会は日々正常に機能してるじゃないかと、多くの人が反発するのは、われなべにとじぶた式の幻想のコミュニケーションをまともなシロモノとみなしているからだ。

実際、幻想のコミュニケーションこそ社会を支えている素晴らしい文化だという無鉄砲な楽観が、この世間の頑愚なスタンスだ。

世間の奴隷理性は、地獄に生まれても、

地獄に生まれて最高!
とおもうようにできてる。

 

この記事は「それはぜんぜん間違ってるよ。あんたらもほんとは知ってるでしょうに」と注意を喚起したものだ。

スマナサーラ長老に、みんなで同じ蜂蜜をなめて「甘いね」「甘いね」と同じことを言い合っても各人の感じた甘さは同じじゃないという意味の説法がある。

 

コミュニケーションに関する、この上ない重要な指摘だとおもう。

 

「ブッダとキリストの間なら、コミュニケーションがとれる」←このレベルのことを、簡単にできるように装えば、毎々苦い後味が残るのは当然だし、たとえ共同幻想に首までどっぷり浸かろうと、気分良く酔っ払い続けることは、誰にとっても無理な話だとおもう。

 

(過去記事増補編集再録)

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